優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年01月

□◆□…優嵐歳時記(2081)…□◆□

  落葉樹すっきり空へ日脚伸ぶ   優嵐

冬至が過ぎると徐々に日が長くなっていきます。一月も後半になると、はっきり日が長くなったと感じるようになります。「日脚伸ぶ」はこうした感覚をとらえた季語です。寒気が少しゆるみ、春がもうそこまできている、春が手を差し伸べてくれている、そういうイメージがあります。

落葉樹は枝にまばらに残っていた葉もすっかり落とし、今はやってくる春に向かって伸びをしているように見えます。歳末のころの寒々とした景色というのではなく、何か期待に胸をふくらませている子どものようなそんな風情を感じます。


<逆説>
勇気を示す白い玉と
知恵を示す濃紺の玉

ふたつを手にして
その子はやってきた
さりげなくお手玉でも始めそうだ

「魂を育てるにはどうしたらいいの」
そうたずねると
その子は笑って言った
「子どもでいること」

素直で
好奇心旺盛で
ものを見る目を曇らせていない
そういうことか


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□◆□…優嵐歳時記(2080)…□◆□

  雨あがる冬芽の雫残しつつ   優嵐

春に萌え出す芽は秋のうちにでき、寒さに耐えられるよう固い鱗片で覆われて冬を越します。これを「冬芽」といい、落葉樹の葉が落ちつくした枝の冬芽はとくによく目だちます。

増位山の梅林へ行ってしばし呆然としてしまいました。いつも最初に花を開き、今もようやくいくつか咲き始めた紅梅がほぼ根元近くからばっさり切られていたからです。三つに枝分かれしていたすべての枝がノコギリで切り取られていました。

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28日のお昼ごろはここに来て梅の花を見ましたから、28日の午後から29日の朝にかけての間の出来事です。ほとんど人影のないところなので、誰にも見咎められることもなかったのでしょう。根元が残っていますから、木は生き残るかもしれませんが、仮に生き残ってもしばらく花をつけるのは難しいでしょう。

毎日のように散歩をしていると、樹木にも親しみがわき、それぞれと言葉のない会話をしながら歩いています。特にこの紅梅は寒中から先駆けて花を開き、昨年の梅林での出来事もあって、思い入れがあっただけに残念です。せめて主な枝の一本でも残していてくれたら。

紅梅の木の切り口は紅く、紅梅の色を映しているようでもあり、紅梅自身が血を流しているようでもあり、胸が痛みました。

<紅梅に>
随分ひどいことをされたね
でも君は防ぎようがなかった

痛くても苦しくても
君は声をあげることも
逃げることもできない

寒気をものともせず
やっと咲き始めてくれたのに

もしどこかに植えられているのなら
どうかそこで
美しく咲いてほしい

もしそのまま命を
終えるとしても
君がせいいっぱい生きたことを
知っているよ

美しい花をありがとう


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□◆□…優嵐歳時記(2079)…□◆□

  ほつほつと梅はほころぶ初不動   優嵐

毎月二十八日は不動尊の縁日です。特に正月のものは「初不動」と呼ばれ、各地の不動尊に大勢の参拝者が訪れます。季語としては、新年に分類されています。増位山随願寺でも初不動の護摩焚きがおこなわれていました。

1月27日、坂井泉水さんの月命日に『淡い雪が溶けて』について書きながら、日本語の一人称&二人称代名詞について考えました。人称代名詞を変えるだけで、文の雰囲気はがらりと変ります。

ISIS編集学校でレイモン・クノーの『文体練習』という本を紹介していただいたことを思い出しました。また、「物語編集術」のところで、有名な映画を換骨奪胎して自分なりの物語に変えて行くという稽古がありました。あそこで、物語の語り手を誰にするか、というのがストーリーの見せ方を左右するということを知りました。人称に何を使うかというのは、これの一番基本的なことかもしれません。

今日はZARDの『永遠』のフレーズをお借りして以下にそれを試みてみました。日本語というのは…、なかなか面白いです。


<『永遠』練習>
『君と僕とのあいだに永遠は見えるのかな』(オリジナル)

「あなたと私とのあいだに永遠は見えるのかしら」
「お前とオレとのあいだに永遠は見えるのだろうか」
「貴様と俺とのあいだに永遠は見えるか」

「おまえとわしとのあいだに永遠は見えるのか」
「あんたとあたしとのあいだに永遠は見えるんかな」
「オタクと自分とのあいだに永遠は見える?」
「アンタとウチとのあいだに永遠は見えるんやろか」

「汝と我とのあいだに永遠は見えるやいなや」
「貴殿と拙者とのあいだに永遠は見えるのでござろうか」
「ぬしさんとあちきとのあいだに永遠は見えるのかえ」
「貴公と我輩とのあいだに永遠は見えるであろうか」

「そちと余とのあいだに永遠は見えるか」
「ユーとミーとのあいだに永遠は見えるざんすか」
「手前さまとみどもとのあいだに永遠は見えるのでござりましょうか」

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□◆□…優嵐歳時記(2078)…□◆□

  境内に落葉焚く香の満ちており   優嵐

「焚火」は冬の季語です。戸外で暖をとるために落葉や廃材などを集めて焚火をします。環境問題もあり、都会ではめったに見られなくなりました。しかし、焚火の火は心を落ち着かせてくれます。キャンプ道具の中には焚火台 なるものもあります。地面にダメージを与えることなく焚火をするための道具です。ゆらめく炎は人間の根元的な何かに訴えるのでしょう。

焚火の炎、打ち寄せる波などを長時間見つめていても飽きるどころか、ゆったりと気持ちが落ち着いてきます。ある種の催眠状態に陥るとでもいいましょうか。そこには「ゆらぎ」があるからだ、と以前何かで読みました。同じ火なのに、ガスレンジの炎をずっと見つめていることはできないですね。自然の風と人工の風との違いにも似ています。


<海老で鯛を>
「海老で鯛」
そんなことはめったにない

でもね
「蟻が鯛」
ということはたびたびあるの

ほんとうだよ
そっとささやいてごらん

蟻が鯛
蟻が鯛
蟻がたい
ありがたい
ありがたい

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□◆□…優嵐歳時記(2077)…□◆□ 

  砂時計砂さらさらと春隣   優嵐

その訪れを最も心待ちにされる季節は春でしょう。暗く寒い冬が間もなく終わる、「春隣」とは、その心情を表現した季語です。こういう言葉を生み出した日本語、日本人の感性というのはやはり繊細です。

今年最初の坂井泉水さんの月命日です。今日は『淡い雪がとけて』を取り上げます。ZARDの39番目のシングル『今日はゆっくり話そう』(04.11.24)のカップリング曲です。なんとも切ない曲調、最初と最後はシンプルなピアノのみの伴奏、それを抑えた雰囲気で淡々と歌っていて、聴かせます。

淡い雪がとけて



歌詞は、お互いに愛情を持ちながら、つながりを維持していくことができない、ままならない心情を描いています。なぜそうなっているのか、理由はよくわかりません。状況説明はせず、その時の空気、瞬間の思いといったものを見事な言葉の構成で描いていきます。ここは作詞家・坂井泉水の真骨頂です。

歌をよく聴いてみると男女二人の視点が交錯する詞になっていることに気がつきます。出だしの「言い訳を考えて」から「このまま目を覚ましたくない」までは<私>と表現される女性の視点。その次の「淡い雪が溶けて」から「I need you 待っていた」までは<僕>と表現される男性の視点。さらに最後の「二人の未来が」からラストの「愛してた」までは再び<私>という女性の視点に戻っています。

これと少し似た構造になっているのが22番目のシングル『永遠』(97.8.20)です。楽曲全体は女性の視点で歌われながら、突如「君と僕との間に永遠は見えるのかな」という男性の視点が入ってきます。この曲はテレビドラマ『失楽園』の主題歌になったこともあって、詞の内容は読みようによってさまざまな解釈が可能です。それについては、また別のときに書きたいと思います。

考えてみれば日本語だからこそ、視点の転換をこれだけ最小限の言葉で表現できるのです。英語なら<I>としか言えないところを<私><僕>と使い分けることによって、男女二人の思いを表現しています。外国語に翻訳した場合、この詞の世界を伝えられるのでしょうか? 中国語や韓国語、アラビア語などの文法については全く知識がないのですが、欧米系の言語は一人称代名詞が一種類しかないはずです。

日本語は人称代名詞の使用をできる限り避けるという特徴を持った言語です。その裏返しというか、いったんそれが使用されると果てしなくバリエーションがあり、表現の幅が広がります。IとYouに相当する日本語の名詞を思いつくままに並べるだけで、軽く十種類を超えるでしょう。それにしても、デュエット曲以外で視点が転換する歌というのは珍しいのではないでしょうか。

□◆□…優嵐歳時記(2076)…□◆□

  寒晴れや今日くっきりと播磨の野   優嵐

季語では冬の晴天を「冬晴れ」といい、中でも寒中のものを「寒晴れ」といいます。空気が乾燥しているため、その晴れ渡る様子は鋭く厳しく、すべてのものの陰影を浮かび上がらせます。きっぱりといさぎよい晴れ方です。

増位山頂からは東側にほぼ180度展望が開け、眼下を流れる市川と周囲の山々、さらにその周辺に散在する集落を眺められます。週末はいいお天気で、遠くの山裾まではっきり見えました。光が明るくなっているせいもあるのでしょう。枯野、裸木が並ぶ低山、それらすべてが春の訪れを待ち構えています。


<ものごとはいつも>
彼は一分の隙もなく
びしっときめた
スーツ姿で現れた

均整のとれた
なめらかな胸の筋肉も
気持ちよく張った腰の筋肉も
今は見えない

あっけにとられている
私に向かって白い歯を見せ
彼は言う

ものごとはいつも
予想したとおりの姿では
あり続けない

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□◆□…優嵐歳時記(2075)…□◆□

  光さす森ゆく冷たき耳連れて   優嵐

「冷たし」は冬の寒さが身体に触れて感じられることを表します。「寒し」が大気全体だとすれば、人体の一部を対象として詠むのがほとんどです。手、耳、鼻、頬、足などが代表的でしょう。

森を歩いているとその明るさが日に日に増しているのがわかります。それでも気温は寒く、身体は汗ばんでいるのに耳の冷たさには驚きます。帽子をかぶるかイヤーマフをつけるといいのでしょうが、それほど長時間歩き回るわけでもないので、そのままにしています。

紅梅の次の一本が花を開き始めました。蝋梅はどんどん開き、甘い香りを送ってくれています。平日は静かな増位山ですが、冬の週末は低山歩きの人たちによく会います。


<春>
森に降り注ぐ光を見ろよ
もう春はすぐそこだ

佐保姫のお目覚めだ
今ごろ髪をとかしているよ
春の髪飾りを選んでいるだろう

淡い衣を身に纏い
両手いっぱいに花束を抱えて
もうすぐやってくる

しなやかに
駆けてくる足音が聞こえないか


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□◆□…優嵐歳時記(2074)…□◆□

  餅焼いて甘さ軽めの善哉に   優嵐

「餅」は冬の季語です。今や年中スーパーで買えますから、季節感がなくなっていますが、お餅をついてお正月を迎えるというのが、ついこの間までの日本人の生活でした。お正月が明けて寒に入ってからまたあらたに搗くお餅をさす「寒餅」という季語もあります。黴がはえにくく長持ちするといわれたとか。包装&冷凍技術の発達でこれも今昔物語ですね。

いただいたお餅で善哉を作りました。缶詰の粒餡を使えば簡単にできます。善哉という食べもの、関東と関西では把握されているものがやや違うようです。関西では粒餡を用いて小豆の粒が残っている状態のものを善哉と呼びますが、関東地方では汁粉と呼ばれるとか。汁粉というと関西では漉し餡を使って小豆の粒が全くないものをイメージします。


<祈る>
誠意って何?
自分に正直であること

誰かを欺くことは
よくないこと
自分を欺くことは
もっとよくないこと

自分に正直であるために
大事なものは勇気と知恵

どうか
そのふたつを私にお与えください

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□◆□…優嵐歳時記(2072)…□◆□

  水音に近く咲きたり水仙花   優嵐

暖かな日が続いています。この時期に咲き始める蝋梅、梅、水仙、いずれも気品を感じる花です。花はいろいろありますが、それぞれに持ち味が違い、季節にふさわしい雰囲気を持っています。あるべきときにあるべきように咲く、そこがいいところですね。

水仙の原産地は地中海沿岸です。牧童ナルシスが水面に映る自分の姿の美しさに魅入られてそのまま水仙になったというギリシャ神話は有名です。水仙の属名は彼にちなんでナルキッススといいます。自己愛傾向の強い人をナルシストというのもここからきています。古く観賞用として中国経由で日本にやってきたそうです。ナルシスの長い旅。


<時は…>
砂時計の砂が音も無く落ちていく
時は流れるのか
降り積もるのか

デジタルの時間は消えていく
けれど砂時計の底にたまっていくのは
まぎれもないあなたと私の時間

今というこの時は
くびれた砂時計の胴を
通り過ぎていく一粒の砂

それをとどめることなどできないと
これほどはっきりわかっているのに
それをとどめたいと願う

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□◆□…優嵐歳時記(2072)…□◆□ 

  春近き野にやわらかき雨の降る   優嵐

寒中ですが気温が高く昨夜からの雨が降り続いていました。すでに早春の風情です。

夢を見ていました。北欧のどこかの大きな空港にいます。私は旅を終えて帰ろうとしています。ところが、何か大事なものが無いことに気づきます。それがないと出国できないので、あせっています。

その何かを探しているうちに自分のもうひとつの荷物が全く別の場所にあることに気がつきます。そこには現地の人には大変珍しく、微笑ましいようなものが入っていて、何人かの人がそれを見ています。自分の荷物が勝手に開けられているのに私は別にいぶかしくも腹立たしくも思いません。

その荷物のそばへ行き、私は急に妙に安心します。探していたものが見つかったわけでもないのに、なぜかこれで帰れるとわかったからです。わかったとたん目が覚めました。この夢が単独で意味していることが何なのかよくわかりませんが、先日から見ている夢にいくつか共通点があることに気がつきました。

1)自分はどこかへ行こう(帰ろう)としている
2)その途中で大きな建物の中に入る(駅のターミナル、スキー場のリゾートホテル、空港のビル、なんだかわからないが大きなビル、etc...)
3)その「どこか」はすぐそこのように思えるのになかなかたどり着けなかったり、途中で何かをなくしていることに気づいてあせったりする。

これまでも一時期に似たような夢を集中的に見ることがありました。学生のころ、自分が死ぬ(戦争とか刑死といった尋常でない死に方)夢を何度も見たり、前の職場にいたころは泳ぐ夢を連続して見たことがあります。その時期だけに限定され、最近は死ぬ夢も泳ぐ夢も見ません。

兆しに耳を澄ましていたら、シグナルはわかるのではないか、と今は思っています。理屈ではなく直観で。自分がなくしているものは何なのか、どこへ行こうとしているのか…。


<クロス>
明るい庭で彼女に会った
彼女は先立って歩き
建物のドアを開けた

きらめくように
きりたった崖の端から
十字架が吊り下げられている

十字架は
ハートのチャクラでクロスしている

大いなる愛が要だということ
上下と左右をつないで
最も大切なものを湛える

天上に向かう部分も
地上に向かう部分も
左右の広がりもともに大切

そして
その要が開かれてさえいれば
恐れるものはなにもない


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