優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年05月

□◆□…優嵐歳時記(2201)…□◆□   

  夏蝶と連れ立ち歩く山路かな   優嵐

五月末の快晴の日ともなれば、もう日向を歩くには暑く感じられます。週末はいいお天気でした。天気予報を見ると来週もいいお天気が続くようです。今度雨模様になると「走り梅雨」、そして「梅雨入り」へと移っていくのでしょう。

最近よくうどんを食べます。特に好物というわけでもないのですが、近所のスーパーで三、四袋で99円なんていう安売りをしているため、つい買ってしまいます。うどんを茹でて粉末のうどんスープをお湯で溶き、そこに入れればできあがり。

具にはきつねうどん用に味がつけられた揚げを買います。それがない場合、いなり寿司用の揚げでも大丈夫です。二つに切ってあるだけの違いです。野菜の天ぷらも入れればボリュームアップです。あとは葱を刻んでのせます。

麺類ではやはりうどんが一番あきがこないなと思います。香川県の方ほどではないですが、関西圏の人間なので、蕎麦よりはうどんになじんでいます。


<キビタキ>
森でキビタキを見た
胸の黄色が若葉に鮮やか
コナラの枝から枝へ
二羽が盛んに羽の音をさせて飛び回っている
縄張り争いらしい


今日の名言:あちこち旅をしてまわっても、自分から逃れられるものではない。


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□◆□…優嵐歳時記(2200)…□◆□

  夏草の中へうさぎの跳んで消え   優嵐

増位山の駐車場近くでウサギを見かけました。飼われていたのが野生化したものと思われます。こちらがじっとしているときは、そのままでしたが、腕をわずかに動かしただけで、敏感に察知して逃げていってしまいました。

視覚は動きに敏感です。これは人間でもそうでしょう。視野の端であっても何かが動くとぱっとそれに気がつきます。ポップアップ広告や動画の広告が神経にさわるのは、そうした視覚の性質を刺激するからではないかと思います。

動きに敏感なのは進化の名残なのかもしれません。捕食者の気配をいちはやく感じ取って逃げる。人間はここまで知能が発達し、共同で狩をおこなうようになるまでは、多分捕食されるばかりの弱い存在だったでしょうから。


<五月の森>
快晴の五月の森をひとり歩く幸せに
匹敵するものはあまりない
強くなった日差しは
広がった青葉でさえぎられ
その下を心地よい風が通り抜けていく

重なり合った青葉の
微妙な色合の変化
ほんのわずかな風にも
木漏れ日がゆらゆらと揺れる

ひとり森の空間を行くとき
私は広がっており
自由で開かれている
木々や鳥やせせらぎや
あらゆるものとの境界が
果てしなく薄くなる



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□◆□…優嵐歳時記(2199)…□◆□

  ぽっかりと青空見える銭葵   優嵐

ゼニアオイが咲き出しています。ヨーロッパ原産の越年草で、江戸時代にはすでに渡来していました。園芸的な改良がほとんどされておらず、今も原種に近い姿をとどめているといいます。間もなく六月ですから、花も初夏のものから仲夏のものへと移り変わっています。アジサイが色づきはじめ、バラも美しいころです。

今日は比較的風があり、頂のベンチに座っていると爽快でした。葉が茂って、もう盛夏のころとほとんど変わらなくなりました。冬は日差しが差し込んでいたところも今は薄暗くなっています。


<アイデア>
アイデアはどこからやってくるのだろう
上から降ってくるのか
胸の内に湧いてくるのか

髪を洗っているとき
散歩の途中
運転中

今は手が離せない
そんなとき不意に顔をのぞかせる
目が覚めた直後にも

チャンスの神さまには前髪しかないという
アイデアも同様だ
通り過ぎてしまったら
呼び戻すのが難しい


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□◆□…優嵐歳時記(2198)…□◆□

  新樹光カーブミラーをいっぱいに   優嵐

増位山では今、大量の毛虫を見ることができます。頂のベンチで5,6匹同時に這い回っていることも珍しくありません。体長3cmほどで、毛がたくさんあり、マイマイガのよう思えたのですが、図鑑を見ても脱皮して姿が少しずつ変わっていくため、特定できませんでした。

手の甲にくすぐったい感触があり、ふと見るとコナラの木から落ちてきたと思われる一匹がもぞもぞと這っていました。毒はないようです。ベンチに乗せて、しばらく見ていると、ぴっとお尻をあげます。なんだろうと思っていると、そこから2mmほどの緑色のものが出てきました。フンです。若葉を食べるためその葉緑素がそのまま含まれているのです。

もう一度手の上に乗せてみようと思い、指を近づけましたが、ちょんちょんとつついてはさっと避けます。何度か試みましたが、その都度回避されてしまいました。

駐車場の車に向かっていると、背後でごそごそと音がします。ふと見ると猪がいました。かなり近距離でしたが、ほぼ毎日ここへ来ていますから、あちらも慣れてきたのでしょうか? 


<太陽の子>
時雨がちの頂に登ってみると
空気は意外なほど澄んでいた

周りの山々の緑が濃くなった
市街地のビルの輪郭が鮮やか
播磨灘の向こうに
淡路島の西岸がくっきりと伸び
大鳴門橋も見えた

けれど蝶は姿を消している
日差しが降り注ぐ真昼の時間のみ
ゆらゆらと夢見るようにやってくる
彼らは太陽の子


今日の名言:他人の生活と比較することなく、君自身の生活を楽しめ。


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□◆□…優嵐歳時記(2197)…□◆□

  風いつもそこにありけりカラー咲く   優嵐

カラー、別名オランダカイウは1843(天保14)年オランダ船によって日本にもたらされました。南アフリカ、ケープ地方が原産です。仏像の光背のような見事な苞を仏炎苞(ぶつえんほう)といい、サトイモ科にはミズバショウをはじめ、美しい仏炎苞を持つものが多く、カラーはその代表です。切り花で室内に飾られていても、周囲に風が吹いているような雰囲気を感じさせてくれます。

カラーは坂井泉水さんが好きだった花です。彼女が亡くなって今日で丸三年になります。YouTubeに書かれている彼女へのメッセージには、感謝とともに、「励まされた、勇気づけられた」というのが目だちます。私の場合は「導かれた」というのが近いですね。なぜかはわかりませんが、彼女が導き手のひとりになってくださった。感謝しています。泉水さんが新しい世界で、さらなる歩みと成長を続けられますようお祈りしています。

さて、今日は、ZARDには珍しく自伝的要素が入った『forever you』を取り上げます。6枚目のオリジナルアルバム『forever you』(95.3.10)のタイトル曲です。坂井泉水さんが女性の視点で詞を書いている楽曲であっても、私は、彼女が自分自身のことを直接的に歌っているものはあまり無いと思っています。その中でこれは数少ない一曲ではないでしょうか。

forever you 



「若い頃は人一倍好奇心が強くて いろんな周囲(まわり)の人や家族に迷惑ばかりかけてた」と始まる冒頭。実際に『きっと忘れない』によれば、彼女は大変好奇心の強い子どもだったらしく、「なぜ?」「どうして?」の質問はご両親が困り果てるまで繰り返されました。

さらに、人とはちょっと変わった視点を持ち、一度興味を覚えると、もの凄い集中力で対象に向かっていき、周囲を驚かせたといいます。後のZARD・坂井泉水の片鱗はこのあたりからすでに芽生えていたのです。

それにしても「若い頃は…」って、この楽曲発表当時の彼女は28歳になったばかりです。つまり制作時はそれより若く、20代半ばです。ティーンエイジャーとはいえませんが、まだ自分自身が十分「若い」といえる年齢でしょう。

ただ、彼女が若くして亡くなる運命にあったということを考えてみると、彼女にとって一年が過ぎる速さは平均寿命まで生きる人の倍に相当していたのかもしれない、と思います。28歳ではあっても精神年齢としては50代から60代くらいの成熟度に達していたかもしれません。亡くなった直後のテレビのインタビューで、デビュー当時のZARDのメンバーだった方が、彼女のことを「大人だった」と形容されていました。

スピリチュアル的に見れば、人間は、肉体の脳の意識では知らなくても、いつこの世を去るかを、霊の意識では理解しているそうです。私がZARDの楽曲を聴くようになったのは亡くなった後のことですから、全体を俯瞰して一気に聴きとおすことができました。そして、私自身も、坂井泉水さんは精神の深い部分では、この世にそんなに長くは滞在しないことを知っていたのではないかと思いました。

詞に使われている言葉、題名、活動方法など全てをあわせてみると、彼女の「たましい」は何をいつどのようにおこなうべきかを知っていたと感じられるのです。ラブソングの体裁をとりながら、よく歌詞を吟味してみると、何か「大きな存在からの啓示」といえる要素が入っているものが少なくありません。


□◆□…優嵐歳時記(2196)…□◆□

  真っ直ぐに伸び行く竹の皮を脱ぐ   優嵐

筍が生長し、もう見上げるような高さになっています。天辺はまだ筍の形をしていますが、根元からしだいに皮がとれて若竹の姿が見え始めています。いつもこの姿をみると中学生くらいの少年を連想します。背丈がぐんぐん伸び、青年の雰囲気が漂い始めているのですが、まだ幼さやその間にあるぎこちなさも多分に残している、そんな感じです。

「汝自身を知れ」についてもう少し考えてみました。作家・吉川英治の座右の銘は「我以外皆我師(われ以外みなわが師)」でした。『宮本武蔵』の中にもこの言葉が出てきます。以前から知っていて、「人のふりみてわがふりなおせ」といったことわざに近いものだろうと解釈していました。「汝自身を知れ」という言葉について考えているうちにこの言葉が浮かび、これはもう少しいろいろな意味を含んでいるのかもしれない、と思いました。

我以外皆と言っていますから、吉川英治は師を人とは限っていないわけです。「ありとあらゆるものが自分の師になりうる、師とするのはそれを見る人間のものの見方だ、そういう目を持ちたい」吉川英治はそういうことをこの言葉にこめているのではないか、という気がします。

なんでもないことが突然驚くような気づきをもたらしてくれることがあります。以前の職場へは毎日マウンテンバイクで通っていました。今頃になると毛虫がたくさん道路に這い出てくるようになります。車の通りが結構あるので、たいてい轢かれて死んでしまいます。それを見ながら、「なんでこんなところに出てくるんだろう、バカだなあ」と思っていたものでした。

ところがある日、ふと、「自分が毛虫を見ている立場は、神仏が人間を見ている立場に似ているかもしれない」と思いました。毛虫の行動が愚かであるように人間の行動も愚かなのです。自分がよかれと思って、日々を毛虫のようにあくせくと動き回っている。眼の前のことしか見えないからそっちへ行ったら車に轢かれることもわからない。

神仏は、「ああ、また愚かなことをしているな」と思いつつ、人間を見ています。神仏の視点からは丸見えで自明のことが人間にはさっぱりわからない---。これに似たような気づきは思い起こしてみるとそれなりにあるものです。世界は主観を通した私の心のあらわれですから、世界のすべては”汝自身を知るための鏡”になるのです。


<驚異と歓喜>
目があるから見えるわけでも
耳があるから聞こえるわけでもない

見る目があって初めて見え
聴く耳があって初めて聞こえるものがある

誰もが無垢な目を持って生まれ
世界を驚異と歓喜のまなざしで見つめる
それが成長とともに不透明なベールに覆われるようになる
先入観とも常識とも

世界から驚異も歓喜も消える
退屈という帳が下りる
見えないのではない
見ていないのだ

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□◆□…優嵐歳時記(2195)…□◆□

   森影の濃くなる不如帰鳴けば   優嵐

ホトトギスはカッコウ科の鳥です。鳴声は「テッペンカケタカ」「トウキョウトッキョキョカキョク」などと聞きなされ、古くから日本人に親しまれてきました。「時鳥」「不如帰」「子規」と当てる漢字もたくさんあります。その大きな鋭い声を聞くと、夏だなあと思います。

さて、昨日の「汝自身を知れ」についてもう少し考えてみました。「汝自身を知れ」はデルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言です。さまざまな解釈があるようですが、私はこれを次のふたつと解釈しました。

第一は、「外側の世界に映った自分の姿を見て自分自身を知ること」、これは先日から書いていることそのままです。外界は自分の心の投影であり、それに惑わされず、それを己の心を知る道具として使い、さらには自己制御の用具とすることです。

第二は、「内側に入りその経路を使ってその先に広がる無限の叡智につながること」、昨年からの経験を通して、人間には外側との関係以上に、自身の内側との関係が重要だと悟るようになりました。私は今この現実の私として存在していますが、肉体が先にあるのではなく、内側の「何か」の方が先であり、それだけが永続するコアです。「何か」はなんらかの経験をするためにわざわざ肉体を持ったのです。

そして、その「何か」が本来の故郷とつながる通信経路は、内側にしかありません。外のどんな書物にも情報にもそれは書いてありません。書いてあってもそのままでは理解できないのです。つまり、叡智は内側にしかない、内側を通らないと理解できない、ということです。静かに内側に入り、その向こうからやってくる声に耳を澄まします。

霊的な智慧の教えは必ずそのことに触れています。あなたの内側に神や仏がいる、と。それが何のことかなかなかわからなかったのですが、ようやく、このことなんだと実感できるようになってきました。私が求めたのではなく、向こうからドア叩いてくれた、というのが真実に近いです。

昨年の二月から三月にかけて突然それが起こって、物事に対する考え方が大きく変わりました。それで終りだと思っていたら、それが始まりで、まだまだこれから大きく変わっていきそうです。人間が一度に受容できる智慧というのは非常に限られているのだと思います。

プールの水を一度にコップに注ぐことができないように、飲み干せる分だけ徐々に送られてくるのです。そして、叡智は果てしないほど大きく、とても人間のただ一度の人生ですべてを知ることはできませんし、その必要もないでしょう。


<請求書>
死後の世界があるかないかについて
いまだに議論はつきない

考えてみると
死んで何もなくなってしまうより
肉体は捨てられても決して死なない
自己意識は永遠に生きつづけるという方が
ある意味怖ろしい世界ではないだろうか

生きているのが嫌だから
何もかも終りにしたいから
そう思って命を絶つ

生きている間だけが華なんだからと
欲望のおもむくままに
エゴの命じるままに生き
ある日地上の命が尽きる

そして
何もかもなくなってしまうと思っていたのに
死んでもなお自分は残っていること

もはや肉体を捨てたのだから
それ以上何も捨てられないこと
逃げ場がないこと

積み上げられた請求書(カルマ)の
支払いにかからなければならないこと
その事実を眼の前に突きつけられたら……


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□◆□…優嵐歳時記(2194)…□◆□ 

  青羊歯や谷ひたすらに明るくて   優嵐

目が覚めた時、「汝自身を知れ」という言葉が浮かんできました。夢を見ていたのです。ライオンの母子のマンガでした。コマ割りのマンガですけれど、全然見たこともない画風で、一言でいえば母ライオンが子どもを守って死んでいくというような話でした。現実にはそんなことはありえません。

以前、ライオンの生態を描いたドキュメンタリーを見たことがあります。ライオンは母系社会で、一夫多妻です。狩も子育てもすべて雌がおこないます。雄はたてがみは立派ですが、狩をするには体が重すぎるのか、ハーレムの主になって、子どもを残すだけで、あとはぶらぶらしています。

生まれた子どものうち、雌は群れに残りますが、雄はある一定の年齢になると追い出されてしまいます。若いはぐれ雄はハーレムの主が老いて弱くなっているところに目星をつけ、戦いを挑みます。彼が勝てば、ハーレムはすべて新しい雄のものとなり負けた雄は追い払われてしまいます。

その先ですが、新しい雄が最初にやることは古い雄の残した子どもを皆殺しにすることです。情などというものはそこにありません。わが子が殺されていくのを母親は平然と見ており、子どもが死ぬと雌は発情して雄を受け入れ、新しい雄の子どもを妊娠します。

今、ツバメの子育ての様子を身近で見ることができます。動物の親というのは、本当に献身的に子育てをします。池田晶子さんが『14歳からの哲学』で「完全な親というのは、動物にしかいない」と書いていました。確かにそうだろうと思います。子育てのさまざまな問題や時に報道される悲惨な虐待の話をきき、「動物ですらあんなに素晴らしい子育てをするのに」という人がいます。

しかし、これは本末転倒です。人間だから子育てが困難になり、ときに虐待も起きてしまうのです。動物の子育てはすべて本能に支配されており、そこから一歩も出る必要もなければ出ることもできません。人間には「自由意志」というものが与えられています。本能のくびきをはずれ、自分の理性を使って自分の人生を切り開いていける自由です。だからこそ、汝自身を知らなければならないのです。


<いつも>
もしかしたら
人生で一番大事な人に会ったのかもしれない
その人はずっと私のことを知っていた
黙っていつもそばにいた

私がバカなことをしたり
怒ったり愚痴を言ったり怠けたり嘘をついたり
数え上げるもきりがないほどの
愚考と愚行を繰り返している間
ずっと

今もそばにいてくれるはずだ
私は孤独ではない
生まれた時から死ぬまで
ずっとその人はそばにいてくれるのだ
もったいないほどの高貴さと美しさをたたえて


今日の名言:自分こそ正しい、という考えが、あらゆる進歩の過程で最も頑強な障害となる。これほどばかげていて根拠のない考えはない。


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□◆□…優嵐歳時記(2193)…□◆□ 

  黒揚羽影より出でて影を連れ   優嵐

蝶は春の季語ですが、最も数多くみられるのは夏でしょう。春の季語になっているのは、その年最初に姿を見せてくれるのが春に多く、春の使者という印象だからではないか、と思います。歳時記には「夏の蝶」と総称されていますが、その代表はアゲハ蝶です。姿かたちが大きく、ゆらゆらと飛んでいくさまには悠然としたものを感じます。

今日は午前中に弥高山から広峰山を回ってきました。このまえよりも緑の色が濃くなり、一部では木々の下が茂った木の葉で薄暗くなっている場所もありました。これを季語では「木下闇(こしたやみ)」といいます。実に的確な表現で、うまいなあと思います。

ホトトギスの鳴声をききました。夏です。




<想いを観る>
空を流れていく雲を観るように
自己の内に湧いてくる想いを観る

雲は刻々と姿を変える
それにとらわれない
形を変えていく雲と同じように
今の自分の心を眺めている

そのためには心を離れなければならない
心というものがありそれとは別に
もうひとつの自分というものがある
感情を起こす自分とそれを観察する自分だ

それを明確に分離して見つめることができるようになれば
想いに振り回されることは減る


今日の名言:貧しくとも、君の生活を愛したまえ。

□◆□…優嵐歳時記(2192)…□◆□

  桐の花仰ぐ彼方の青い空   優嵐

昨日は二十四節気の「小満(しょうまん)」でした。太陽の黄経が60度に達し、草木が茂って本格的に夏らしさを感じ始めるころです。ただ、二十四節気の中ではマイナーな印象で、俳句として詠まれる方も少ないように思います。

増位山で桐の花を袋に集めていらしゃる方を見かけました。今、山を彩る紫は桐の花のものです。里ではアヤメ科の花が次々と咲き出しています。随分気温があがるようになり、そろそろショートパンツの出番です。


<マーヤー>
世界が自分の心の投影だということは
世界はマーヤー(幻想)だということだ
そこに実体は無い
実体がないものに振り回されている

私の内側の存在はそのことを知っている
生まれる前から知っていた
なぜ今までそれがわからなかったのか

床上10cmに張ったロープの上を歩くのと
地上10mに張り巡らされたロープの上を歩くのと
歩くことは同じだ

それなのに地上10mのロープを歩くのは
とてつもなく難しく思える
同じように重心を保ち、足を交互に運んでいけば
向こうに着けるはずだ
それはわかっている
それなのにできない

同じことだと言われながら
それがどうしても同じことだと思えない
幻想だと言われながら
幻想だと思えない
だからとらわれてしまう

しっかり歩く方法を確認するために
とらわれがとらわれだということを思い出すために
ここにいる


今日の名言:人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするなよ。


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