優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年03月

□◆□…優嵐歳時記(2140)…□◆□ 

  花冷えの定まらぬ空見上げおり   優嵐

花冷えが長く続いています。月曜日には雪が舞いました。北の山が隠れており、但馬方面では積雪になったのではないかと思います。桜が咲く時期にこれほどの冷え込みは経験がありません。

花冷えという言葉自身はそれほど古いものではなく、俳句には大正期以降に登場します。今では俳句だけでなくニュースなどにも使われています。桜の華やかな雰囲気によくあう美しい言葉だからなのでしょう。

気温が不安定な中に咲くのが桜という花の定めです。エドヒガンはすでに散り、今はヤマザクラが盛りです。ヤマザクラは場所によってかなりばらつきがありますのでこれからまだ十日ほどは楽しめるでしょう。ソメイヨシノはちらほらから三分咲きくらいです。


<花冷え満月>
校舎の屋根の向こうから
大きな満月が昇ってきた

春満月というよりも
冴えた冬の月のよう

ちらほら咲きの桜を照らして
満月は高く昇っていく
今夜は冷えそうだ


今日の名言:愛することと愛されること。それより大きな幸福など、君は望みもしないし知りもしない。


IMG_0289

□◆□…優嵐歳時記(2139)…□◆□ 

  囀りと木漏れ日連れて森歩く   優嵐

森を歩くことの楽しさはいろいろあります。この時期であれば繁殖期を迎えたさまざまな野鳥の囀りを楽しむことがあげられます。何と言っても筆頭はウグイスですが、シジュウカラのツツピー、ツツピーという鳴声もよく聞こえます。

まだツバメの姿は見えません。毎年三月終り、遅くとも四月初めには姿を見せます。花冷えの思わぬ寒さでちょっと一休みしているのかもしれません。桜の開花はそれでも連日進んでいます。もし暖かければ急速に花開いて散ってしまいますから、温度が低いことを歓迎していいのでしょう。

野鳥の渡りや囀りを司っているのは日照時間です。ウグイスのような留鳥は同じ土地で次第に生理的な条件が整っていくため、最初は不完全な囀りが日を追ってしだいに完成していきます。渡りをする夏鳥はすぐに縄張り確保という繁殖の準備がありますから、完成された囀りを伴ってやってきます。

人は息を吐き出す時に声を出しますが、鳥は吸う時にも声が出せます。これを知るとあの小さな身体であれほど大きく長時間囀ることができる理由が納得できます。





<花たち>
梅林に午後の日差しが当たる
半分以上の梅がもう花を散らせた
それでもまだ香りは馥郁としている

寒冷の中から真っ先に花をつけ
最後まで香り高く咲く梅

そのはるか上で
今にも開こうとしている
無数の山桜の蕾たち

香りはない
けれど
美しく散っていく花吹雪の潔さを
開く前から運命づけられている


今日の名言:幸せを語りなさい。あなたの苦悩を除いても、世界は悲しみに満ちているのだから。

□◆□…優嵐歳時記(2138)…□◆□

  菜の花や東へ向かう列車ゆく   優嵐

菜の花と呼ばれるものには、アブラナ科の葉菜である芥菜、高菜、白菜、蕪菜、油菜などが含まれます。春、黄色の十字状の四弁花が茎の先に群がって咲きます。菜の花の季語としての本意は蕪村の句「菜の花や月は東に日は西に」で表されているような淡い郷愁をさそう雰囲気です。

文部省唱歌の『朧月夜』は「菜の花畠に 入日薄れ」と始まります。この曲を聴くと、不思議な懐かしさを覚えます。子どものころからそうでしたから、菜の花が日本人の心情に呼び起こすものかもしれません。




<古木>
春の日差しを浴びながら
八重の紅梅の根元に座っていた

可憐な花びらとは対照的に
その幹は苔むし
ごつごつとしている

幹が裂け空洞になっているものもある
それでも高く枝を伸ばし
青空に向かって咲いている


今日の名言:正しかろうが間違っていようが、 あなたらしく生きよ。 安易に服従してしまう臆病者よりずっと立派だ。

□◆□…優嵐歳時記(2137)…□◆□

  一面に地上の星やいぬふぐり   優嵐

「いぬふぐり」という季語は昔からありますが、現在身近でみられるのは帰化植物のオオイヌノフグリです。1884年(明治18)に東京で初めて見つかっています。テクノロジーに目新しいものが増えるのはあたり前という気はしますが、季語を見ていると植物、食べものにも新しいものが明治以後どんどん増えているのがわかります。

Amazonで本を買うとメールアドレスに本の案内が送られてきます。Amazonの商売の見事さは、HPでの本の案内の見事さだといつも思います。先日、『スーパーカブでツーリング』という本の案内が送られてきました。私はバイクや自転車で日本中を旅行した経験があり、スーパーカブでも西国三十三ヶ所観音霊場巡り、中国地方一周をしたことがあります。

その経験からですが、確かにスーパーカブの燃費は驚異的でした。あれにかなうバイクはないと思います。ただし、ツーリングに向いているかというと私は疑問です。スーパーカブでこの二度のロングツーリングをしたとき、何度もパンクに悩まされました。タフチューブというパンクに強いとの謳い文句のチューブに替えた直後にまたパンクしたのにはまいりました。

結果、自動二輪の免許をとり、スーパーシェルパに乗り換えました。ツーリングにはこうしたデュアルパーパスと呼ばれるオートバイが最適です。林道も走れる仕様になっているため、これに乗って全国を走り回りましたが、一度もパンクに見舞われたことはありません。さらに馬力も制限速度も段違いです。

また、デュアルパーパス車は車体の軽いものが多く、同程度の排気量のものの中では取り回しが楽です。オートバイでツーリングというなら、特殊な目的は別として、こういうタイプのオートバイがお勧めです。燃費は抜群だけれどパンクに弱いスーパーカブ。速度制限のために路肩を走らざるをえないからでしょうか。

ところで、愛知県の伊良湖岬と三重県の鳥羽市を結ぶ伊勢湾フェリーが、9月末で廃止になるようですね。この路線を使って姫路から東海地方を抜け、関東・甲信越を回るツーリングをしたことを思い出します。オートバイにとってフェリーはとてもありがたい存在なのですが、残念。


<恐れ>
この世でもっとも恐れるべきは
恐れそのものだ
恐れが憎しみを生み
暴力を生む

恐れを感じて
閉じこもりたくなったとき
誰かを攻撃したくなったとき
正反対のことをしてみよう

一番恐れていることをする
自分を開くのだ

急斜面を滑り降りるとき
斜面に背を向けたら転倒する
腰が引けても転倒する

恐ろしければ斜面に向かって
自分を開き自分をあずけよ
斜面はあなたを受け入れ
あなたは斜面と一体になる

そして恐ろしさは消え
素晴らしいシュプールが残される


今日の名言:それをやりに君が生まれてきた。そのことだけを考えればよい。


IMG_0290

□◆□…優嵐歳時記(2136)…□◆□ 

  咲き初めし門の桜に雨つづく   優嵐

彼岸明けのころから春の長雨となり、気温も桜の時期とは思えないほど下がって花冷えの日が続きました。ようやく青空が戻ってきましたが、まだしばらく気温の低い日が続きそうです。春は半ばを過ぎ、三月も間もなく終りですが遅霜の心配さえありそうな気温ですね。

3月6日の坂井泉水さんの誕生の「日」に『Teenage Dream』を取り上げ、クロスジェンダー・パフォーマンスについて書きました。ZARDの楽曲のほとんどは彼女のために書き下ろされたものではなく、他のアーティストがすでに歌っていたり、ストックされていたデモテープの中から選ばれたりしたものだったといいます。驚くべきは、それを完全にZARDオリジナルと思わせるほどの完成度で彼女が歌っていることです。

月命日の今日取り上げる『Boy』は、もともと作曲者の栗林誠一郎さんが自身のオリジナル『Girl』として歌っていた曲です。新たに坂井泉水さんが詞をつけ『Boy』として、ZARDの11番目のシングル『この愛に泳ぎ疲れても』(94.2.2)と両A面で発売されました。GirlをBoyに変えたのは欧米流儀に習ったのでしょうか?


Boy



この曲、やさしいバラードで、私は大好きです。女性の包容力を感じますね。詞のうち、まず最初の「夜更けの静けさを」というところが抜群だと私は感じます。触覚でも視覚でもなく、あえてこの場面で聴覚を前面に出しているところが凄いと。主人公が感じていたであろう、夜のしじまの深さが伝わってきます。

「都会の小さな彼はまるでsoldier…」以下の歌詞は、すでに離れてしまったかつての恋人に歌っているというよりも、<もっと大きな存在になってあなたを見守っています>という意味あいを漂わせています。

こうした<遠くから見守る>タイプの詞は、坂井泉水さんの詞の特徴のひとつと言え、代表曲である『負けないで』の「どんなに離れてても 心はそばにいるわ」や『My Friend』の「ずっと見つめてるから 走り続けて」などにもあらわれています。現実のBoyはすでにBoyの年頃を過ぎてしまっているかもしれません。でも、誰の中にもずっと住み続けている永遠の少年に向かって彼女は歌っている、そう思うのです。


今日の名言:君と世間が戦う時は、君は世間の味方をしろ。


□◆□…優嵐歳時記(2135)…□◆□ 

  「田園」を口笛で吹き楽聖忌    優嵐

俳句では忌日を季語にします。なぜなのかといえば、やはり亡くなった方に対する尊敬と敬慕の念からだろうと思います。「俳句はすべて挨拶である」という言葉があります。ですから、忌日を詠むときは、その方の人柄、仕事内容、人生などについて思いを馳せられるような句がふさわしいでしょう。

3月26日はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)が亡くなった日です。楽聖忌と呼ばれていますが、私が今手元に持っている三種類の歳時記のいずれにも記載がありません。しかし、かなりよく知られており、それで句を詠んでいいと思います。

アルコール依存症の父のもとで育ち、音楽家としては致命的な難聴に苦しみ、晩年には完全に聴力を失いながらも数々の傑作を残した彼は、楽聖と呼ばれるにふさわしいでしょう。彼自身は自分の耳で「第九」を聴くことは一度もなかったのです。葬儀は2万人もの人々が駆けつける異例のものだったといいます。亡くなってすでに200年近くになろうとしていますが、今も世界中で演奏され新しいファンを獲得し続けています。

ところで、このベートーヴェンのピアノソナタ第八番「悲愴」の第三楽章が"Beethoven Virus"としてロックのエレクトリックバイオリンで演奏されているのを知りました。韓国のドラマ"Beethoven Virus"のテーマにもなったようです。旋律の美しい楽曲というのはさまざまな編曲によってさらに魅力が増すものですね。


ロック・エレクトリックバイオリン版



クラシック・ピアノ版



<花の雨>
冷たい雨が
開き始めた花を濡らす
桜色が震えているように見えるのも
花時のひとつの趣

花の命は短い
だからこそ人は桜を愛でる

咲き急ぎ
美しさの盛りに散っていく花に
人は切ない思いを抱く

花冷えは
花の命を永らえさせる
だからそれも悪くない…


今日の名言:あなたは、他人と違っているのと同じくらい自分自身とも違っている時がある。

□◆□…優嵐歳時記(2134)…□◆□

  あの人やこの人のこと涅槃西風   優嵐

涅槃会の陰暦二月十五日は釈迦入滅の日です。その前後一週間ほどに吹く西風のことを「涅槃西風(ねはんにし)」と言います。西方浄土からの風とも言われ、まだ少し寒さの残るお彼岸の頃の西風です。同じ頃の西風に「彼岸西風(ひがんにし)」という季語もあります。

以前の仕事では、高齢者の方の家庭をお訪ねすることがよくありました。そのとき90歳近い男性が「もうなあ、この年になるとこの世よりあの世の方が知り合いが多なりましたわ」とおっしゃったのが印象に残っています。そうか、年齢を重ねるとはそういうことなのだ、と妙に胸にすとんと落ちてきたのです。

私が学生時代やそれ以後に知り合った友人のほとんどは存命です。それでも何人かはすでにこの世を去っていて、その人たちのことを思い出すことがあります。自分に生死のことを最初に考えさせてくれ、最も強い影響を与えたのは高校三年生の冬に自殺した幼なじみでした。

もし、あの子がああいう形で死ななかったら、自分は生死の問題についてもっと違う感覚を持っていたかもしれないと思います。生死の問題に正しい答えというのはありません。それでも考えることに意味があるのだと今は思っています。


<砂漠にて>
背の高い男性と並んで崖の淵にいた
彼の波打つ栗色の髪は長く
顔はほぼ頭一つ分上にある

私たちの目の前には砂漠が広がっている
正確にはかつて街があった砂漠と
言うべきだろうか

ここに大勢の人が暮らす街があった
私たちがかつてここで住んだのか
それはわからない

乾いた風が吹いてくる
彼の身体も横顔も引き締まって
すべての不要物を削ぎ落とした
細い鞭のようだ

彼は何も言わない
けれど
拒絶されている感じはない

彼はこれから何かを示してくれる
それが何か
風の音を聞きながら私は待っている


今日の名言:君が立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧き出る。


IMG_0278

□◆□…優嵐歳時記(2133)…□◆□

  初蝶に誘われ歩く真昼かな   優嵐

梅林でのんびりしていると、ルリタテハが飛んできて白梅の蜜を吸い始めました。黄蝶の姿も見えました。蝶は春の季語であり、特にその年初めて目にする蝶を「初蝶」といいます。

色彩が鮮やかでひらひらと軽やかに視界を横切っていく蝶は、それだけで春の明るい気分を象徴しています。ルリタテハは成虫のまま越冬が可能な蝶で、この日見たのもそうした個体だったでしょう。翅のブルーの模様が印象的です。

家の前のソメイヨシノが開花し始めました。三連休明けは雨で始まり、周囲の峰はヤマザクラに彩られています。ヤマザクラの花びらはそばで見るとほぼ白色ですが、離れると淡い桜色がわかります。薄い靄を通してその桜色を見ると、幽玄といいますか、日本の微妙な色彩感覚はやっぱりこれだなと感じます。水蒸気の多い日本の大気にこそ桜は映えるのです。


<雨の日>
雨の日の森は晴天の日とは違う表情をしている
木漏れ日の森を歩くのは素晴らしいが
雨の森を歩くのも素晴らしい

濡れた落葉を踏んで森に入る
木立が靄の中へと溶け込んでいく
その彼方はどこか異界へ
通じているような気にさせてくれる

雨に光る落葉樹の幹
雫を落とす照葉樹の葉
ときおり響く鶯の声

梅の花はもうすぐ終る
最後の八重の紅梅の間で
小さな毛虫が雨宿りをしていた
梅の花びらにも毛虫の毛にも雫が光っている

傍らに立つ山桜の古木の枝先が
ほんのり紅潮し始めている
間もなく開く蕾が息づいている

そして雨はすべてのものの上に
静かに降り続く


今日の名言:あなたは命あるものを、 使い古したら捨ててしまう靴や身の回りの品のように扱うべきではない。


IMG_0277

□◆□…優嵐歳時記(2132)…□◆□

  春分の都会見下ろし観覧車   優嵐

春分の日の朝は大阪の駅前にいました。梅田にはHEP FIVEという大きな観覧車があります。昔、観覧車というと遊園地のものでしたが、これは世界初のビル一体型観覧車で、1998年に登場しました。10階建ビルの7階が乗り場になっています。直径75m、最上部の高さは約106mあり、大阪城や明石海峡大橋、生駒山なども一望できます。もっともこの日は黄沙の影響でほとんど見えなかったでしょうけれど。

夜の都会のイルミネーションは確かに観覧車にはぴったりだろうと感じます。現在世界最大の観覧車はシンガポールにあるシンガポール・フライヤー(高さ165m)だそうですが、構造的にどれくらいの高さの観覧車まで建設可能なのでしょうか。


<ノンストップ>
一日八時間眠るとして
もしこの時間のすべてを眠らずに
過ごせるなら
人生は今の三分の二で十分だ

なぜ眠りをなくしてしまう研究が
進まないのだろう
寿命を三年五年と伸ばすより
睡眠をなくす研究を進めた方が効率的だ

ノンストップで覚醒し続ける
いっときも休まず
なんの無駄もない
もしそれが可能なら
あなたはそれを選ぶだろうか


今日の名言:人生において最も絶えがたいのは悪天候が続くことではなく、 雲一つ無い晴天が続くことである。


IMG_0270

□◆□…優嵐歳時記(2131)…□◆□ 

  大橋も淡路も隠し霾ぐもり   優嵐

「霾(よな)ぐもり」とは黄沙のことです。土曜日の夜は雨で風も強く、春分の日の朝は黄沙で霧が立ち込めたようになっていました。アートセラピーのために大阪に向かいましたが、いつもは明石駅を出ると目の前に見える明石海峡大橋がまったく見えず、直下まできてようやく橋桁と主塔の本土側がぼんやりと見え、黄沙の凄さを実感しました。

今日のワークは粘土を使いました。信楽焼で使われる陶土を各自3kgほどずつとり、まず球形にします。陶芸用の粘土に触れたのは初めてでした。ひんやりとして気持ちがよかったのですが、球形にするのはなかなか大変でした。粘土というと小学生時代にさわった紙粘土のイメージしかなかったのですが、陶芸用粘土は容易には混じり合ってくれず、ぼろぼろと崩れていきます。

押し付けて強引にくっつけようとしたらダメというメンバーの方のアドバイスを受け、ちょっと気持ちをゆったりさせ、粘土そのものが自然になじむように穏かにゆらしていくと、不思議にもそれなりに球形になってくれました。

何でも急いで結果を出したがる私は周りの方の粘土が球形になっていくのに自分の粘土がなかなか思い通りにいかなかったので、少々焦っていました。こういうときに気持ちを落ち着け、アドバイスを受け入れるということが今の自分にとっては必要なことなのかもしれない、とふと思いました。

球形を作っている間かなり和やかな雰囲気でした。講師の方によれば、円や球というのは人間にとって根元的な形で、癒されるのだそうです。子どもが最初に描くのは円ですし、作るのは球形の泥団子です。

球形を作ったあと、そこから芋虫を作ってくださいと言われました。球形は卵であり、そこから芋虫が生まれるのです。球形の粘土をゆっくり転がして円筒形にしていこうと思うのですが、形を変えていくと粘土にヒビが入ってなかなかまとまりません。

再び自分だけが遅れている、という焦りが頭をもたげます。手の熱で粘土が乾いてきていると言われ、表面に霧を吹いて粘土を指でこねてくっつけることを何度も繰り返してなんとか芋虫らしい形にもってきました。内部はぼろぼろであっても外側はその形に落ち着いてやれやれという気分でした。

全員の芋虫を前にそれぞれワークの感想を述べあったとき、他の方もヒビ割れていること、そこをなんとか取り繕ったことなどを話されました。これを聞いて少しほっとしました。同時に、自分はかなりいい加減な人間だと思っていたのですが、結構生真面目な部分もあるのかもしれないとも思いました。

自分が芋虫のヒビ割れをごまかしているという意識があり、それが良くないことだという思い込みがどこかにあったのですね。ただ、臨機応変ということがあっていいし、生まれて初めて触れた粘土で簡単に形を整えられるものではないのだから、そのところを差し引いて考えていいでしょう。

アートセラピーで作る作品は「うまく」とか「美しく」とかを目指すものではありません。作品そのものよりも作る過程で自分が感じたことや気づいたことの方が大事なのです。

アートセラピーにプロのアーティストの方が参加されたときのことを講師の方が話してくださいました。参加するまでは、そのアーティストの方は「自分は普段から作品と向き合っているのだから、そんなことをしなくても自分のことはよくわかっている」と言われていたそうですが、実際にやってみると全く違うことに気づかれたのだとか。

その差はどこにあるのかといえば、「意識と無意識」ということになります。いろいろな言い方はあるのでしょうが、意識して、テクニックの粋をこらして作品を作るのがプロのアーティストの仕事だとするならば、アートセラピーはあえてテクニックを外し、わざわざ扱いにくいパステルや陶芸用の粘土を使って無意識領域を掘り下げることを試みます。

プロのアーティストの目標とするものが素晴らしい作品だとするならば、アートセラピーは自分の内面を見つめ、気づき変革していくためにアートを使います。言葉や表面的な理屈では到達できない部分にもアートを通してなら近づくことができるからです。


今日の名言:不幸なあなたは希望をもて。幸福なあなたは用心せよ。


IMG_0261

このページのトップヘ