優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年02月

□◆□…優嵐歳時記(2099)…□◆□

  春三日月入りて地上は冷え始む   優嵐

ナイターでテニスに行こうとしていたら、西の空の低い位置に細い釣り針のような三日月が見えました。月は秋の季語ですので、単に三日月とか満月と言うと秋になります。そこで他の季節ならそれを示す言葉を入れます。歳時記を見ますと春三日月、冬三日月という季語はありますが、夏三日月というのは見当たりません。不思議ですね。

テニス肘はもうほとんど気になりませんが、プレーするときはベルトをしています。真夏になると多分暑くてベルトをつけてテニスをするのはつらいでしょうから、今の間により身体に負担の少ない打ち方を身につけたいと思います。つい小手先で対応しようとするのが故障の原因になるようです。

バンクーバーオリンピックはメダリストが誕生して盛り上がっていますね。YouTubeでこんな動画を見つけました。ZARDの『負けないで』のギターコピーです。うまいなあと感心してこちらにお借りしてきました。坂井泉水さんのボーカルもちゃんと入っているところがイイ。ギターには何度か挑戦しましたが、ついに指の痛みを乗り越えられず弾けないままになっています。




<待つ>
ぼくは忍耐が嫌いだった
躊躇
迷い
逡巡
そんな言葉はぼくの辞書に無い

忍耐なんてのろまのすること
愚か者だけが迷うのだ

そう思っていたのは
ついこの間までのこと

迷いも逡巡もないのは
軽挙妄動の裏返し
じれったいから投げ出して
それがどれほど貴重なものかに目をつぶる

迷うのは勇気がないからじゃない
忍耐できない
待つことができない
それこそ何かから逃げている証拠
信じて待つ勇気を持て


今日の名言:現実の君が、「もしかしたらなれたかもしれない君」に悲しげに挨拶をする。

□◆□…優嵐歳時記(2098)…□◆□

  ごうと吹き森騒がせて二月早や   優嵐

まだ寒気は厳しいですが、いつの間にか二月半ばを過ぎました。二月は28日しかないため、ことさら早く過ぎ去る気がします。それが「二月早や」という季語に現れています。余寒の厳しさの一方で、日差しがきらきらときらめき、命が動き始めるのを感じる時期です。

増位山の梅林の梅は少しずつ開花し、もっとも早く咲く紅梅に続いて白梅も花を開き始めました。紅梅には華やかさがあり、白梅には高貴さがあります。姫路近隣の梅林といえば、たつの市御津町の綾部山梅林が有名です。「ひと目二万本、海の見える梅林」とのキャッチフレーズどおり、梅林から瀬戸内海が望める素晴らしい場所です。

増位山の梅林はこじんまりとしています。竹林に囲まれ、人に会うこともほとんどなく、心ゆくまで梅を楽しむことができます。ぼーっと心を遊ばせて自然の中を散歩しているときが一番好きな時間かもしれません。


<二月>
紅梅は若い娘
笑いさざめきながら
風の中を走って来る
ばら色の頬を光らせて

しなやかに伸びた手足
どうかそのまま
丘を駆け上がって

白梅は貴婦人
つらい恋の思い出
挫折に流した涙のいくつか
それをすべて内に秘めて

まっすぐに伸ばした背筋
微笑みを浮かべ
静かにたたずんでいる



今日の名言:他人を走らせようと思ったら、まずあなたがよく走ることだ。



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□◆□…優嵐歳時記(2097)…□◆□

  パステルで描く光や春淡し   優嵐

「春淡し」は早春のころに用いる季語です。この「淡し」という言葉、春にしか使われません。夏淡し、秋淡し、冬淡し、とは言わないのです。このあたりは日本語のデリケートさに感心します。「浅し」という語は四季全てに使われますがそれ以外の季節には独特の語があります。

夏に使われる独特の語は「薄暑(はくしょ)」、秋には「秋口」があります。薄寒とか春口とか言わないのが面白いですね。初冬にはその季節だけ用いられる語というのはないようです。そういえば、「早春」という言葉も春だけです。早夏や早冬という言葉はありません。初春が新年と混同されやすいため、こちらを用いるようになったのでしょうか。

それでも、早春という言葉はとても美しい響きだと感じます。風はまだ冷たいけれど間違いなく春の兆しがあちこちで動き始めています。英語で春は"spring"。泉、バネ、跳躍との意味もあります。弾む春の雰囲気が伝わってくるようです。イタリア語で春は"la primavera"(ラ・プリマヴェーラ)、女性名詞です。美しい語感ですね。


<早春>
強い風が吹いたとき
あなたはそこに立っていた

咲き始めた紅梅をふるわせ
さらさらと竹林を鳴らす

あなたの気配に
振り向くわたしを
あなたの笑顔が包む

ああ、こんなにしあわせなのは
あなたがそこにいてくれるから


今日の名言:私達はみなドブのなかにいる。だが、そこからあなたは星を見上げる事ができる。


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□◆□…優嵐歳時記(2096)…□◆□ 

  山裾に紅匂う梅開く   優嵐

アートセラピーの「模写」に参加するため大阪に行ってきました。このワークでは有名な画家の絵を模写します。これは技法習得を目的としたものではなく、人の意識や精神などを追体験して学び、同時に模写する人が何をどのようにとらえているかを明らかにする体験へと導いてくれます。

今日模写したのはキリストが十字架にかけられようとしている場面をレンブラントが描いたものでした。レンブラント特有の光と闇を際立たせるため、あえてモノクロにコピーした絵を見ながら、黒の用紙に白のパステルで光の部分を描いていきます。これが、想像以上に難しく、丸一日かかってしまいました。それでも完成にはほど遠い出来でした。

模写のワークのあと、参加者、講師の方を囲んでしばらくお茶を飲みながら話をしていました。ここでいろんな話をするのがこの場の楽しみでもあります。そこで気づかせていただくことも多いですし。今日は自分が話しながら「○○であった方が楽じゃないか」と何度も言っているのに気がつきました。

「楽」という言葉が頭の中で低く反響している中、帰りの電車の中で『完全なる証明』という本を読んでいました。2002年にポアンカレ予想を証明したグレゴーリー・ペレルマンというロシアの謎に包まれた数学者の伝記です。「どの子にも、その子だけの成功があり、障壁があり、失敗がある。それを語らせてやるのが、ルクシンの方針だったのだ。」という文が目に入りました。ルクシンというのはペレルマンを育てた指導者の名前です。

ふと、「おまえはそんなに楽をしたかったのか。楽であったら素晴らしい人生なのか。楽であったら学ぶこともそれに比例して少ないだろう。そんな人生を望んでいるのか」という声が聞こえた気がしました。そんなことを望んでいるわけじゃない、と自分の中で答える声も聞こえました。本当に望んでいるのは、何かを乗り越えて何かを見出すこと、それが何かはわからなくても、です。

これはシンクロニシティでしょうか。恐らくそうでしょう。今日自分の口から出た言葉、レンブラントのキリストの磔刑、たまたま持っていた本の中の一文、それらは普通に考えれば何の因果関係もないものです。けれど、今日の私はそこに重要な何らかのつながりを見ます。学びとは、こういうことではあるまいか、と最近思います。


<そんなことなのか>
苦と楽があれば
人は楽を選ぶだろう

まがりくねったでこぼこの道と
真っ直ぐで舗装された道があれば
人は後者を選ぶだろう

その方が自分にとって
都合がいいと思うから

だけど
あなたが望んでいるのは
そんなことなのか

山頂へヘリコプターで
降りたったなら
山登りをしたとは言えない

低い山でも自分の足で
踏みしめて登る
それが山を登るというこだ


今日の名言:あなたが余るほど持っていれば、それは他の人が足らなくなっていることを意味する。

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□◆□…優嵐歳時記(2095)…□◆□

  浅春の風をとらえし鳶一羽   優嵐

先日、銀行の窓口でチョコレートをいただきました。バレンタインデーが近いからのようです。ちょっとしたものですが、思いがけないところでこういうものに出会うとうれしいですね。誕生日とか記念日とかそういうときに何かをいただくというのとはまた一味違ううれしさです。

「浅春(せんしゅん)」は「早春」とほぼ同じ季感を表します。立春から暦のうえでは春なのですが、実際には少し暖かくなったかと思うと急に寒の戻りがあったりして春は一進一退を繰り返しながら進んでいきます。「暑さ寒さも彼岸まで」が肌で感じる正直なところでしょう。「春浅し」「春淡し」「春早し」といった季語もあります。こちらの方が語感はやわらかですね。

<後から>
未来は前からやってくると
人は思っている
実は違う
未来は後からやってくる

見ようと身構えている背後から
かたわらをすり抜けて
未来は
私たちの前にいきなり立つ

未来が「今」になったときの顔を
誰も予想できないのはそのせいだ


数日前にmixiのマイミクの方から「私に名言」というアプリを紹介していただきました。利用者の名前を使って一日一回名言を作ってくれるというものです。これ、なかなか含蓄に富んでいて、面白いなあと感心しています。今日の名言は「優嵐は学校のためでなく、優嵐の人生のために学習すべきである。」でした。これから名前を省略してこちらでご紹介したいと思います。

今日の名言:学校のためでなく、人生のために学習すべきである。

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□◆□…優嵐歳時記(2094)…□◆□ 

  立ち止まるとき梅が香に包まれる  優嵐

バンクーバーオリンピックが今日から開幕しますね。『負けないで』がNTTdocomoの「応援inバンクーバー」に採用されてすでにオンエアされています。この映像はこれでまた素晴らしいのですが、ここはやはり坂井泉水さんご自身の歌声も聴きたいですね。

負けないで



代表選手のみなさんには、メダルや勝負も大事でしょうけれど、やっぱり「自分自身に負けないで」というメッセージをお送りしたい。だって、国を代表してその場に立てるということ自体が素晴らしいことなんですから。そして、国籍を越え、素晴らしいパフォーマンスを見せてくださるすべての参加選手に声援を送りたいと思います。

<思い出して>
人はいつも強くいられるわけではない
誰もがもろい部分をもち
壊れそうな心を支えながら生きている

だからこそ
そんな君におくりたい
「自分自身に負けないで」
くずれそうなとき
それを思い出して

□◆□…優嵐歳時記(2093)…□◆□

  風強き夜明けて建国記念の日   優嵐

10日の夜から11日にかけては雨交じりの強い風が吹きました。春一番を連想させるほどの風でした。「建国記念の日」は第二次世界大戦で日本が敗れるまでは「紀元節」と言われていました。神武天皇即位の日とされる日を陽暦に換算したものです。敗戦を境にいったん廃止され、1966年(昭和41年)に「建国記念の日」として政令公布、翌年から祝日になりました。

風の音の影響か、複雑なサスペンス映画のような夢を見ていました。私は高級ホテルのレセプション会場で食事をしています。すぐ後の席に首相夫妻がいらっしゃいます。何か大きな催し物がおこなわれていて、私は間もなくそこにテロリストがやってくることを知っています。そう思っているうちにテロリストが現れ、人々を銃で脅します。その混乱の中で私は何かとても大事なものを手に入れてその建物を出ることに成功します。

私は出て行きながら何か後ろめたいものを感じています。テロリストの仲間ではないのですが、テロリストがやってくることを知っていながら、そのことを誰にも言わずにいたことを後ろめたく思っているのです。自分が何を手に入れたのかはよくわかりません。とにかく自分にとっては非常に大事なものであるのは確かです。

夢から覚めて、この夢は先日から見ている一連の夢と関係があるかもしれないと気がつきました。私はやはり大きな建物の中にいます。これまでの夢では自分はどこかへ行こうとしているのに容易にはたどり着けず、何かをなくしてあせっている、というものでした。

ところが今日は、何かがやってくるのを知っていて、それをきっかけに自分にとって非常に貴重なものを手に入れ、ちょっと後ろめたく思いながらも建物を無事出ることができるというものでした。夢は象徴だと言われています。あまり分析しすぎず、全体の雰囲気から受けるものを大事にしたいと思います。


<もし世界を変えたければ>
もし世界を変えたければ
自分自身を変えることから始めよ

世界が汚れて見えるのは
あなたの眼鏡が汚れているから

眼鏡を外して
レンズを洗ってみれば
世界はもっと光り輝くだろう

立っている人とは立って
しゃがんでいる人とはしゃがんで
歩いている人とは歩きながら
話してみよう

彼のモカシンをはいて
次の町まで歩いてみよう

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□◆□…優嵐歳時記(2092)…□◆□

  今日風のやわらかくあり春初   優嵐

初春を「はつはる」と読むと、新年の季語になります。春の季語として用いる場合は「しょしゅん」と読みます。「春初(はるはじめ)」「孟春(もうしゅん)」「上春(じょうしゅん)」とも言い、およそ二月にあたります。春が訪れたいきいきした感覚を詠みたいと思います。

NTTdocomoが10日から、ZARDの『負けないで』を起用したバンクーバー五輪の応援CM「応援inバンクーバー」編を全国で放送しています。『負けないで』がCMに起用されるのは初めてです。同社が調査専門会社を通じておこなった意識調査で、『負けないで』が応援ソングのダントツ一位だったという結果を受けてのことだそうです。

変なたとえですが、敗戦後の日本人を励ましたのが『りんごの唄』だとすれば、バブル崩壊後の日本人を励ましたのが『負けないで』です。売れる歌はたくさんありますが、歴史に残る歌というのは、それとは次元の違う輝きを放つものです。2月10日はZARDの誕生日(デビュー)でもあります。これもひとつのシンクロニシティでしょうか。

ZARDがデビューしたのは91年2月10日です。19周年になりますね。8番目のシングル『揺れる想い』(93.5.19)はZARDの代表曲のひとつであると同時に、90年代のJ-POPを代表する名曲といっていいでしょう。今日はこの曲について書きます。

『揺れる想い』はZARDが2004年におこなった初のライブツアー"What a beautiful moment"のオープニングに使われました。坂井泉水さんにとっては生涯最初で最後のライブツアーです。この歌の後、彼女が「初めまして」と挨拶をします。ZARDのことをよく知らなかった私は、「デビューして10年以上になるのになぜ初めましてなの?」と不思議に思ったものでした。

揺れる想い 


大ヒット曲であるだけに、魅力あるフレーズが並んでいます。
---好きと合図送る 瞳の奥 覗いてみる振りして キスをした
これは、『負けないで』の
---ふとした瞬間に 視線がぶつかる 幸運(しあわせ)のときめき 覚えているでしょ
に匹敵する鮮烈なフレーズだと思います。

こういうきらめくような瞬間こそが恋の喜びなのですが、それを壊さずにすくいとって詞に結晶させるというのは容易なことではありません。表現は、ともすれば月並みになりがちです。しかし、坂井泉水さんはミューズの裳すそをつかむことに成功しています。

さらに、俳句的な視点でこの詞を見たとき、私がうまいなあと思うのはもう少し地味なフレーズです。
---夏が忍び足で 近づくよ きらめく波が 砂浜潤して
ここの「潤して」です。「潤して」という言葉をここで使える人はそんなにいないでしょう。しかも使われ方の絶妙さに驚きます。

夏が忍び足で近づいているわけですからこの歌の時季は晩春です。桜は葉桜になり、日が長くのどかで柔らかな空気が辺りを包んでいるでしょう。そんなときの砂浜に寄せてくる波、<砂浜を潤す波>はその時しかないな、と思います。これを試しに俳句にして四季をそれぞれにあてはめてみます。

砂浜を潤してゆく春の波
砂浜を潤してゆく夏の波
砂浜を潤してゆく秋の波
砂浜を潤してゆく冬の波

いちばんしっくりするのが「春の波」だと感じられませんか? 夏の波はもっと躍動的だし、秋の波はやや寂しげ、冬の波は冷たく荒々しいでしょう。潤すのはやはり春の波だと感じられます。それも空気全体が潤んでくる春半ば以後、そんな感触です。さらに波が「潤して」いくのは砂浜だけではありません。恋が始まったばかりの主人公の心も潤していくのであり、波は外側の情景と主人公の心象をつないですべてを潤していくのです。

夏を擬人化して忍び足をとらせるレトリックも素晴らしいですね。これも忍び足になるのが他の季節だとどうかな、と感じます。秋や冬が忍び足でやってきたら、凋落していくようで恋の始まりにはふさわしくありません。春の訪れは誰もが待望しているわけですから、こちらも忍び足では近づかないでしょう。夏しかありません。

追悼番組で、スタッフの方がZARDの詞を「練りに練った言葉」と形容されていました。こうしてあらためて見ると本当にそうだと気がつきます。


□◆□…優嵐歳時記(2091)…□◆□

  淡雪や松の根方に残りけり   優嵐

昼間の気温は18度まであがりました。先日の寒波の後にこれですから、春先は体調を崩しやすいときです。しかし、頬にあたる風がやわらかく、確かに春になったのだと感じられる一日でした。午後からお天気が下り坂で、明日は雨になりそうです。

テニスのバックハンドを両手打ちに変えるのは思ったより困難だと悟りました。打てないことはありませんが、考えないとうまく打てず、左腕が筋肉痛をおこしそうです。シングルのバックというのは、いったん型を決めてしまうとフォアよりも楽に確実に打てます。シングルハンドでの打ち方が小脳に浸透しているため、それを変えるのは理屈でいうほど簡単ではありません。

保護用のベルトをつけ、手首を不用意に使わないようにすれば、シングルでも十分いけるかな、と思っています。けがをすると、それが幸いしてフォームがきれいになることがあるそうです。無理のない打ち方を心がけるからなのでしょう。一流のプロのフォームは大変きれいです。無理な力が入っておらず、人体の生理的なつくりに忠実な動きだからなのでしょうね。


<歩きだそう>
窓の外で猫が恋を囁いている
囁いているなんてものではない
恋をうなっている
恋を叫んでいる

何もかもがこんな風に決まっていればいいのに
と思う事がある
きっちりとすべきことが決まっていて
それだけに猛進することができたら

今は恋をし
今は子育てをし
この時期になれば子離れをして
何の迷いもない
どんなに楽だろうか

馬鹿だな
そんな時代はとうの昔に
通り過ぎたじゃないか

何ゆえ君は人間の姿をしているのか
君が言っていることは
いつまでも赤ん坊でいたいと願う
幼稚園児のようなものだ

そうだったね
でも時々は昔が懐かしくなる

懐かしくなるほど
君はまだ歩んではいない
成長は果てしない
だから前を見て歩きだそう


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□◆□…優嵐歳時記(2090)…□◆□

  淡雪と光を載せしうすごおり   優嵐

「薄氷」と書いて季語では「うすらひ」といいます。万葉時代からすでにある古い言葉です。春先にごく薄く張る氷、または溶け残った氷を指す場合もあります。古典和歌の場合は氷の一形態としてもっぱら冬のものとして詠まれてきました。それを春先のものとしたのは高浜虚子です。

1934年(昭和九年)の『新歳時記』において虚子は初めて「薄氷」を春・二月の部に採用しました。ただ、古典和歌にも「春の薄氷」と詠んだものがあり、「うすらひ」という語感の美しさとあいまって早春の季語として定着していきました。「残る氷」「春の氷」「うすごおり」とも詠まれます。

日本人の美意識は、はかないもの、何かと何かのあわいにあるもの、微妙なもの、こわれやすいものに特に敏感なようです。完璧で堅固で轟然としたものも確かにいいのですが、そういうものよりは、傷つきやすいフラジャイルなものにより美しさを感じてきた、そんな気がします。「うすらひ」はそれを象徴するような季語だと思われませんか?


<達人>
高さ15cmの平均台なら
平気で歩けるのに
地上15mに渡された板の上を
歩くのは難しい

人生は
15cmの平均台だろうか
15mに渡された板だろうか

同じように渡ることができたなら
達人だ

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