優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2009年12月

□◆□…優嵐歳時記(2050)…□◆□

  白檀の香はいずこより年の暮   優嵐

手元の『カラー版 新日本大歳時記』(1999)には「終相場(しまいそうば)」の解説として、「株の各取引は毎年12月28日の相場を終わって、翌年1月4日まで休む。年末最後の相場立てを終相場という」と書いてあります。しかし、これはすでに昔話です。2007年まではそうでしたが、昨年から12月30日が終相場になっています。

新年の初相場を「大発会(だいはっかい)」といいます。これは今年まで前場(午前)のみの取引でしたが、2010年からは通常の取引になります。土日をはさむため、年末年始としてのお休みは大晦日と元日のみということになります。電子取引で世界の株式市場はつながっており、日本の相場が一週間ものんびり休めなくなっているということなのかもしれません。

随願寺の庫裏では明日の除夜に向けての準備にお忙しそうでした。それでも散歩にきている私のために生姜葛湯を出してくださり、冬桜を見上げながらいただきました。近所の畑の脇に水仙が咲いているのを見つけました。早春の兆しです。


<蕾>
握りしめた赤ん坊の拳のように
紅梅の蕾がふくらんできた
白梅も天に伸ばした枝いっぱいに
冬芽をつけている

寒中の冷え込みを通り抜け
日脚の伸びが感じられるようになるころ
一輪また一輪と花を開く
一輪ほどのあたたかさを運んで

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□◆□…優嵐歳時記(2049)…□◆□

  快晴の本堂に注連飾られて   優嵐

注連縄は神を祭る場所であることを示すために張ります。注連縄を張られた場所は年神(正月の神)を迎える神域になります。大晦日に飾ることは「一夜飾り」といわれ忌むべきこととされています。随願寺にも注連縄が飾られていました。姫路は明るく暖かい年の瀬です。

自然歩道で黒松を切って帰られる女性に会いました。病院の栄養士さんだそうで、患者さんに出すお正月の献立に使われるのだといいます。黒松でないと銀杏がうまくさせないのだとか。病院で新年を迎えられる方のために少しでもお正月らしいものをと工夫されているのでしょう。

門松には黒松(雄松)と赤松(雌松)を使います。随願寺の門松も向かって右に黒松、左に赤松が使われています。松竹梅のほか、南天、葉牡丹などが組み合されています。門松は年神が降臨する神木を意味します。今日は小晦日(こつごもり)、今年もあと何時間と測られる長さになってきました。


<一年の計>
一年の計は元旦にあり
いや元旦ではもう一年が
始まっている

一年の計は大晦日としたい
大晦日
時の流れを誰もが意識する日

過ぎ去っていく年の背を
みなそれぞれの感慨を持って見送る

新しい年がどのようなものになるか
それは誰にもわからない
わたしたちは明日のことさえ
わからないのだ

けれど何があっても
顎を引き背筋を伸ばして行こう
すべてはおのれの魂の
成長のためと信じて


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□◆□…優嵐歳時記(2048)…□◆□ 

  ねんごろに畳んで捨てる古暦   優嵐

すでにどこの家でも新しい年のカレンダーを用意されているでしょう。まだ今年は今年ですが、新しい暦を見ると今使っているものが古びて見えてきます。「古暦」はそれを象徴する季語です。新しい年への期待感がそうさせるのです。

先日、mixiの画面からmixiボイスやニュース・PR欄をすべて非表示にしましたが、今度はココログ管理画面の清掃ができました。今、定期的に更新しているblogはこことココログにおいている「COXの読書ノート」という読書blogです。

ココログというところ、blogの画面そのものはすっきりしています。ところが、管理画面にしばらく前からいろいろ変なものが付け加わるようになりました。特に、ココログニュースとかコネタマとかいうのは、ユーザー側で非表示にできす、邪魔でした。あれはコマーシャルでしょうか、いったい何でしょう?

コネタマというのは、ネタを提供するのが目的でしょうか? こっちは書きたいことがあってblogを書いているのであり、そのようなことを示唆していただく必要はありません。ニュースも自分が読みたければどこででも読むのであり、わざわざblogの管理場面でそのようなものを読みたいとは思いません。mixiボイスを非表示にできたのだから、もしかしたらと思って検索すると、ありました。

Firefoxの場合、Adblock Plusというアドオンをインストールして使います。

1.Firefoxが前提
2.アドオンのAdblock Plusを入れておく
3.ツール -> アドオン -> Adblock Plusnの設定 -> 追加で
https://blog-neta.cocolog-nifty.com/
を追加。

管理画面にずらっと並んでいた不要な表示がすべて一瞬にして消え、Web広告の将来は厳しいかもしれないなとまた思いました。広告や類似のスパム表示を表示させない方法はいろいろあり、ブラウザやウイルスソフトにそうした機能が組み込まれているものもあります。Adblock Plusはフリーソフトですが、お金を払ってもいいからスパム表示を見たくないという人はかなりいると思います。Adblock Plusのスローガンは「広告は過去の遺物だ!」というものであり、同意する人は少なくないでしょう。


<年深し>
ビルの灯りの向こうに
夕焼けが広がっている
オレンジ色が
次第に群青へと溶け込んでいく

少し日脚が伸びた
夕映えを浮かべて川は
年の深みへと流れていく


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□◆□…優嵐歳時記(2047)…□◆□

  年惜しむ出会いしものに感謝して   優嵐

「年惜しむ」は一年を振り返って、その年が過ぎ去っていくことを惜しむ心持ちを表した季語です。一年をしみじみと思い返す気持ちが背景にあります。今年は私にとっては非常に重要な年になりました。生涯最高の年であり、もしこれからどれだけ生きたとしても今年ほどエポックメーキングな年はもうないだろうと思います。

昨日読み終わった五木寛之の『人生の目的 』の中に<如来>について書いてありました。浄土仏教は阿弥陀如来に一途に帰依するものです。阿弥陀如来が「どのような人であろうと救う」とたてた誓願を信じ、そこに救いの道を見出します。ここで五木寛之は「人間が仏を見出すのではない。仏が人間を見つけて歩み寄ってきてくれるのだ。それが如来ということの意味である」と書いています。

絶対的な仏の叡智の光を「真如」といいます。<如来>とはその真実の光の中から人間に向かって歩みだして来てくれるものなのです。人間がどこを向いていようとすぐそばまで来てくれ、「こちらを見なさい、私はここにいる」と呼びかけてくれる存在です。

この春、自分に起こったことはこれに近かったと思います。梅林やZARDを介在させて私に呼びかけてくれたものがあった。それはもう理屈とかそういうものではありません。「不合理ゆえにわれ信ず」という言葉があります。信仰とはそういうものなのです。証明されたら、何かいいことがあったら、信じましょうというのとは全く違います。

圧倒的な何か、私自身の心に直接語りかけてきてくれた何かがありました。それによって外側の何かが変ったわけではありません。しかし、自分の内側からものを見る目、物事に対する考え方を根本的に変えてしまいました。あんなことができるのは神仏という名で呼ばれる何かでしかありえない、と思っています。


<光の中から>
如来は光の中から歩みだして来る
多くの仏像に描かれるような
神々しい姿を想像する

ところが実はそうではなかった
如来は自在に姿を変える
観音菩薩を代理に送ったかもれない

観音も自在に姿を変える
人間にはとても想像できないような姿で
如来も菩薩も
本当はあらゆる場所に顕現している

こちらを見なさい
その声が聞こえたのはなぜだろう
光の彼方から歩み来る如来の声が

それは私自身も光の一部だからだ
神も仏も遠い空の彼方にいるわけではない
いつでも隣にいて
私たちがその呼びかけに耳を傾けるのを
待っている

もしかしたら私たちの
内にいてずっと呼びかけ続けて
いてくれたのかもしれない

神仏に時間というものはない
人間が耳を傾けるまでずっと
その呼びかけをやめない

たとえ人間がどれほど愚かで忘恩の徒で
あったとしても
光の一部であることを思い出しなさい
そう呼びかけることをやめない



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□◆□…優嵐歳時記(2046)…□◆□

  よく晴れて枝の向こうに冬の空   優嵐

寒波が去り風もなく穏かな年末になっています。今年最後の坂井泉水さんの月命日です。歌詞について、今日はちょっと視点を変えてみます。ZARDの楽曲を聴いたとき、特にそれが女性の視点から見た歌詞の場合、作詞者である坂井泉水さん自身のことを歌っていると思う人が珍しくないようです。しかし、私はあまりそのようには思いません。

経験を膨らませている部分はあるでしょうが、彼女が自分自身のことを直接歌詞にしているケースは少ないのでは、と思います。体験だけをベースに150曲ものラブソングを書くことはできません。プロの作詞家としては枯渇してしまいます。

それに、恋愛は人それぞれ多種多様のように見えながら、実はそこで起こることにそれほど幅はありません。だいたい似たようなことを経験するからこそ、見事なラブソングに多くの人が共感できます。クリエイターにとってラブソングは「型」としてあり、その型を使いながらさまざまにバリエーションを変え、自分のメッセージを織り込んでいるのです。

ただ、歌詞の端々から坂井泉水さんの人となりや成育環境を思い描くことは可能です。そういうことは直接的なメッセージよりも、ちょっとした言葉の綾の中に現れるものです。彼女はあたたかい家庭に生まれ育ったのだろうと私は想像しました。ZARDの楽曲の大半を聴いていますが、家族のことを例えにひいて歌っている曲がいくつかあります。

そのひとつがZARDの19番目のシングル『Don't you see!』(97.1.6)です。この中に「裏切らないのは家族だけなんて寂しすぎるよ」という歌詞があります。「裏切らないのは家族だけ」とは、必ずしも誰もが言えるものではないでしょう。

Don't you see!



同様に24番目のシングル『息もできない』(98.3.4)の中にも「ひとりでいる時も友達や家族とたわいなく話す話題も大切な時間だけど」というフレーズがあります。「家族とたわいなく話す」ということをあたりまえに歌詞にできるというのは、それがあたりまえすぎて疑う余地もないことだったからでしょう。

息もできない



また、9番目のオリジナルアルバム『時間の翼』(01.2.15)に収録されている『hero』では、冒頭で「初めて会った時から家族のような気がしていた」と恋人のことを歌っています。これは彼に対する最大の賛辞であり、信頼の証の表現といえます。

hero


男女や友だちの間には裏切りや確執があるかもしれないが、彼女にとって生まれ育った家庭ではそのようなものは全く想像もできなかった……、素晴らしいご両親に恵まれたといえるのではないでしょうか。

□◆□…優嵐歳時記(2045)…□◆□ 

  枯野原川は光りて流れけり   優嵐

年賀状をすべて出し終えました。予定より早く済ませることができ、もう年内の仕事は残っていません。ゆっくり来年のことでも考えるかなと思っています。十月以降オークションであまり本を読んでいませんでした。三ヶ月で十冊しか通読した本がないというのは異例のことです。年末年始は本も読みたいと思います。

今、五木寛之の『天命』と『人生の目的 』という本が手元にあります。そこに浄土仏教のことが出てきます。今年は法然という存在に出会えたことも素晴らしい出来事でした。何より法然のあの懐の深さ、何ものも受け入れるという寛容さが魅力です。

こうした新しい出会い(必ずしも現世に生きている人ではなくとも)があるから楽しいですね。昨年は易に一年のうかがいをたて「随」と出ました。「従う」という意味です。振り返って、指し示されるものに従って「大いに享る貞しきに利あり」でした。新しい年を迎えるにあたって、今年もそのようにしたいと思います。


<やがてそこで>
源流に降った一滴の水は
自分がどこへ行くのかを知らない
急峻な源流を流れくだり
岩を食み

一滴の水は川へと成長する
これが自分の道だったかと
ためらうことがあるかもしれない
それでも川は流れることをやめない

蛇行しながら昼夜をわかたず
何ものかに導かれて流れていく
しだいに太くゆるやかに
ある日水滴は
自らをひきつけていたものを知る

海だ
そこへ還るために長い道のりを旅してきた
やがてそこで憩うために

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□◆□…優嵐歳時記(2044)…□◆□

  よみがえるあの太陽よ降誕祭   優嵐

クリスマスイブの朝、ZARDのコンサートに行こうとしている夢を見ていました。コンサート会場に行こうとしているのですが、なかなかたどり着けません。会場はすぐそこのはずなのですが、野原や川の土手のようなところに出て、いろいろなものに出会います。花の写真を撮っているグループに出会ったりもしました。

途中、建物の中に入りその何階もある建物の階段を昇り降りしました。コンサート会場へ行かなければならないと思っているし、そこを目指していることもわかっているのになぜこんなに遠いのだろうと夢の中の私は不思議に思っています。

建物の中で管理人のおじさんからこれをはいていくようにと奇妙な履物を渡されます。なんだかいろいろなものをつなぎ合わせたようなボロボロの履物なのです。見ただけで履かなかったかもしれません。とにかく会場がえんえんと遠く、すぐそこのはずなのになぜ着かないのだろう、と思っているうちに目が覚めました。

これも今年を象徴するような夢です。父の夢に出てきた扉のむこうの世界のように、このコンサート会場は生身の身体ではたどり着けない場所なのかもしれません。そこへたどり着くべく試行錯誤することが今の私のするべき仕事なのでしょう。

今年の私の心理的な変化にZARDの坂井泉水さんの存在が影響を与えているというのは確かです。なぜ彼女なのか、ここのところが不思議です。彼女の生前には、ZARDの曲をほとんど聴いたこともありませんでした。「導き手」ならもっとそれらしい、たとえば天使とかスピリチュアルな存在が出てきてよさそうなものですが、そうではない。ただ、そうではないから逆にリアルな何かを感じさせてくれるとも言えます。


<小楢>
寒波が去った山頂は
穏かな日差しの中だった
いつの間にか
小楢がすっかり葉を落としている

あとは春が来るのを待つだけ
風呂上りのようにさっぱりした風情で
青空を背にしている

春の日差しが溢れるころ
銀色に煙るような新芽を見せる
その準備はもう整っているのだろう



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□◆□…優嵐歳時記(2043)…□◆□

  テニス肘少しうずきし冬の雨   優嵐

起きたら肘に違和感がありました。ナイターでテニスをして戻るときからなんとなくおかしかったのですが、これがいわゆるテニス肘か、と納得しています。普通にしていると特に何もありませんが、肘を支点にして何かを持ち上げようとしたり、ひねる動作をしようとすると軽い痛みがあります。

今年は年の始めに肉離れを起こし、最後にテニス肘となんだか象徴的です。どちらも初めてのことです。年末年始でしばらくテニスをすることはありませんから、悪化することはないと思いますが、今後テニスをするとしたら、予防用のサポーターをつけた方がよさそうです。


<星の子>
冬至が過ぎ今日はクリスマスイブ
太陽の復活を祝う祭り
私たちは太陽の子であり星の子である

果てしない昔
宇宙のどこかで起きた
超新星爆発によって
私たちをつくる元素ができた

肌の色、目の色なんて小さなこと
地球上のすべて
それどころか北極星とだって
私たちは兄弟なのだ


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□◆□…優嵐歳時記(2042)…□◆□

  水底に冬至の光差し入りぬ   優嵐

昨日は冬至でした。部屋から夕陽が沈んでいくのを見ながら、夏とのそのあまりの場所の違いに、驚いていました。これから夏至までまた日中の時間が少しずつ長くなっていきます。伸び縮みするゴムひものようなものですね。そのゴムひもの中で私たちは暮らしている。

年賀状の住所を印刷して、ようやく手書きでメッセージを書き添えるところまできました。あとは、遠方の方から書いてできれば県外は25日までに出し、姫路近隣は28日ごろまでに書ければいいか、と目論んでいます。

オークションの最後の商品を昨日発送し終え、「はー、終わったぜ」という心境です。クリスマスイブが今年最後の粗大ゴミの日なので、そこで最終的な整理を終えます。すっきりして新年です。子どものときのようにお正月だからといってことさらどうだということもないのですが、こういう区切りは気持ちを切り替えるのにいいですね。


<織りあがっていく>
いろいろなものが絡み合っている
それがわかるんだ

あれとこれとそれと
複雑なようでいて
実はみんな調整されている

なるようになり
あるべきものはあるべきように落ち着く
じたばたする必要はない

おまえは大きな織物の一部であり
それを信じてまかせておけばいい

一本の糸として
やらなくちゃいけないことはある
けれどどんな織物ができあがるのか
そんなことは心配しなくていいんだ

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□◆□…優嵐歳時記(2041)…□◆□

  五、六人それほどがよき忘年会   優嵐

日曜日、アートセラピーのあと、『雅頌』というもんじゃ焼きの店で忘年会をやりました。テーブルにほどよく座れる五人で、これくらいの人数が話もよく見えていいものです。もんじゃ焼きというもの、以前千葉へ行ったとき友人に連れて行ってもらって食べたことがあり、それ以来でした。発祥地は関東で、お好み焼きはここから派生した模様です。サービスでボトルワインを一本つけてくださいました。

アルコールを飲むと眠りと夢に影響があるというので、このところ半年以上全くお酒を飲んでいませんでした。しいて断酒していたわけではありません。もともとアルコールには弱く、ビールの小グラスとワイン一杯で顔が真赤になりました。以前、やや飲めるようになっていたのですが、肝臓は正直です。


<英雄>
神話の英雄は
ある日その名を呼ぶ声を聞く
異世界への冒険をうながす声を

一度はそれを拒むかもしれない
しかし、最後には冒険に旅立つ
多くの危険と難題が待ち受ける世界へ

英雄とは誰か
魔物の住む世界へ赴く彼か
宇宙を飛び回る彼女か

違う
英雄は故郷をあとにして
苦しい旅を続ける
あなたでありわたしである

英雄は困難な旅をやり遂げて
ついに故郷に帰還する
素晴らしい何ものかを携えて

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