優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2009年11月

□◆□…優嵐歳時記(1999)…□◆□

  彩りや十一月の森ゆけば   優嵐

暖かな姫路では、秋よりも冬に入ってから山が彩りを増していきます。自然歩道沿いも黄葉があちこちに見られるようになってきました。風もなく暖かく、播磨灘は冬霞におおわれて島影が見えません。頂のベンチで寝転んで身体をのびのびと伸ばせる、まだそんな陽気です。もともと冷え込む日は年に一度か二度程度しかありません。雪もほとんど降らず、北国や雪国の方からすれば冬ともいえないのどかな冬です。

オークションをやりながら、これはさまざまなシステムの集積の賜物だと感じています。まず、インターネット高速通信の常時接続が可能にした世界です。しかし、それだけではなく、こうした場を作った企業、デジカメの普及、荷物の迅速な配送追跡システム、安価で信頼性が高い送金や決済システム、さらに郵便という非常に信頼性の高い仕組みがすでに長年に渡って構築されていることなどがあげられます。

インフラというのはこういうもの全体を指していうのでしょう。また、出品者と落札者というお互い見ず知らずのものの信頼関係によって成り立っている仕組みだともいえます。簡単にお金を騙し取られたり、爆弾が送りつけられるかもしれないような社会ではこんなことはできません。誰か一人が構築したわけではなく、日本という社会全体でこういう仕組みを成り立たせているのだと思うと、あらためて凄いと思います。


<りんごのなかに>
りんごをむいた
甘酸っぱい太陽の香り
信州の日差しと雨と風が
その中につまっている

「一枚の紙に雲を見る」と
ティク・ナット・ハンは言った

手元にある一枚の紙の中には
その紙を育てた森
その森を育てた雨
その雨を生んだ雲
すべてが詰まっている

世界にあるすべてのものが
そうだとしたら
この世に自分と無関係なものなど
なにひとつない



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□◆□…優嵐歳時記(1998)…□◆□

  初冬の鳶ゆったりと空を舞う   優嵐

今日も暖かでした。小春日和です。自家用車が車検の時期あたり、知り合いがスズキ自動車の販売店にいるため、そこにお世話になることにしました。代車として新車のワゴンRを借りたのですが、これにびっくりしました。いわゆるキーというものがないのです。ドライバーは電子信号を発する小さなキーホルダーのようなものを持つだけです。

今乗っているのはほぼ十年選手のトヨタのスプリンター・カリブです。ドアの開閉は電子式ですが、車の始動にはキーを差し込んでいました。ところが、この新車はドアノブに指を触れればドアロックが解除されます。さらにハンドルの横にスイッチのような部分があり、ブレーキを踏みながらそこを押せば始動するシステムになっています。

このシステムのメリットはいちいちバッグからキーを取り出さなくてもいいということです。キーがどこかに紛れ込んで探し回ったという経験は誰もがあるでしょう。そういうわずらわしさから解放されるというだけで、たいしたものだと思いました。キーは差し込んで廻すものという固定観念を外しているのが画期的です。

うーむ、これは立派な販売戦略だとも思いました。ただ、トヨタの車もさすがで、ただの一度も調子が悪くなったことがありません。雨ざらしで駐車しているにもかかわらずです。次の車検のころには燃料電池車があたりまえになっているかもしれません。それまで待ちましょう。


<立ちどまって>
一生ものなんて嘘である
モノのなかった時代なら
そういうことがあり得た

今は日進月歩で
新しいいいものが次々に出る
身のまわりのすべてのものが
一昔前とは違うサイクルで回っている

だから用心していないと
それにながされてしまう

すばらしいですよ
これを買わなければ
遅れていますよ

メディアはそういい続ける
立ちどまって考えよう
それは本当に必要なものか

すばらしいものもたくさんあるが
無いほうがいいものもある
必要だと思い込んでいるだけだ
メディアの中毒になって

隣の人が持っているものは
どれもこれも
あなたにも必要だという時代は
もう終わっている

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□◆□…優嵐歳時記(1997)…□◆□

  穏かに山の連なり今朝の冬   優嵐

暖かな冬の入りでした。俳句をやっていると、季節の変わり目四つが新たな季の始まりで、新年以外に気分を新たにすることができます。こういう機会はいくつかあった方がいいなと思います。紅葉も昨日から俳句では「冬紅葉」になります。同じじゃないかといわれればそうですが、年があけると、同じものもみんな「初」とつきます。そういう感じです。

増位山自然歩道の散歩はとうとう丸一年を通して続けることができました。どこかへ行ってそこの自然を愛でるのもいいですが、こうした身近な自然であっても四季全部をまるごと見るといろいろと発見があるものです。

途中の広場のアベマキは黄葉が進み、葉を落とし始めています。一方、近くにあるコナラはまだ青々としています。同じ場所の似たような落葉広葉樹でありながら、こんなに差があるのです。


<自由を>
これほどモノに埋もれていたとは知らなかった
自由になりたかった
星空の下で眠りたかった
誰もいない草原に行き
遠い海原を越えたかった

そのために用意したものの数々
いったい自分は何をしていたのだろう
荒野へ行こう氷壁へ行こうと
アウトドアメーカーは誘う
ダートバッグというんだそうだ
自由がそこにある…

そう思い込んでいた
だけど違う
アイゼンやピッケルや重厚な装備が
なくては行けない場所
それに必要な数々の道具をそろえなければ
生きることさえままならないならない場所に
自由はあるか

自由になるつもりで
アウトドアメーカーの戦略に
まんまとはまっていただけじゃないか

ブランド崇拝の人々と何も変わらない
別の意味でのブランドを崇めていただけだ

削ぎ落としてやっとわかった
自由は荒野にも山の頂にも無い
それはわたしの心のなかにしかない



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□◆□…優嵐歳時記(1996)…□◆□

  行く秋を日差し明るく送りけり   優嵐

今日は立冬です。週の初めに冷え込みましたが昨日は暖かく、またしばらくこういう気温の日が続くのかもしれません。そしてまたぐっと寒くなる日があるという具合でしだいに冬が深まっていくのでしょう。

このところ読書もそっちのけでオークション出品にはまっているのですが、いろいろと勉強になります。値段の設定の要領が最初はなかなかわからなかったのですが、しだいにこれは市場にまかせるのが一番だとわかってきました。もともとの値段とか新品か中古かということに関係なく値段は市場の要求によって決まっていきます。

こんなものに買い手がつくかな、と思いながら出品したものが数倍の値段になることがある一方で、まったくの新品なのに見向きもされないものもあります。値段を下げてなんとか売り切ったものもあれば、処分するしかないな、とあきらめたものもあります。梱包や発送の手間を考えればそれもやむを得ません。


<見えないもの>
世の中には
人の目には速すぎて
見えないものがある
回っているプロペラの羽
走りすぎる新幹線の窓
落ちてくる雨粒

一方
ゆっくりすぎて見えないものもある
季節の移り変わり
時計の短針の動き
子どもの成長

気がつけば
いつの間にかそれはそこにある

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□◆□…優嵐歳時記(1995)…□◆□

  えのころを夕陽黄金に染めにけり   優嵐

「えのころ」とはエノコログサのことです。日本全国の畑地や荒地でどこにでも見られます。猫じゃらしとも呼ばれ、アワの近縁で農耕伝来とともにユーラシア大陸からやってきたと思われます。

今日は6日、ZARD・坂井泉水さんの「誕生の日」にちなんで、ZARDの楽曲について書いてみます。今日取り上げるのは『Dangerous Tonight』です。ZARDの4番目のシングル『眠れない夜を抱いて』(92.8.5)のカップリング曲で、3番目のオリジナルアルバム『HOLD ME』(92.9.2)に収録されています。

負けないで』(93.1.27)でのブレイクが目前に迫っており、ZARDがダークなハードロック色を前面に出していたのはこのあたりまでだったでしょう。もし、『負けないで』が存在せず、ずっとこの路線だったらどうだったか、と想像すると興味深いものがあります。こうした路線では成功しなかったとは思いません。ただ、ここまで大ブレイクしてJ-POPの基盤を作ったといわれるほどのアーティストになったかどうか、は別です。

これは、アーティストが決定的な代表作をひとつ持つかどうかでその存在が決まってしまうひとつの典型でしょう。作品を生み出したのはアーティストですが、逆に巨大な作品というものは、すでにどこかにいて、その人を選び指名してやってくるような気もします。

Dangerous Tonight



坂井泉水さんの詞のひとつの特徴は、思いもかけない言葉の組み合わせです。どちらも普通の言葉なのですが、そのふたつをいっしょに使うか?というような使い方がされ、予想外の効果を発揮します。

この作品の中でもサビで「so 何もかも嫌になる程 激しく抱き合いたいの」と「もう何もかも嫌になる程 愛して夢を見させて」と歌っています。普通、”何もかも嫌になる”という言葉と対になるのは否定的な単語だと思うのです。「自暴自棄になった」とか「無茶をした」とか「死にたくなった」とか…。

ところがこの歌詞では、その後に「激しく抱き合いたい」とか「愛して夢を見させて」というような、いわば恋愛の極致といっていいような喜びや楽しさを表現する言葉が続きます。このアンバランスは何?と意表を突かれます。これは9月27日に取り上げた『汗の中でCRY』でもそうでした。「張り裂ける喜び」の「張り裂ける」と「喜び」の取り合わせです。言葉でフェイントをかけられているとでもいいえばいいでしょうか。

常識的な言葉の使い方の中にどっぷり入り込んでいては、こういう表現はできないだろうと思います。なんでもないけれど、表現されてみて初めて、こんなことがあったのか、というコロンブスの卵のような使い方です。

また、この曲の世界はかなり切ないというか、女性は男性をつなぎとめたいと願っているが男性はどうなんだろう、という雰囲気です。それだけに「もう何もかも嫌になる」というところの表現、彼女の歌い方そのものもそうした複雑な、切ないようなじれったいようななんともいえない感覚を表現しています。見事なボーカルです。

□◆□…優嵐歳時記(1994)…□◆□

  風の音秋の名残を告げにけり   優嵐

今週に入ってがくっと寒くなりました。近年は暖かいまま冬に入ることが多く、晩秋の風情を詠む機会があまりなかったのですが、今年は少し違います。明後日の七日が立冬です。寒くなるのは嫌だなあという人は多いでしょうが、やはり暑いときは暑く、寒いときは寒くあるのが季節の巡りとしていい、と感じます。

オークションにどんどん品物を出して、部屋の中も押し入れも少し広くなったような気がします。引越しでもするのかとゆうパックを出しに行く近所の郵便局の方には思われているかもしれません。それにしても、こんなにあったか、と驚きます。恐らく日本中のお宅の押し入れや倉庫に眠っている物品は膨大な量でしょう。一度、発掘をなさってみては?

<静寂>
いつの間にか夜がすっかり静かになった
虫の音がついにやんだのだ

姿を見せたとき
鳴きはじめたとき
人は目ざとくそれを見つけられる

けれど
去っていくとき
鳴き終るとき
人はほとんどそれを捉えることができない

ああ、いってしまったんだな
そう思うばかりだ

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□◆□…優嵐歳時記(1993)…□◆□

  冷まじき満月雲をひきつれて   優嵐

「冷まじ(すさまじ)」とは、「荒ぶ(すさぶ)」「すさむ」の形容詞化した語です。『枕草子』や『更級日記』の中で、寒さを基調にした興ざめの意を持って使われていたといいます。興ざめが転じてやがて白々とした冷たさ、寒さを表すようになりました。現在でもつまらない冗談に対して「さむ〜」などと言いますが、平安時代から「寒さ」にそういう意味がこめられていたのかと思うと、面白いなと感じます。

日本人が凄く変わったと言われますが、感情や感覚の本当に根本的なこと、基調となるものはそれほど変わっていないのではないでしょうか。そもそも「人間」である以上、全世界・全歴史上のホモサピエンスの感覚は違っているところよりも同じ部分の方がはるかに多いと思います。

日曜の夜から突然風が冷たさを増し、月曜の夜の満月はまさに寒々として見えました。晩秋ですから、そろそろこういう風情が出てきていいころです。「荒ぶ」は、ものみな勢いが尽きて荒れ、枯れが進んで衰えていくことをさしています。


<失敗は>
子どものときから
ケアレスミスが多かった
恐る恐るやっているときは
だいたい失敗をしない

危ないのは少し慣れてきて
あ、軽いね
と思ったときだ
そこに落とし穴がある

失敗なんかするわけないよ
と思い始めたときに
しっかり落とし穴に落ちる

弘法も筆の誤りという
弘法にははるかに及ばぬ私は
筆先を確かめるのを
忘れないようにしなければ


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□◆□…優嵐歳時記(1992)…□◆□ 

  絶え間なく紅葉かつ散る雨の午後   優嵐

日曜の午後に寒冷前線が通過し、気温がさがりました。山から降りた後、グリーンエコー笠形の「響の湯」に入り、しばらく休憩所で、流れていく霧、雨にうたれて散り始めている紅葉を眺めていました。晩秋の寂寞とした風景です。

飛び石連休の谷間の昨日は、雲の様子が冬の近さを感じさせ、風があり、しぐれっぽい空模様でした。いよいよすべてが枯れていく季節に入るのだなと思いました。晩秋から初冬のころがもっとも寂しさの募るころです。これから木枯しが吹き、木々が葉を落とします。

すっかり落葉がすんでしまえば、落葉樹の森は林床まで冬の日差しが差し込んでむしろ晩秋のころより明るくあっけらかんとしています。さっぱりして、さあ、次は春を待つばかり、そういう感じです。陽の極に陰が始まり陰の極に陽が始まる、季節はまさにそうですね。


<ジェットコースター>
長月の満月は冬を連れてきた
十年なんてあっという間だよと
ある人がいった
子どものころは
本当かなと思っていた

でも近ごろそれは確かなことだと
じわじわわかり始めている
わかり始めたころには
タイムリミットが迫っているのかもしれない

時間には限りがあることを
ずっと若い日が続くわけではないことを
なぜ子どもの間に理解できないのだろう

子どものころの時の流れは
スタートしたばかりのジェットコースターのよう
じりじりじわじわ高みへと
じれったいほどにゆっくり登ってゆく

小学校時代は永遠に終わらないんじゃないかと
大真面目に思っていた
ところがどうだ
最高点から落下を始めたジェットコースターは
加速度をつけてぐんぐん走る

遠心力で振り回され
ループをぐるぐる回る
がくん、がたん、ごぉー
手すりに必死でしがみついているうちに
ほら、もうそこにゴールが


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□◆□…優嵐歳時記(1991)…□◆□ 

  その下で沸かすコーヒー紅葉狩   優嵐

おかしなことというのは続くものかもしれません。パソコンで文書を作成すると、これまでSDカードにとりあえず保存してきました。一昨日もこのblogの下書きをして保存しました。その後、画面に文書を表示したままいったん文書のSDカードを取り出し、写真をアップするためにデジカメのSDカードに差し替えました。

写真をアップしblogの文書もアップして、デジカメのSDカードを抜き、さて文書用のSDカードを入れようとしたら、それがどこにも無いのです。机の上にはそれほどモノがありません。ですから何かの間に挟まっているとも思えず、机の下に落ちたのかとも思って探しましたが、やはりありません。

それほど大きなものではありませんが、まぎれてしまうほど小さなものでもありません。ほんの10分ほどの間にSDカードが忽然と消えてしまいました。こういうときはばたばたと探し回っても出てこないものですし、もしかしたら本当に神隠しにあってしまったのかもしれません。

そして日曜には、お天気が昼ごろから崩れるとはきいていたのですが、兵庫50山のひとつ笠形山へ神河町のグリーンエコー笠形から登りました。半分ほど登ったところで左足に違和感を感じました。なんと、トレッキングシューズのソールが踵からはがれ始めているのです。

そのまま登りましたが八合目あたりで雨がぱらぱらし始め、靴のこともあって引き返すことに。途中、コナラの黄葉の美しい場所の下でお昼ご飯を食べました。山登り転じて紅葉狩です。その間は雨が落ちず、歩き出すと本格的な降りが始まりました。そして、麓まで降りると同時にソールが完全にはがれてしまったのです。

双方の出来事には何の関係もないといえば関係がありません。しかし、私にとってはこれらは意味のある偶然なのです。SDカードは何かの予兆かもしれず、ソールのはがれ具合、雨の落ちるタイミング、それらすべてがつながっているといえばつながっています。

雨が落ち始めなければ頂上まで行ったでしょう。そうすれば下山までソールはもたなかったかもしれず、そうするとケガにつながっていたかもしれません。何がいいことで何が悪いことかわからないものだ、とまた思いました。


<サイン>
何かを感じ取る
そのアンテナを常にたてておけ
サインはずっときている
気づかないのは
あなたが見ていないから
あなたが聞こうとしていないから


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□◆□…優嵐歳時記(1990)…□◆□

  十三夜静かに髪を洗いけり   優嵐

10月30日から31日にかけてが十三夜でした。陰暦九月十三夜の月です。今年は閏五月があったため、十三夜がかなり遅くなりました。月は少し雲がかかっていましたがその雲の流れが月に立体感をもたらし、いいお月見ができました。

日本には古くから陰暦八月の十五夜と並んでお月見をする習慣がありました。枝豆や栗を供えることから「豆名月」「栗名月」と呼ばれ、名月の一ヶ月後であることから「後の月」、お月見をするには最後の月なので「名残の月」とも呼ばれました。

娯楽が少なかった昔には月を眺めるのは大きな楽しみだったようで、十五夜にもてなされた家には十三夜にも訪れてご馳走になったといいます。ハロウィンもいいですが、十三夜を楽しむというのも日本人らしくていいのでは、と思いました。


<月>
その昔人は月に憧れた
月からやってきた
美少女がかぐや姫

いま不夜城の都会に暮らす人々は
月を見上げることもなく
月の満ち欠けすら忘れた

けれど人の内には月がいる
人の生命の満ち干を
司るおおもとに月が

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