優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年07月

□◆□…優嵐歳時記(2263)…□◆□

  朝涼のガラスボウルにシリアルを   優嵐

夏の朝の清涼感は格別です。「朝涼(あさすず)」はそれを表した季語です。日中の暑さが予感できるだけにそれがさらに大きいのかもしれません。木曜日に梅雨明け後初めてのまとまった雨が降り、少し空気に秋の気配が感じられるようになってきました。朝夕からしだいに秋が顔をのぞかせ始めます。

昨日の詩にナックルボールを取り上げました。ナックルを投げるピッチャーをナックルボーラーと言います。ナックルは現在の魔球といわれ、習得が大変難しい球種であるためメジャーリーグでさえ、これを武器とするピッチャーは数えるほどしかいません。

現在もっとも優れたナックルボーラーはボストン・レッドソックスのティム・ウェイクフィールドです。以前、テレビで彼が登板しているところを見たことがあります。まるでキャッチボールをしているようなあっけないフォームから投げられるゆっくりしたボール、けれどバッターは打てません。その不思議なさまがずっと印象に残っていました。





彼はバッターとしてプロ入りしたものの、鳴かず飛ばずでメジャーに昇格できませんでした。ところが、たまたまふざけてキャッチボールでナックルを投げているところがコーチの目にとまり、投手に転向。92年にメジャー昇格、当時在籍していたピッツバーグ・パイレーツの地区優勝に貢献しています。

昨年、42歳にして初めてオールスターに選出されました。こういう「瓢箪から駒」のようなお話、それが特にシビアな実力の問われるプロスポーツの世界とあっては、何か楽しい気持ちになってきます。


<ニュートラル>
努力することは素晴らしい
なせばなる
目標を持ってひたむきに打ち込む
確かにある一面ではそうだろう

しかし
努力が執着になったらどうだろう
目的のためなら手段を選ばないといった
えげつないことだけでなく

目標だと思っていたことが
単なるとらわれだということもある
どうしてもその道しかないのか
少し下がって考えてみよう

画面に顔をくっつけていたら
全体像は見えなくなってしまう
正しい方向に進んでいると思っていたのに
実は地形が変わっているかもしれない

トランスミッションの真ん中は
ニュートラルだ
いつでもそこに帰れるような
柔軟さを持っていたい

□◆□…優嵐歳時記(2262)…□◆□

  空蝉をやわらかく握るたなごころ  優嵐

森を歩いていて空蝉(うつせみ)を見つけました。空蝉とは、蝉の抜け殻のことです。今朝は雨が降っていましたが、それでも羽化したのでしょう。蝉の卵は木に産み付けられて孵化し、幼虫は地中にもぐります。そこで数年から十数年木の根の汁を吸って成長します。

十分に成長すると、地上に這い出し木の幹や枝につかまって脱皮します。羽化したセミが飛び立ったあとに脱け殻が残されます。これが空蝉です。古来、空しいことはかないことの喩えに使われ、無常観ともむすびついて「うつせみ」との音があてられ、詩歌に詠われてきました。

しかし、この脱け殻を手にとってよくよく見るとそのあまりにも精巧な脱け殻ぶりにびっくりします。背中の真ん中あたりが割れて成虫が抜け出しているのですが、目玉、六肢、触覚などすべてがそっくりそのままの形で鋳型のように残っているのです。


<ナックル>
野球にナックルボールという球種がある
その変化は風に舞う木の葉のようであり
誰も予測できない
投げた本人にさえも

ナックルを投げるピッチャーには
緻密なコントロールも多彩な球種も剛速球も必要ない
ナックルがくるとわかっていても
バッターは打つことができない

いいナックルをストライクゾーンに投げる
そのことに集中できればいい
肩や肘を酷使しないため
投手としての寿命も長いという

ナックルは「ニッチ」だと思う
あらゆる分野にナックルがあるはずだ


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□◆□…優嵐歳時記(2261)…□◆□

  夏の暁ヴェネツィアングラスに光さす   優嵐

ヴェネツィアに行ったときに買った小さなボトルが部屋にあります。アドリア海を連想させる深いブルーで気に入っています。棚にあっても、慣れてしまうとあらためて眺めるということはほとんどありませんが、先日目が覚めた時、ふとこのボトルが目にとまり、きれいな色だなあとしばらく見ていました。

かんかん照りの猛暑が続いていましたが、久しぶりに雨になりそうです。そろそろ一雨欲しい感じでした。夕立さえありませんでしたから。梅雨に今年はしっかり降ったため、梅雨明け後の晴天は新鮮でした。しかし、農作物も人もお湿りが欲しくなっています。


<赦しあう>
自分がされたこと言われた嫌なことを
人はなかなか忘れない
逆に自分がしたり言ったりしたことは
簡単に忘れてしまう
人間の記憶はまことに都合よくできている

あなたが未だに忘れず腹立たしく思っている出来事を
相手はすっかり忘れているだろう
まったく逆の関係があなたと誰かの間に
結ばれている可能性は極めて高い

あなたがどう受け取るかを相手が左右できないように
相手がどう受けとるかをあなたが左右することはできない
それならば赦しあった方が住みやすい


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□◆□…優嵐歳時記(2260)…□◆□

  炎熱やいっそ小気味よき光   優嵐

晩夏の激しい太陽の照り返し、ぎらぎらと燃え立つような暑さをさすのが「炎熱」という季語です。「炎暑」とも言います。26日の夜が満月でした。昨夜はナイターでテニスをしていると、オレンジ色に近いような十六夜の月が昇って来ました。梅雨明け以来雨が降っていないので、あのような色になったのでしょう。

<成長>
成長がなだらかにやって来ることはない
それは階段状に進む
水が氷点で突然液体から固体に変わるように

何かができるようになったり
何かがはっきり見通せるようになったり
それは突然の出来事として起こる

一段階段を登ってしまうと
あまりの単純さに驚く
そしてなぜかそれ以前の状態には
戻れなくなっている

歩けるようになるまでは
泳げるようになるまでは
そんなことができる日がくるとは
なかなか信じられない

ところが一旦歩くことや泳ぐことを覚えてしまうと
なぜそれができるのか
自分自身のことでありながら説明できない
成長とはそういうものだ


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□◆□…優嵐歳時記(2259)…□◆□ 

  午後三時初蜩に森の澄む   優嵐

ヒグラシは別名「かなかな」といい、北海道南端部以南に分布するセミです。セミの中では小形で、夏から秋にかけ、明け方や夕刻にカナカナと涼しげな声を聞かせてくれます。「初蜩」はその年初めて聞くヒグラシの声をさし、夏の季語です。秋近しを感じます。一方「蜩」は初秋の季語ですから、この辺の使い分けが俳句の妙です。

今日の坂井泉水さんの月命日、本日は5枚目のオリジナルアルバム『OH MY LOVE』(95.6.4)に収録されている『来年の夏も』について書きます。7月6日に取り上げた『二人の夏』が過ぎ去った遠い恋へのノスタルジアを歌っているのに対し、こちらは現在進行形の恋を描いています。発表曲153曲中、意外にも季節の名前が題名に織り込まれているのは、この二曲と『夏を待つセイル(帆)のように』と『新しいドア〜冬のひまわり』のみです。うち三曲が夏というのは、イメージどおりかもしれませんね。

来年の夏も



この曲、ライブツアーで歌っているくらいですから、彼女にとってお気に入りの一曲だったのでしょう。歌詞そのものは、どちらかというと演歌っぽいというか、「あなたの愛のレッスンで弱い自分も好きになれたの」なんて、昔の歌謡曲のようです。彼女は森進一やテレサ・テンに詞を提供していますし、自身の楽曲にも少し演歌がかったメンタリティを歌ったものがいくつかあります。

ただ、この辺がZARDの立ち位置の絶妙さだったのかもしれないと感じます。強く自己主張するというのではなく、かといって古風に留まり続けるのでもなく、励ましながらも暑苦しくはなく、きれいなのだけど、女性の反発を買うようなきれいさ可愛らしさではなく、男性がひいてしまうようなところもなく…。こういう空気をかもし出せる人はありそうでなかなか無いものです。

初期からの映像を一気に見て感じることなのですが、彼女自身の面差しや雰囲気は不思議なほど変わっていません。また服装やヘアスタイルも古びないというか、どの時代でもそれなりに通用してしまうスタンダードなスタイルを通しています。最初期以外、全くといっていいほどアクセサリー類を使用せず、メイクアップもごく薄いものです。

生の彼女が実際にどのような人だったのかは、私にはわかりません。しかし、残されている映像を見る限り、ZARD・坂井泉水をプロモーションしたスタッフは実に見事であったと思います。彼女の個性を見抜き、彼女が最も輝けるようなイメージをさりげなく構築しました。坂井泉水の才能がすべての土台であるのは事実ですが、もし全く異なるプロモーションを行っていたら、ZARDは随分違ったものになっていただろうと思います。

□◆□…優嵐歳時記(2258)…□◆□

  遠花火うしろに聞いて帰りけり  優嵐

24日と25日の大阪は天神祭でした。あちこちで浴衣姿の女性を見かけました。夏休みに入って最初の週末、各地で花火大会が催されたことでしょう。姫路でも土曜日に姫路みなと祭がおこなわれ、海上花火大会の打ち上げ花火の音が聞こえていました。

金曜日、少し遅めに山の散歩に出かけ、今年初めてヒグラシの声を聞きました。昨日はホウシゼミの声も聞き、やはり秋の訪れは山の方が早いと感じました。まだアジサイが咲き残っていますが、秋が少しずつ確実にやってきています。ほんのわずかの標高差でも秋は山から麓へと降りてくるのです。

ソメイヨシノの葉の一部が色づき始めています。桜は、花のときは一斉にわっと咲いて散りますが、葉はいつの間にか色づいて人知れず散り、秋が本格化するころは半分以上散っているものも珍しくありません。


<手放す>
クロールの息継ぎを覚える時に教わった
息を吸うのではなく先に息を吐けと
息を吐けば吸気は入ってくる

何か新しいものをつかみ取りたければ
今握りしめているものを手放すことだ
両手いっぱいの荷物を抱えて
さらに何かをつかもうとするのは無理

愛着があったとしても
もう今の自分には不要なもの
邪魔でさえあるものは捨てていこう

まず手放して身軽になれば
あるべきところへあるべきものが入ってくる


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□◆□…優嵐歳時記(2257)…□◆□

  炎昼の真ん中にある静けさよ  優嵐

23日は二十四節気の大暑でした。夏の最後の二週間、酷暑、猛暑、炎暑という言葉がふさわしい時期です。「炎昼」は真夏の真昼間のめまいがしそうな暑さを表しています。昨年はこういう季語を使う機会がありませんでした。

昨日はアートセラピーで大阪に行っていました。四・五・六月は「コミュニケーション」がテーマでした。最初にこの三ヶ月間の振り返りを行いました。三回のうち二回は共同作業で大きな絵を描きました。それに関して、隣の人との境界部分や他の人がどのように描いているかということをとても気にされている方の振り返りが、私にとっては驚きでした。

境界部分は自分にとっては「ああ、そういうところもあったね」という付け足しのようなもので、重なったら重なったでいいし、それは適当で…、という感じでもっぱら自分が何を描くかしか関心がなかったといえます。ただ、どういう反応が「正しい」というのはありません。

私たちは子どもの頃から常にジャッジされること、評価されることに慣れてしまっていて、アートセラピーにおいてもそうした「判断」を求めがちです。しかし、描いた人の状況がすべて違うのですから、正邪や善悪を誰かがジャッジすることはつつしまなければいけません。描いた本人が気づく、そのよすがとしてアートがあるのです。

七・八・九月は「観る」というテーマで絵を描きます。昨日は最初にジャガイモとそれに似た小石を並べて色鉛筆で写生し、気づいたことをメモしました。次に南天の葉を写生して「自分が観察した事実」についてメモしていきました。このワークのあと、参加者の方の感想の多くが「何が事実かについて考えさせられた」というものでした。実際、普段の生活の中で観察した事実だけを述べているということはまずありません。

百人いれば百通りのものの見方があり百の主観が入っています。問題は「自分が主観を通してある一つのものの見方をしている」ということを忘れ、それが普遍的事実だと勘違いしてしまうことにあるのだろうと思います。

恐らく数量化できるようなことは、それに気づきやすいのでしょう。しかし、いつもそれが可能ではないし、特にそれが人間的な「感情」が絡むものになると難しくなります。世界で起こる対立も個人の悩みも、ものの見方を変えることができない、つまり「自分が正しいと思い込んでいるものの見方」にとらわれ、絶え間なくそれに基づく判断をおこなっていることから発生しています。

人間ができるのは世界を変えることではなく、自分のものの見方を変えることだけだ、とは昔からずっと言われてきたことです。しかし、それは容易なことではありません。正邪、善悪、優劣、そういジャッジから離れることができれば、苦悩からも離れることができます。そのために、何が事実で何が主観かということを理解しなければならないのです。そのための「観る」です。


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□◆□…優嵐歳時記(2256)…□◆□

  頂の青筋揚羽雲に触れ   優嵐

歳時記には「夏の蝶」として取り上げられています。夏は大型のアゲハ類が目だちます。アオスジアゲハは翅に青い筋模様がある美しい蝶です。単に蝶とだけいえば春の季語になりますが、実際にもっともよく蝶の姿を目にするのは夏に入ってからです。季語は季節を先取りするところがあります。人の関心の向け方がそうだからでしょう。

今日も暑い一日でした。暑い時は暑く、寒い時は寒いのが私は好きです。メリハリがあっていいし、俳句を詠む材料もその方がたくさん登場してくれます。最も暑い時はあと十日ほどでしょう。すでに晩夏であり、立秋を過ぎれば日差しがはっきり変わります。


<海風陸風>
長い夏の夕暮れが宵へと移るころ
まだ灯りを点していない部屋の
南北の窓を開け放って
湯上りの身体を冷ましていた

日中は南風がよく通る
熱せられた内陸に向かって
播磨灘から吹き込んでくる風が
この部屋も通りぬけていくのだ

水道水がお湯になるような日でも
その風が部屋を通れば扇風機はいらない

風は北の中国山地にぶつかって天に向かい
高く輝く入道雲を発達させる
日中絶え間なく吹き続けた南風が
夕暮れとともに北からの微風に変わっている

暮れていく部屋の中で
風を感じているのが好きだ


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□◆□…優嵐歳時記(2255)…□◆□

  その上に紺碧を載せ雲の峰   優嵐

「雲の峰」とは、夏空に白く輝く積乱雲をさす季語です。上昇気流がつくりだすその雄大なさまを「峰」と形容したのはさすがにうまいと感じます。夏のエネルギーを最も感じさせてくれるのがこの雲ではないでしょうか。

上空に盛り上がった形から入道雲と呼ばれ、それぞれの地方で「坂東太郎(関東)」「丹波太郎(大阪)」「比古太郎(九州)」、それ以外にも「信濃太郎」「石見太郎」「安達太郎」などと称えられます。雷雨や夕立を降らせることから雷雲、夕立雲との別名もあります。


<日盛り>
真夏の真昼間に山を歩いていると
意外に静かなのに驚く
わずかに蝉の声が聞こえるだけ

つい先日まで囀っていた鶯も不如帰も
鳴りをひそめている
人影ももちろん無い
気温は三十四度
しかし木陰は涼しい

アスファルトとコンクリート
むき出しの日差しを受ける
都会の路上では考えられない涼しさだ

ときおり風が通り抜けていく
木の葉が揺れ日差しが揺れる
汗を拭きながら歩くのだが
倦怠感も不快感もない

真夏の暑さのただなかで
いま生きているのだと感じる


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□◆□…優嵐歳時記(2254)…□◆□ 

  大夕焼け人の営み包みける   優嵐

夕焼けは四季を通じて見られますが、夏の晴天が続くころは全天に広がる壮大なものを見ることができます。昨日は旧暦水無月十日でした。明るいうちに入浴をすませ涼んでいると、見事な夕焼けの気配がします。ベランダに出ると、東の空に十日の月がかかっていました。

月のまわりは夕焼けで茜色に染まっており、その中で月が徐々に光を増しています。西の空には宵の明星が輝き始めていました。飛行機雲もいっしょに、残照の中で朱色、緋色から東雲色までグラデーションをもって浮かび、柔らかな青空の色と対比を見せています。その中をねぐらへ帰る鴉や青鷺のシルエットが飛んでいきました。

夜明けも夕暮れ時もその光の見事さを表現する言葉が見つかりません。天空いっぱいに繰り広げられる光と色彩のショー。どれだけの人がこれを見ているかなあ、とふと思いました。本当に、もったいないような美しさなのです。


<感情>
感情の根本は「驚き」だ
ポジティブかネガティブかは
その後からやってくる反応

驚きを吟味しどのような反応をすべきか
人は無意識のうちに計算する
社会的に認められる反応を返せるように
泣くか、笑うか、怒るか、悲鳴をあげるか

泣くから悲しくなり
笑うから楽しくなり
怒るから怒りが膨れあがる
反応が次の反応を呼び起こす

さっきまで泣いていた子どもが
すぐに笑いだすのをみて
大人たちは可笑しがる

子どもの反応は正しい
歪んでいるのは大人の方だ
反応とは即座にやってきて去っていくもの

大人はいろいろなものに囚われていて
すぐにそれを手放すことが出来ない
感情を慢性化させ
怒りを憎悪に、悲しみを抑鬱に変えてしまう

喜びが持続せず
怒りや悲しみが長引くのはなぜか
その方が都合がいいから
怒りや悲しみを誰かのせいにしてしがみつき
被害者になっていればいいから


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