優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年07月

□◆□…優嵐歳時記(2253)…□◆□

  湯を出れば空藍色に月涼し   優嵐

夕暮れから宵の時間にかけて夏は明るさが長く残ります。上弦の月が輝きを増してくるころ、早めに入浴を済ませてベランダで涼むのはいいものです。川風が心地よく、暑いから涼しさがいいんだなあ、とその落差を楽しんでいます。

先日から「ブルーソーラーウォーター」を作って、飲んでいます。ブルーソーラーウォーターというのは、ブルーのガラス製のボトルに水を入れ、太陽光の下(曇りでも雨でもOK)に15分〜60分程度さらしたものです。水は普通の水道水で、何の変哲もありません。それを冷やして飲んだり汁物に使ったりしています。

この間のblogに特に変わったことはない、と書きましたが、もしかしたら、ちょっと変わってきたかもしれません。ベジタリアン嗜好になってきたのです。もともと好き嫌いも特別な思想信条もなく、肉類は何でも食べられるし、むしろ好きな方でした。今もお肉だから避けるということはありません。

しかし、食べたいという感覚が薄れてきた感じなのです。特にステーキや焼肉、トンカツ、チャーシュー、ハンバーグといったものは全く食べたいと思わなくなってしまいました。


<ジェットコースター>
どきどきわくわくしたいと願う人は多い
不安で眠れない夜を過ごしたいと思う人は少ない
このふたつは本質的に同じものだ
感情のジェットコースター

どうしてこんなにいらだつのか、腹立たしいのか
悲しいのか、赦せないのか、退屈してしまうのか
喜びや興奮やわくわくを追い求めるからだ

幸せを追い求めて感情のジェットコースターに乗る
ぐわーん、がくんがくん、ぎゅーん
あなたは振り回され悲鳴をあげ
スリルと興奮に我を忘れる

けれど
ジェットコースターはどこへも行かない
走り出したところへ戻ってくるだけだ

どこかへ行きたいのにどこへも行けない
だから停まると退屈してしまう
そしてまたぐわーん、がくんがくん、ぎゅーん
その繰り返し

ナニカスバラシイモノを追い求めて
感情のジェットコースターに乗る限り
永遠にそのゲームは終わることがないだろう


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□◆□…優嵐歳時記(2252)…□◆□ 

  声弾む海水浴に向かう子ら   優嵐

梅雨明け直後の三連休、晴天に恵まれて海水浴場はどこも大賑わいだったのではないでしょうか。海水浴というものに行かなくなって久しいですが、あの最初に海に入るときのひやっとした感触がなつかしいです。

歳時記を見ていると、「海水浴」の項目に「潮浴(しおあび)」という言葉がありました。海水浴は六文字で使いづらいためだと書いてありますが、どうなんでしょうか、「潮浴」。なにかレトロな雰囲気がして大正か昭和の初めのような印象です。


<幻>
映画館に入ってスクリーンの前に座る
やがて場内が暗くなり
白いスクリーンの上にさまざまなものが
浮かび上がってくる

悲恋、大冒険、ホラー、活劇、復讐、メロドラマ
奇想天外、どんでんがえし、はらはらどきどき、じーん
笑い、泣き、手に汗握り、どきっとしたりぞっとしたり

波乱万丈の二時間あまり
映画が終わると劇場は明るくなり
スクリーンが姿を現す

人の本質はこのスクリーンのようなものだ
ドラマは幻影
そこで何が起ころうとも
基底にあるスクリーンの
何ものも変わらないし変えられない
幻影と見定めれば恐れるものは何も無い



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□◆□…優嵐歳時記(2251)…□◆□

  真っ青に晴れし播磨灘真夏   優嵐

入道雲がわきたつ晴天でした。昨年は梅雨がなかなか明けず、真夏が無い夏になりましたから、久しぶりの「盛夏」を楽しんでいます。夏はやっぱりこうでなくちゃという気分です。四季は毎年巡ってきますが、年によって微妙に異なり、全く同じという年はありません。

俳句を始めて季節を細かく観察するようになり、余計にそう思うのかもしれません。blogを書くようになってからは記録が残っているので、遡るとさらにはっきり印象を確認できそうです。2004年は記録的な台風襲来の年でした。梅雨から12月まで半年間に渡って台風が上陸した記憶があります。

台風も災害をもたらす存在ではありますが、同時に日本の貴重な水がめです。梅雨と台風と冬季の日本海側の積雪が日本の豊富な降水量を支えているとか。何ごとも都合の悪いことだけでなく、利点と表裏一体です。地震や火山も、長い目で見れば美しい景観や温泉を形づくってくれています。


<一瞬>
梅雨が明け盛夏がバトンを受けとった
一年の巡りは同じようでありながら毎年違う

同じ場所に住んでいながらこうなのだから
地球全体を見れば
同じ四季の巡りというものはありえない

南極と赤道とハワイと
アマゾンとヒマラヤとゴビ砂漠と
モスクワとメキシコシティと上海と
一年は全く違う顔をしている

考えてみれば
同じ場所の同じ暦の一日だって全部違うのだ
似ていながらみんな違う

そして昨日と今日と明日も全く同じ日は一日もない
あたりまえすぎて忘れている
訪れる一瞬一瞬が
ユニークでかけがえのない瞬間であることに
耳を澄ませていよう


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□◆□…優嵐歳時記(2250)…□◆□

  涼風を受けつつ頂に立ちぬ  優嵐

梅雨が明けました。海の日へと続く三連休、晴天に恵まれそうです。山の上に待ちかねたように入道雲が立ち上がっていました。気温はあがりましたが、風が心地よくあまり暑さを感じませんでした。増位山の自然歩道は木漏れ日が美しく「ああ、真夏だ」と思いながら歩きました。

頂は東に向かって180度開けており、青い播磨灘とその先に淡路島が見えました。島の上には刻々と雲が湧いています。陸地に沿って雲が並んでいるのがよく見えました。頂のベンチはコナラの木陰になっており、そこに座って風に吹かれていると気持ちがゆったりして、いつまでもここでこうしていたいなあと思えるほどでした。


<聡明で純真無垢>
三つ子の魂百までという諺がある
子どもの中にすでにその人の将来の姿が見える
その逆もまた真ではないだろうか
百歳の人の中に
三歳の子どもの魂が生き続けている

それは誰の中にもいるのだ
35歳の同僚の中にも
45歳の夫の中にも
55歳の上司の中にも
65歳の姑の中にも

彼らの内に6歳の少女が、9歳の少年が生き続けている
魂は肉体のように老いることがない
幼児の中に時として老賢者が現れ
老人の中にあどけない子どもが現れる

人の最も内側にある魂は
人生の旅の最初から最後まで聡明で純真無垢だ


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□◆□…優嵐歳時記(2249)…□◆□

  境内に水の音あり七変化   優嵐

「七変化」とはアジサイのことです。里ではそろそろ終りですが、200mほど標高の高い増位山随願寺の境内では、今ちょうど見ごろになっています。ちょっと変わったアジサイもありました。

三室戸寺などアジサイで有名なお寺がいくつかあります。仏教的な雰囲気のある花なのかもしれません。夏なら、ハス、スイレンなどもまさに仏教的です。一方、ヒマワリやノウゼンカズラなどはお寺ではあまり見かけません。元気がよすぎて能天気な感じだからでしょうか。

今日初めてブックオフへ行きました。本はほとんどインターネットで買うか図書館で借りるかだったのですが、ふと思いついて入ってみました。意外にいろいろな種類の本が揃えられています。買取と販売をしているのがここの特徴でしょう。

棚を見て回っているうちにBGMでZARDの『Don't you see』が流れてきました。97年の曲ですから、今頃なぜ流れるんだろうと不思議に思いましたが、これはシンクロニシティと解釈しました。私にとってZARDは導き手ですので、「よし、本を買って帰ろう」と五冊買ってしまいました。これらの本がもしかすると「大当たり!」かもしれません。

ブックオフはインターネット書店と普通の書店の間隙を縫ったビジネスモデルだなと感じました。ちょっと前に話題になったような本が安い値段で並んでいます。基本的に本をいろいろ眺めるのは好きなので、これから時々立ち寄ることになりそうです。


<ゆるやかに>
夕暮れが少し早くなった
梅雨明けはまだだが
秋はすでに日差しの中へ忍び寄っている

絵に描いたような真夏の日は
実際には何日あるのだろう
実はほんの一瞬のイメージの中にしか
それは存在しないのかもしれない

季節は回り舞台みたいに突然変わったりはしない
東の空が白んでいくように
夕べの残照が消えていくように
ゆるやかに流れてゆく

秋の小さな分子はすでにそこここにある


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□◆□…優嵐歳時記(2248)…□◆□

  雲少し薄くなりたり初蝉に  優嵐

梅雨明けが近く、雨がやむと蝉の声が聞こえました。この時期にまず鳴き始めるのは小形のニイニイゼミです。ジージーと弱い声で鳴き、チッチッと鳴き納めます。梅雨が明けるとアブラゼミがジージーと強く鳴き、さらにミンミンゼミも鳴き始めます。日本の夏を彩る音です。

先日家に届いたPR誌に川柳作家やすみりえさんのインタビューが載っていました。川柳も俳句と同様十七文字、五七五で作ります。どこが違うのでしょうか。やすみさんは「川柳は人間を詠む文芸」とおっしゃっています。

俳句も川柳も俳諧から出ています。川柳は人間の行為や感情に目を注ぎ、直接それを句にします。社会風刺やアイロニーといったものが見られるのは川柳でしょう。より自分の感情や考えを前面に出すと言えばいいでしょうか。俳句はそれに対し、自然に目を向ける度合いが高く、人を詠むにしても感情を吐露したような詠み方はしません。

私は、俳句の「直接的なことは何も言わない」ところが好きです。喜怒哀楽、善悪、倫理道徳、そういうものを句の中で言おうとせず、そこにあるものだけを単純に切り取ってぽんと置く。そこから何らかの余韻を感じられたら、それが私にとってはいい俳句です。ですから、書いてある言葉そのものよりも、背後に広がるものが重要になります。その意味で、季語の存在はとても大きいのです。


<常識を疑う>
走り高跳びの歴史を見たとき
最初ははさみ跳びだった
次にベリーロールになり
背面跳びへと発展した

背面跳びを発明したフォスベリーは
ベリーロールがうまくできなかった
それが結果的に背面跳びの発明につながった
奇妙な跳び方は最初嘲笑の的になった
ところが彼はそれで金メダルをとってしまった

フォスベリーが変えたのは
走り高跳びだけではなかった
かくあるべしという世間の常識を変えた
ただ高く跳びたいと願ったひとりの少年が
世界を変えたのだ


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□◆□…優嵐歳時記(2247)…□◆□

  町並みの途切れそこより青田波   優嵐

青田波とは、青田の上を風が吹き抜けてゆき、それが青い稲穂を揺らすさまを波に見立てたものです。風が通り過ぎていく様子がよくわかり、いきいきと涼しげな風景です。

今日もよく降りました。梅雨入りからほぼ一ヶ月、しっかり降り続けています。午後に宅配便を受けとりました。配達をされている方にとって、このお天気は厳しいものと思います。荷物を濡らさないように気を使われると思いますし、その分配達にも手間取られるでしょう。

天気予報を見ていると、今週末からは晴れマークが並んでいますので、海の日を前に梅雨明けが発表される公算は大きそうですね。


<伝統>
漫画の元祖は手塚治虫だという
それは半分だけ正しい

中世の絵巻物に白描絵巻というものがあった
濃彩色絵巻の下絵だったが
非常に愛好され数多く作られた
簡素を好む日本人らしい
黒い筆の線だけで描かれた人物
これはそのままで漫画だ

絵巻物はやがて浮世絵となり
漫画へとつながっていった
手塚治虫が突然現れたわけではない
そこには長い日本文化の流れがある

絵巻物は中世のアニメーションでもある
人々のドラマと葛藤を絵の流れで見せる
絵を動かす技術があったなら
「平治物語絵巻」も「信貴山縁起絵巻」も
長編アニメーションになっていたことだろう



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□◆□…優嵐歳時記(2246)…□◆□

  梅雨雲のまだたっぷりと降るかまえ   優嵐

朝方土砂降りでした。午前中少し明るくなっていましたが、お昼ごろから再び雨が落ち始めました。今年の梅雨はよく降ります。朝の雨は、これだけ降ったらまた災害が起きるのでは、と思うような降り方でした。それでも長時間は降らず、午後からの降りに備えて雲が体制を整えている、といった風情の午前中でした。

雨がやんでいるときを見計らって散歩に行っています。山の木々はいっぱいに葉を広げ緑のトンネルとなって、冬とは全く異なる場所を歩いているようです。里では園芸植物がいろいろ咲いていますが、山の今はもっぱら緑が主役です。


<遊ぶ>
人間のことを
ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)と
ホイジンガは呼んだ
現生人類最大の特徴は
生涯遊ぶということだ

動物も子どもの間はよく遊ぶ
けれど
大人になるとそれはなくなる
なぜ人間だけが生涯遊ぶのか

遊ぶことは学ぶことだからだ
子どもは遊びを通して成長する
人間はある意味では
死ぬまで大人になりきらない

ずっと成長が続き
ずっと遊び続ける
素敵なことだと思う


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□◆□…優嵐歳時記(2245)…□◆□

  万緑に望遠レンズが野鳥追う   優嵐

万緑とは、濃淡さまざまだった緑が、一面の深い緑色になった真夏の草木の様子をさします。出典は王安石の漢詩「石榴詩」にある「万緑叢中紅一点」からです。季語として定着させたのは中村草田男といわれており、彼の代表句「万緑や吾子の歯生え初むる」はよく知られています。

増位山にはいろいろな野鳥が生息しています。今の時期であれば、ホトトギス、ウグイス、ホオジロ、シジュウカラ、イワツバメ、キビタキなどを見ることができます。雨が続いていますが、その止み間を縫って大きな望遠レンズをつけたカメラを持った方に出会いました。

超望遠レンズは視界が極端に狭くなりますから、野鳥の生態に詳しく、その動きを的確に予測できる人でなければ、使いこなして撮影することは難しいでしょう。しかし、難しいからこそまた楽しさ、おもしろさも格別で、道具を使うことの喜びはここにありますね。


<人として生きる>
何のために生きているのか
それは驚くためである
生存のための生存なら
人間は動物と同じように生きるだろう

無駄なことはしない
すべてのことが種の保存のために優先される
人間にもその反映はある
まとっている衣は動物だから
肉体は動物的本能と仕組みによって営まれる

しかし
人はそれを超えた部分でのみ本当に人らしくなる
美しいものに心震わせ
面白いことを考えては楽しみ
無償の行為に喜びを覚える

目に見えないもの
内側を通してつながるはるかな憧れ
そうしたものを感じるとき
人は真実、人になれる

驚こうとしているか
感動しようとしているか
常にそれは語りかけている
君はそのためにここに来たんじゃないか、と


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□◆□…優嵐歳時記(2243)…□◆□ 

  青芝にフリスビー追い犬走る   優嵐

近所の広場でフライングディスクを投げながら犬と遊んでいる人を見かけました。フリスビーというのは登録商標で、一般にはフライングディスクと言うそうです。あまりにも一般的になってしまったために普通名詞化した「クレパス」や「マウンテンバイク」のようですね。ただ、このフライングディスクを投げて犬がキャッチするという遊びは「フリスビードッグ」と呼ばれ、競技会も開かれているそうです。

インターネットで見ていると随分いろいろな遊びが競技の形へと進化しています。これまでで一番びっくりしたのは「エクストリームアイロニング」という競技です。世界中のありとあらゆる場所でアイロンがけをしようというものです。最初に考えた人は単なる冗談だったのでしょうが、かなり本格的なものになっています。まあ、オリンピックの正式種目になることはないでしょうけれど。





もともとほとんどのスポーツというのは遊びが起源であり、究極的には何の役にもたたないものです。ただ、役に立たないことが逆に不可欠なものになっているというのが、人という存在のおもしろさだな、と思います。人間にとってはおもしろいとか楽しいということが先にあり、そこから役に立つとかお金が儲かるとかいうことに発展していくのであって、その逆では絶対にありません。


<創造性>
漫画のキャラクターとは浮世絵の美人画なのだ
浮世絵を見たとき不思議に思った
誰もが同じ様式の顔
江戸時代の女はみんなこんな顔だったのか
そんなはずはない

漫画やアニメのキャラクター
26世紀の人間が見たら不思議だろう
みんな同じ様式の顔と表情
少しは違っているけれど
それは歌麿と春信の差程度でしかない

それが時代の制約というもの
その制約の中で
精いっぱいの個性を発揮しようと格闘する
人間の創造性とはそういうものだ

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