優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年04月

□◆□…優嵐歳時記(2170)…□◆□

  降りだせば声高らかに昼蛙   優嵐

蛙は春の季語です。カエルとも読まれますが、カワズと読まれることが多いようです。今日の句も「ひるかわず」と読んでください。

さて、28日のblogに「季節が変わっていくその兆しを感じ取るときほど幸福感にみたされる瞬間はありません。(中略)人間同士のあれこれで得られる幸福感とは何か別の次元の喜びだと思えて仕方がありません」と書きました。29日の朝目が覚めた時、「因果律と外れているから」という声が聞こえました。

※因果律とは--ある事象A(原因)に引き続いて他の事象B(結果)が必然的・規則的に生ずるとき,AとBには因果関係があるといい,これを原理として立てるときこの法則を〈因果律〉とか〈因果〉という。--「コトバンク」

因果律と外れている? まだ半分眠っているような頭で思いをめぐらせていると、「感情というのは基本的に因果律から外れているものであり、自分が選び取っているものだ」ということが突然わかりました。

この世の物質的なことはすべて因果律に従います。朝は昼になり夜になります。生まれたものは成長・老化し、遅かれ早かれ必ず死にます。朝が突然夜になったり、生まれたものが永久に老化しなかったり死滅しないなどということはありません。そこには厳然とした因果律があります。

しかし、感情や考えはそういうものと違います。人は自分の中に起こってくる感情が何かによって引き起こされたと思いがちです。怒らせる、悲しませる、喜ばせるなどという言葉を私たちは当然のように口にします。しかし、実はこれが間違った考え方だということに気がつきました。

感情は私が選んでいるのです。たくさんある感情のカードの中から今はこの感情を選ぼうと決めてその感情を自分で手に取るのです。出来事と感情の間に因果律はありません。どれほど因果律があるように見えても実は違うのです。

私たちは感情を学習しているように思います。「こういうときはこういう感情を抱くべき」だといつの間にか学習し、それを選び取っているのです。人間同士の行動と感情の間には、あたかも因果律であるかのような関係が成り立ちやすくなっています。

季節の移り変わりを感じ取るときに大きな幸福感にみたされ、それが人間同士のあれこれで得られる幸福感とは次元が違うもののように感じられたのは、これが感情の因果律と思いこんでいたものから外れているからだと気がつきました。

ある感情が生まれるには、それにふさわしく思える何かがなければならないと私たちは思い込んでいます。喜びなら喜びを呼び起こす何か、腹立たしいなら腹立たしいと思わせる何か、です。それが自分の感情の引き金を引くと思っているのです。

これだと私たちは鈎でひっかけて水槽から吊り上げられる魚のようなものです。ある感情の鈎がきたら有無を言わさずその感情で吊り上げられ、自由はありません。これが「因果律」です。しかし、自分がその感情を選んでつかんでいるのだとしたら、いつでもそれを手放して自由になることができます。これが「因果律から外れる」ということです。

これは私にとっては結構大きな発見でした。明日もこのことについて考えてみたいと思います。


<錯覚・その2>
自我は錯覚だという
なぜそのような錯覚が生まれたのか

この世で生きていくためには
肉体がなければならない
肉体は生き残らなければならない

人間には強力な肉体的武器がない
生き残りのために発達した武器の一種が自我

自分のまわりは敵であり
得体の知れないものである

自我は記憶の中にデータを溜め込み
何かに出会う都度それを参照する
過去を参照しつつ未来に備える
戦うか逃げるか

自我は両刃の刃
己を守ると同時に外界と遮断する

自我は背中のザックのようなもの
未熟な人ほど荷物が大きくなる
あれもこれもと詰め込むから

人生は長距離の徒歩旅行
しなやかに素早く自由に歩くには
背中の荷物は軽い方がいい

最小限のものを工夫して使う
不要なものは捨て去ること
すべてのものは敵と怯えず
すべてのものの友であるように


今日の名言:敵のため火を吹く怒りも、加熱しすぎてはあなたが火傷する。


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□◆□…優嵐歳時記(2169)…□◆□

  さわさわと風通りけり竹の秋   優嵐

晩春になると竹の葉が黄ばんできます。地中の筍を育てるために一時的に葉が衰えるからです。これを他の植物の秋の様子になぞらえて「竹の秋」と言います。周囲の野山は若葉の季節を迎えており、萌え出した緑を揺らす風が黄ばんだ竹の葉も揺らしていきます。

四月は間もなく終り、春も終りです。八十八夜が5月2日、立夏は5月5日です。さすがに晴天になると日差しが強くなったことがわかります。風がさらりとしているため、まだ暑さはそれほど感じませんが、目を細めていないと光がまぶしく、紫外線も強くなっています。


<錯覚>
人間の最大の錯覚は
変わらない「個」としての自分が存在する
と思い込んでいること

こうして呼吸している間にも
自分は変わっている
身体中の細胞が刻一刻と
入れ替わっている

食べたものと呼吸したものによって
ひとときの休みもなく

独立した「個」というものはありえない
入れ替えによって
すべてがつながっているから

それなのになぜこれほどはっきり
「個」が存在すると勘違いしているのか
誰がそう思い込んでいるのか

そう思い込んでいるのが
「自我」という名で呼ばれるもの
そう錯覚しなければ自我は存在し得ない


今日の名言:いつまでも人を恨んでいてはならない。あなたが恨んでいる人は、人生を楽しんでいる。


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□◆□…優嵐歳時記(2168)…□◆□

  水平線まっすぐ見えて夏近し   優嵐

春から夏へと移っていく頃を表す季語は数多くあります。「行く春」「春惜しむ」「惜春」「夏近し」「夏隣」などです。ここから派生した季語がまたいくつかあり、微妙な違いをどう詠むかも句を作る楽しさです。今日の句は去ろうとしている春よりは、やってくる夏に心を置いて詠んでいます。

ほぼ毎日増位山の頂上に立っています。毎日様子が変わり、同じ場所とはいえ全く飽きません。これまでは淡く霞んでいることが多かった水平線が、この日はくっきりと見え、海も青さを増し、ああ、もうすぐ夏だという思いがわきあがってきました。

大げさな言い方ですけれど、季節が変わっていくその兆しを感じ取るときほど幸福感にみたされる瞬間はありません。別にお金がもらえるとか、いいことがあるとかそういうのではなく、なにか純粋な喜びが押し寄せてくるとでも言えばいいでしょうか。

これは恋愛とかビジネスとか、誰かに何かをしてもらったとか、そういう人間同士のあれこれで得られる幸福感とは何か別の次元の喜びだと思えて仕方がありません。なんていえばいいか、自分がもっと大きな何かに包み込まれる瞬間、その喜び、そんな感じですね。


<別のもの>
頂から沖の小島を見ていた
あの小島まで歩いていくことはできない
小島は「別の土地」なのだろうか

もし播磨灘の海水を吸い上げてしまったら
小島は陸続きになる
どこからどこまでが島なのか
目に見える「別の土地」は消失する

これと同じことがすべてのことに言えないか
ずっとそこに存在すると思い込んでいる
何かを取り去ってみたら
分離された「別のもの」なんてない


今日の名言:もし君が人に愛されようと思うなら、まず君が人を愛さなければならない。


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□◆□…優嵐歳時記(2167)…□◆□ 

  木の芽山あまりに明るき真昼なり   優嵐

ゴールデンウィークが近くなりようやくお天気が安定してきました。晴天になると周りの山々の緑がどきどきするほどのまぶしさです。新緑という季語を用いてもよさそうなものですが、新緑は初夏の季語です。「木の芽」を入れた季語がいくつもありますから、それで詠んでみたいと思います。

坂井泉水さんの月命日、今日とりあげるのはZARDの3枚目のオリジナルアルバム『HOLD ME』(92.9.2)に収録されている『遠い日のNostalgia』です。ピアノの調べが印象的な清涼感のある佳曲です。

遠い日のNostalgia 



ところで、この歌の主人公は男性でしょうか、女性でしょうか? よく聴いてみても明確にわかるような言葉を坂井泉水さんは使っていません。歌詞の中で一人称代名詞は使われておらず---<僕>か<私>が登場すれば主人公の性別は決定します---、二人称代名詞は<君>です。<君>は歌詞の場合、男女どちらが使っても不自然ではありません。一方、<あなた>はどちらかというと女性的、<お前>は明確に男性を示唆します。

さらに「ごめんね内緒であの子と出かけたこと」というフレーズは絶妙です。ここで三人称代名詞に<あの子>を使い、<彼>とも<彼女>とも言っていないところが実にうまい。坂井泉水さんは、この楽曲においては、意識的に主人公の性別をあいまいにしていると感じます。そういうことができる日本語の特性を知り、それを歌で活かすことを試みていると思うのです。

英語で会話をすると、話題になっている人の性別がすぐにわかってしまいます。heかsheを使わなければならないからです。しかし、日本語の場合性別を明らかにせずに会話を続けることができます。<あの子>という代名詞はその典型であり、さらに男女どちらがどちらに対して使っても不自然ではありません。

歌詞全体はやや男性的傾向の言葉の並びですが、歌っているのが坂井泉水さんという女性ボーカリストであり、その声質がその傾向を和らげてニュートラルなところに引き寄せています。主人公が女性と考えた場合と男性と考えた場合で広がる世界が微妙に違います。

聴き手によってどのようにでも場面を思い描くことができるのが、この楽曲の隠れた魅力ではないでしょうか。さらにそれが可能なのは、クロスジェンダー・パフォーマンスの壁が無い日本語を母語とする聴き手だけでしょう。


今日の名言:与えてください。あなたの心が痛むほどに。

□◆□…優嵐歳時記(2166)…□◆□ 

  ありそうでなさそうなこと亀鳴く日   優嵐

春の夕暮れどき、雄亀が雌亀を慕って鳴くと言われていますが、実際には鳴きません。なぜ季語になっているかというと、藤原為家の題詠歌「河ごしのみちのなかぢのゆふやみに なにとぞきけばかめぞなくなる」によっているそうです。随願寺境内の池のそばを歩いていると亀がぽちゃっと池に入り、目の前でまるでポーズをとるように止まってくれました。これは一句にすべきと考えて今日の句です。

Twitterに二つ目のアカウントを持ちました。140文字のTwitter詩はそれなりにおもしろく楽しんでいます。二つ目のアカウントでは違う形式の詩を書いてみようと思います。今度は十三文字の俳句もどきです。私がこれまで詠んでいるのは、「有季定型、新仮名」というタイプの俳句です。

俳句にはこれ以外にもいくつかタイプがあり、季語を入れない「無季」、表記に旧仮名(例えば蝶々を”てふてふ”と書く)を使う、十七音の定型にこだわらない「自由律」、などが大きな違いでしょう。自由律俳句では有名な俳人に尾崎放哉種田山頭火などがいます。

このうち自由律俳句に近いものを十三文字で詠めるのではないか、と考えたのです。なぜ十三文字かというと、これにはヤフー・トピックスというヒントがあります。私はほとんどヤフー・ニュースを見ないのですが、いまやネット最大のニュース・メディアなのだそうです。『ヤフー・トピックスの作り方』--この本の案内を見て、十三文字という制限で句のようなものを詠んだら楽しいかも、とひらめいたのです。ヤフー・トピックス俳句ですね。

定型の俳句は十七音ですが、文字数にはこだわりません。全部かなだと十七文字になりますが、そんなことはほとんどなく十三文字程度ということもよくあります。有季定型とはやや形式を異にして、できるだけ季語は用いずTwitterらしい「つぶやき」のようなものを詠めたら、と考えました。ヤフー・トピックスは13文字×8本が基本ですから、ヤフトピ俳句もこれでいこうと思います。

ここで日本語の特性が発揮できます。日本語は同じ言葉でもかな書きと漢字では字数が異なる場合が少なくありません。同じ言葉を十三文字の中にうまくおさめるためにどう書けばいいか工夫するのもおもしろいでしょう。


<春深し>
快晴の頂は静かだった
沖には水平線
日差しは強く眩しい

時おり聞こえる囀りが
静けさを一層深くする
頭上では萌え出した小楢が輝いている

やわらかな風を受けながら
この静けさの中に座っている
時がしばし歩みを止めたようだ


今日の名言:勝手に君があきらめるから『夢』になる


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□◆□…優嵐歳時記(2165)…□◆□

  遠ざかる新幹線へ木の芽風   優嵐

増位山は姫路市街の北部に位置します。山頂に立って播磨灘方面を見ると、新幹線が市街地を東へ走っていくところに出会いました。白く光る車体は疾走感があり、遠くからでもそのスピードを実感できます。

新幹線は初登場が東京オリンピックの年ですので、俳句の題材になったのはせいぜいここ半世紀です。死語になっていく季語もある一方、こうした新しいものが新しい感覚で詠まれるようになるのも俳句のおもしろさでしょう。

ケータイやパソコンはごく最近出現したものです。ただ、新しいもののうちでもすぐに消えてしまうものもあります。ポケベルとかB面なんて、もう今の子どもには何のことかわからないでしょう。そう思うと、自然は陳腐化しないなと感じます。木の芽は百年後も千年後も木の芽ですね。


<わかったこと…その参>
ところでわかったことで
もうひとつわかったことがある

これは終着点ではないのでは?
ここは出発点なのでは?

よくわかったわね
それがわかったのはあなたとしては
たいしたもの

少しは進歩しているんです、こっちも

「あははは」
そのとおり、出発点です

何かをスタートさせなければならない
それが何かは私にはまだわからないけれど

大丈夫サポートするから
あなたは目隠し鬼
私たちが誘導するわ
だから耳を澄ましておいて


今日の名言:たとえ君が何をしていようとも、それをしている自分を愛せ。


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□◆□…優嵐歳時記(2164)…□◆□

  春たけて風芳しくなりにけり   優嵐

空模様はいまひとつですが、さすがに春も深まったと感じます。周囲の野山は若葉の萌え出すときを迎えています。「萌える」は「燃える」と同じ音です。そこに展開される芽吹きと若葉の広がりを日々見ていると、まさに山が芽吹きの勢いで燃え上がっているような印象を受けます。新鮮な緑の炎です。

増位山の駐車場に車を停めようとしていたら、目の前に猪が姿を見せました。草をむしっては食べています。ゆっくり観察したかったので、脅かさないようドアを開けずに様子を見ていました。鼻をひくひくと動かして、なかなか可愛い顔をしています。恐らくいつも目にするのはこの猪だろうと思います。


<わかったこと…その弐>
このことだけど全然新しいことじゃないよね
このことは誰でも知っているし
どこにでも書いてある

「毎度おなじみの、とでも言いましょうか」
彼女はまたにこにこと笑う

あなたはオリジナルを考えようとがんばった
ああやってこうやって、これがこうなって
でもどうしてもうまくいかない

当然よね
どれほどの天才だってそんなことはできない
ましてあなたは天才じゃない
はい、ごもっとも

天才というのはね
前に立っている巨人の肩に乗ることができる人なの

巨人は肩に乗せてあげようと言っているの
でもほとんどの人はその声を聞こうとしない
なぜかしらね


今日の名言:あなたは習慣を好む、なぜならばそれを作ったのは自分だから。


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□◆□…優嵐歳時記(2163)…□◆□

  少し影ありし所に菫の座   優嵐 

昨日の日中は思いがけないほどの土砂降りの雨になりました。春雨というよりスコールに近いような降り方です。この春は天候不順でキャベツなどの春野菜の値段が高騰しています。コンビニのサラダからキャベツが消え、代わりに大根が入っているとか。

近所のマーケットに行ったらもやしが山積みになっていました。葉もの野菜の値段が高いため、もやしが大モテなのだそうです。確かに安い。さっそく買って帰り、お昼はもやし炒めを作りました。

梅林のかたわらでスミレが咲いていました。シャガも咲き始めています。これらの花は直射日光があたる場所よりも、他の植物によって日差しがやわらげられたところに生えています。そのせいか控えめな印象を受けます。


<わかったこと…その壱>
なんか、わかったかもしれない
ようやく雲が晴れたかも

彼女は座ってにこにこと笑っている

おいっ
笑っている場合じゃないでしょ
こんな簡単なこと
なんで教えてくれなかったの?

何度も教えたわ「シンプルに」って

それは覚えています
ええ覚えていますとも
でもそれがこんなことだったなんて
こんなことならずっと前から知っていた

ほとんどの人がそう言うわ
気がついた人で
初めて見た、知らなかった
という人には会ったことがない

ほんとはね、みんなよく知っているの
でも、知らないんだな

見ているのに見えていない
聞いているのに聞こえていない

この世に新しいことはないの
あるのはシンプルな事実をどう組み合わせるかだけ
大昔から何度もそのことは言われているけれど
人間はそのことがわからない
わからないから人間をやっているんだけど


今日の名言:「今が最悪の状態」と言える君は、まだ最悪の状態ではない。


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□◆□…優嵐歳時記(2162)…□◆□

  山なみの彼方は神戸木の芽晴   優嵐

さまざまな木が芽吹く頃を季語で「木の芽時(このめどき)」といいます。ここから「木の芽風」「木の芽晴」「木の芽雨」「木の芽冷え」といった季語も生まれています。微妙な遅速はありますが、木々がいっせいに芽吹く時期は一年のうちでも最も自然の生命力を感じる時です。

緑が芽吹き、さまざまな色合を見せる今頃の雑木山の美しさは、秋の紅葉とは一味違う魅力があります。増位山からの景色の見事さは、こうした周囲の山々に加え、市川の流れ、播磨灘、姫路市街といった要素がうまく組み合わされていることでしょう。

見通しのきく日は淡路島、六甲山、西神戸の市街地などまで見え、300mに満たない高さとは思えない雄大な展望を楽しむことができます。


<わかるということ>
わかるということには段階がある
その段階を
日本語は身体感覚で示している

頭に入らない
頭でわかっているだけ
噛み砕く
噛み締める
飲み込む
消化する
吸収する
腑に落ちる
身につく

頭にあるだけでは
理解したことにならない
はらわたに染みとおって
初めて身につく段階へ進める


今日の名言:あなたの長所は欠点があるということである。


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□◆□…優嵐歳時記(2161)…□◆□

  頂の空は我がもの岩燕   優嵐

昨日は二十四節気の穀雨でした。春の最後の節になり、暦の上の春はあと二週間で終わります。空模様はまだすっきりしませんが、気温はさすがにあがってきました。増位山の頂はツツジの競演です。コバノミツバツツジに続いてモチツツジが咲き始めました。モチツツジは花の萼や柄、葉などの腺毛から粘液を分泌します。そのためそこにふれると粘り気があります。名前の「モチ」はそれに由来しています。

頂では春から夏にかけてイワツバメの姿が見られます。ツバメより小さく腰が白く全体にツバメよりずんぐりしている印象です。しかし、飛翔の素早さはツバメの名に恥じません。ツバメが家並みの中を飛ぶのに対し、こちらは下界を見下ろす頂近くを颯爽と飛びます。もし、一日だけ鳥にしてやろうと言われたら、私はイワツバメを選びたいですね。


<阿部槇>
阿部槇の巨木の下に朽ちた枝が落ちていた
見あげると広げた枝の隅々から
今年の若葉が生まれ始めている

阿部槇にとって何度目の春だろう
冬にはあたり一面この阿部槇の葉で埋まる
朽ちた枝は阿部槇が自分自身で落としたもの

脱ぎ捨てるもの、切り離すべきものを
阿部槇は知っている
そうして長い年月を生きてきた
手放すべきものは手放して


今日の名言:人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し。


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