優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年08月

□◆□…優嵐歳時記(2293)…□◆□ 

  色変わり初めしえのころ揺らす風   優嵐

久しぶりにガスレンジの掃除をしました。夏の間は暑さのあまりなかなか掃除をする気になれませんでした。こういうものはこまめにその都度やれば大層なことにならなくてすみます。ところがなかなかできません。やらねばならないと思うことというのは、だいたい気がすすまないことで、コンスタントにできることは好きで得意なことなのです。

人間は自然にできてしまうことをやった方が幸せになれる、というのは確かです。しかし、人生どうしてもやらなければならないガスレンジの掃除のようなことはいくつかあります。ガスレンジを使わないという手もありますが、すべての調理器具を使わない、というわけにはいきませんから。

ま、意を決してやれば別にどうということもなく、すっきりしたらそれはそれで楽しくて、「掃除を趣味にしてみるか」なんて思ったりするんですけどね。


<捨てる技術>
情報とカロリーは似ている
かつて飢餓の時代があった
今ではどちらも過多であり
いかに制限するかの知恵が必要だ

日々新しい情報機器が生まれ
メディアの数も幾何級数的に増えている

これをこうしてあれと同期させて
なんとかかんとかをこうこうしたら
このように効率よくうんぬん…
そう語る情報がまた大量に流れている

無理だし無駄だ
情報機器に嗜癖している人でない限り
それらを全部使いこなすことは難しい

過ぎたるは及ばざるがごとし
むしろ過ぎたる方が危険である
いかに遮断し捨てるか
それをもっと真剣に考えていい


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□◆□…優嵐歳時記(2292)…□◆□

   かなかなの翅透きとおる声もまた   優嵐

里では蝉の声がかなり少なくなってきました。鳴いているのもホウシゼミがほとんどです。それでも、森へ行くとまだまだミンミンゼミもアブラゼミもにぎやかです。「かなかな」はヒグラシのことです。鳴声からこう呼ばれているのは、「つくつくぼうし」と言われるホウシゼミと同じです。

アブラゼミやミンミンゼミに比べると随分小形で繊細な印象を受けます。ミンミンゼミのあの浪曲師のような声は、そばで聞いていると驚くほどですが、ヒグラシの声は蝉というよりも秋の虫に近い音色です。だから涼しげなんですね。


<午後の頂にて>
少し遅めに山へ出かけた
初秋の陽はすでに西へ傾き始めている
頂の空間に小楢が落とす影が長く伸びていた

海は青く
水平線に横たわる淡路島が今日はよく見える

毎日ここに来ているのだけれど
一日も同じ日は無かった
その日のその瞬間はそのときにしかなく
私という人間も常に変わってゆく

かけがえのないことは
特別な瞬間にあるのではなく
日常すべてを貫いて流れている


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□◆□…優嵐歳時記(2291)…□◆□

  存在のすべて透明秋の昼   優嵐

日差しがとてもまぶしく感じられます。冬から春になっていくときは日差しの強さが増していくことで、そのまぶしさに驚きます。光が弱まっていく秋に感じるまぶしさは光の強度ではないようです。空気の透明度が増しているせいでしょうか。

夏と最も違うと感じるのがこの透き通った感覚です。夏のぎらぎらした光の強さではなく、すーっと何かつきものが落ちたような、そんな感じがあります。エネルギーと熱に満ちていた時期が去り、ものみなすべてが鎮静に向かっていく秋です。


<循環>
目の前の生簀に網が入ってきた
一匹の鯵がすっと掬い取られる
数が減った鯵はしばらく底近くに固まっていた

網に入った一匹はすぐに刺身に姿を変え
カウンターの向こうで客の元へと運ばれていく

私の前にもすでに空になった刺身の皿があった
さっきまで泳いでいたのだということを
今更ながらに知らされる

命をいただいているのだ
切り身になってパックされた「食品」ではなく
生き物が殺され食べものとしてそこに並ぶ

そのことを忘れないようにしたい
他の生き物の命をいただくことによって
命の流れの循環のなかに
自分も存在場所を与えられているのだということを


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□◆□…優嵐歳時記(2290)…□◆□

  青空に映えたる色よ赤とんぼ   優嵐

秋めいてきたと思ったら、赤とんぼの姿を見ました。赤とんぼはアキアカネ、ミヤマアカネ、ショウジョウトンボ、ヒメアカネの総称です。これらのトンボは成熟すると腹部が赤くなり、雄は特に鮮やかな赤となって目に付きます。夏を山で過ごし、秋になると里へ降りてきます。

今日から明日にかけて日本テレビの「24時間テレビ」が行われますね。チャリティーマラソンの応援歌にZARDの『負けないで』が使われています。この楽曲は、中学時代陸上競技の選手だったという坂井泉水さんのアスレチックな一面を生かした名曲です。

彼女は生前、『負けないで』が応援歌として大合唱される模様をテレビで見て、「24時間テレビで毎年流して頂いて、それを見る度に嬉しく、自分の歌のようでそうでないような気持ちになります」と語っていたとか。残暑はまだまだ厳しく、ランナーの方の体調管理には気を使われることと思います。事故のないよう走りきっていただきたいですね。


<肯定する力>
ものごとを否定することと肯定すること
どちらがエネルギーがいるだろう

誰かの額に×をつけて回るのは
たぶん簡単なこと

国が悪い、政治家が悪い、企業が悪い
親が悪い、先生が悪い、大人が悪い
社会はどんどん住みにくく悪くなっている

メディアにはこうした意見が溢れている
ほんとうにそうだろうか

百年前より今の方が酷い時代か?
うまくいっていることはアタリマエ
感謝することは忘れて不満ばかりに
目をやってしまうのはなぜだろう

否定することは実は簡単なこと
肯定する方がずっと勇気と力がいる
否定は下り坂、肯定は上り坂だ

□◆□…優嵐歳時記(2289)…□◆□

  朝風の運ぶ新たな涼しさよ   優嵐

ようやく暑さが一段落した感じです。朝の空気には、はっきり秋冷の気配があります。蝉はまだ鳴いていますが、もうすぐそれも終りだと思うと、何か名残惜しい思いがしますから、人の心理は勝手なものです。暦の上の初秋というのは、体感ではまだまだ暑いのですが、心理として秋への準備をさせる時期だという気がします。

今日の坂井泉水さんの月命日には、ZARDの36番目のシングル『瞳閉じて』(03.7.9)のカップリング曲『愛しい人よ〜名もなき旅人よ〜』について書きます。8月6日に取り上げた『お・も・ひ・で』と同様、この楽曲にも珍しく長者ヶ崎という地名が出てきます。三浦半島の葉山町にある岬で、葉山マリーナ、葉山御用邸などが近くにあります。彼女にとっては思い出深い場所なのでしょう。


愛しい人よ〜名もなき旅人よ〜



この楽曲は遠い夏の日の恋を振り返る主人公の心情を歌っています。ここで歌われる「愛しい人」はZARDの楽曲によく登場する”子どもの雰囲気を残した人”です。恋人に呼びかけるように歌いながら、その一方で自分自身をも重ね合わせている、かつての自分自身に向かって歌っている、そんな印象を受けます。こういう歌詞があるからです。

---何かに虜りつかれていた そんな夢を描いて
追いかけていたのは 遥か昔で
器用に生きれたとしても 何かを見失って
戻れない道と 決めて出てきたけれど

彼女自身の心情でしょうか。歌手になるというのは彼女の子どもの頃からの夢でした。その夢への足がかりとしてモデルをやり、模索を続けていたのがZARDとしてデビューする前の彼女の姿だった、と想像します。器用な人ではないようですし、芸能界とは無縁の家庭に生まれ育った彼女にとって、どこに取っ掛かりを見つければいいのか、見当もつかないことだったはずです。

「何かに虜りつかれていた そんな夢を描いて」というのは、坂井泉水さん自身の正直な気持ちでしょう。表現したいことがある、伝えたいことがある、それはおさえがたい衝動として内側から彼女を突き動かしました。

「虜りつかれていた」に使っている漢字が凄いですね。捕虜、虜囚のリョであり、とりこ、しもべ、という意味です。その時点ではまだ存在しないZARDというものが彼女をとりこにし、それに向かって駆り立てた、それを素直に漢字にするとこうなるのでしょう。

同じように自伝的な空気を感じる『forever you』でも

---手さぐりで夢を探していた あの日 
自分が将来(あした)どんな風になるのか 
わからなくてただ 前に進むことばかり考えていた

…と歌っています。歌手になるなんて、まして、それで成功をおさめるなど普通は夢物語です。彼女自身、通常の学校生活を送り、会社員として就職しています。デビューが24歳と比較的遅いのも模索の結果かと思います。しかし、逆にあの時までデビューしなかったからよかった、時代がZARD・坂井泉水を待っていた、そんな気がします。

「召命(しょうめい)」という言葉があります。「神の恵みによって神に呼び出されること」として聖書の中に出てきます。カトリックでは聖職につくという意味で用いられますが、プロテスタントでは、「一般の職業に、神の導きのうちに天職としてつくこと。(Vocation)」という用い方がされます。もっと平たく言うならば「それをするために生まれてきた」といえる何かです。

この曲発表の四年後には、坂井泉水さんはすでにこの世を去っています。召命を果たすために、彼女だけに見えていたゴールに向かって走り抜けた生涯だった、と思います。「名もなき旅人」とは誰なのでしょう。それは彼女自身であり、同時に聴いている人すべてなのかもしれません。

□◆□…優嵐歳時記(2288)…□◆□

  雲ひとつ抜けて輝く盆の月   優嵐

8月24日から25日にかけてが満月でした。文月の満月にあたり、盂蘭盆会の月の満月であることから「盆の月」といいます。この次の満月が「中秋の名月(今年は9月22日)」です。地平近くに雲があり、久しく雨が降っていないせいもあって、くすんだ暗いオレンジ色をして昇ってきましたが、そこを過ぎると、初秋の夜空に明るく輝き始めました。

日本神話では、月を司る神はツクヨミです。父神・イザナギが黄泉から逃げ戻り、禊をしたときにその右眼から生まれました。左眼から生まれた姉のアマテラスが太陽神です。鼻から生まれたのがスサノオで、アマテラスとスサノオにはその後、いろいろなエピソードがありますが、なぜかツクヨミにはほとんど活躍の場面がありません。


<ジュピター>
太陽系第五惑星・木星
地球の318倍、太陽系最大の質量を持つこの星が
地球生命のボディガード役を果たしている

木星の軌道と質量によって
地球軌道は安定し
飛来する小惑星や彗星をとらえて
地球への衝突を防いでいる

グッド・ジュピター
私たちは想像もつかないような存在の
恩恵を受けている


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□◆□…優嵐歳時記(2287)…□◆□

  ひらひらと黄を翻し秋の蝶   優嵐

自然歩道でキチョウに会いました。三つの個体が並んでとまっており、そばまで行ったとたんぱあっと舞い上がって華やかでした。あの蝶独特の動きというのはいいものですね。アゲハ類の悠然とした飛び方もいいですが、キチョウの細やかな翅の動きもいいです。

キチョウはアフリカ中部以南、インドから東南アジア、そしてオーストラリアと世界的にも広く分布し、地域によって多様な亜種があります。日本では、秋田・岩手県以南の本州、四国、九州、南西諸島に分布しています。春に活発に飛びまわる姿が印象的ですが、成虫は年に5、6回発生し、越冬もします。


<盆の月>
今夜は旧暦七月の満月
輝く月に生命は存在しない
月は大昔
地球に火星大の天体が衝突して誕生した

それは恐ろしい災厄だったが
月というかけがえのない存在を得たことで
地球は生命の星となることができた

地球の自転軸の安定も潮汐も
月がもたらす恵み
地球の影の部分を引き受けて
月は夜空に浮かんでいるのかもしれない


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□◆□…優嵐歳時記(2286)…□◆□

  新涼の朝の川へと網を打つ   優嵐

残暑は続いていますが、少し涼しさを覚えるようになってきました。23日は二十四節気の「処暑」でした。いくら暑いといってももう峠を越える頃です。風に清新な冷気が加わっているのが感じられ、早稲の田が色づいてきました。

「涼し」は夏の季語ですが、「新涼」は秋に入ってから感じる涼気を指します。まぎらわしいといえばそうなのですが、この微妙なところを楽しむのが俳句の面白さです。日本人の言葉に対する繊細な感覚を味わえます。


<処暑>
立秋から十五日
毎年少しずつ差はあるものの
季節は確実に巡る
地軸の傾きと日本列島の位置がもたらす
繊細な季節の変化

地球という星はありふれたものと
かつては考えられていたけれど
宇宙物理学が発展するほど
ちょっとありえないほどの偶然が重複した
特異な惑星だとわかってきている

なんでもなくすぎていく日常と
思っているのは私たちだけで
コンビニのお弁当やケータイのメールさえ
奇跡の十乗を持ってしても
足りないものかもしれない


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□◆□…優嵐歳時記(2285)…□◆□

  秋扇盛んに揺れるホームかな   優嵐

お盆を過ぎたのに厳しい残暑で、朝は「土用の朝曇」のような状態になっています。「朝曇」とは、暑い日照りの続く頃、蒸発していた水蒸気が朝の気温低下で冷やされ、靄がかかって曇ったような空に見えることです。晩夏の季語です。この時期になってもこういう状態とは、いかに残暑が厳しいかですね。

アートセラピーのために大阪へ行きました。朝のホームでは電車を待つ人たちが扇子を使っており、その様子が漣のようでした。七月から「観る」というテーマでワークを行っています。このところ、いかに自分が観ていないか、についてようやく少し気づけるようになってきました。

それには、注意深さが足りず、見ていながら見えていない状態であるという場合、自分の思い込みのために見る目が曇っている場合、その二つが複合している場合があります。「観る」というのは、簡単なようでいて、実はかなり深い技法といえるかもしれません。

今日のひとつめのワークでは、桜の葉を一枚画用紙大に拡大してパステルで描きました。私はクレパスで描いていたのですが、パステルが望ましいとのこと。パステルを使った場合、描き手は指や掌を使ってパステルを擦るという描法をおこないます。皮膚を使い、直接紙に触れることによって、粘土を扱っているような効果が絵を描きながら得られ、それがアートセラピーにとっては大きな意味があるのです。

一枚の葉を拡大して描き、さらにその葉から感じたエネルギーを葉のまわりに描いていきます。これによって、目に見えないことを感じ取り「観る」ことを試みます。「観る」ことには、目に見えないことを感じ取ることがポイントになるのです。

ふたつめのワークでは、背景を赤・黄・青のグラデーションに塗り分けた紙に花と根のついた植物を描きました。ここではその植物が生長したように下から上へと描いていきます。これによって植物の生命力(背景・環境)を感じ取ります。種であったそれが根を伸ばし、茎を伸ばし、やがて花を咲かせるに至ったその時間や過程を想像しながら描きました。

今、眼の前に見えているものを注意深く観ることによって、その存在の今の状態、ここに至る過程への洞察を深めることが可能になります。観ることは理解することです。


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□◆□…優嵐歳時記(2284)…□◆□

  亀ゆらり残る暑さへ浮かび来る   優嵐

午後五時半になっても外気温が36度ありました。このところ夜になっても気温がなかなか下がらず真夏以上の酷暑ですね。

そういえば、ウグイスの囀りがいつの間にかやんでいます。蝉の鳴声にかき消されて気づくのが遅れましたが、最後に聞いたのはいつだったでしょうか。八月に入ってからも確かに鳴いていた記憶があります。立秋の前後には囀りをやめていたかもしれません。

「鶯音を入る」という季語があります。繁殖期を過ぎたウグイスが囀りをやめ、地鳴きだけになることを指しています。夏の季語ですから、やはり立秋の頃が囀りを聞いた最後だったのでしょう。


<注意深くあること>
無意識的でない生き方とは
常に注意深くあることだと気づいた
日常の多くのことを
私たちは自動操縦のロボットに任せて生きている

ついさっきの自分の行動を
もう思い出せないということはないか
多分初めてそれをおこなったときは
新鮮で集中していたはずだ

いつの間にかそれを無意識の
ベルトコンベアーの上に載せている
顔を洗うような行動だけではない
車の運転といった命にかかわるような行動すら
いつか無意識に任せてしまっている

そんなことにいちいち
かかずらわってはいられない
そう思うからいろいろなことを「ながら」でやる
ながらでやる限り注意力は殺がれる

いちいちかかずらわっていられないと
思いながらやる「別のこと」とは何だろう
そんなに急いでたくさんのことを同時に
せずにいられないというのはなぜだろう

なぜそれほど駆り立てられてしまうのか
そして
いつもいつも自動操縦のロボットに任せてしまい
結局生きていくことの果実を味わうことも
そのロボットに乗っ取られていないか

宝物は常に降り注いでいる
拒否しているのは自分の方なのだ


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