優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年08月

□◆□…優嵐歳時記(2283)…□◆□

  秋口の蟻が引きおる蝶の翅   優嵐

残暑が厳しく感じられるひとつの理由として、雨が降らないことがあるように思います。お盆の前に台風が接近しましたが、あまり雨らしい雨は降りませんでした。高温が続いて積乱雲が発達しているにもかかわらず、全く夕立がなく、夏の間に一度も雷鳴を聞きませんでした。

八月も下旬に入り、夕暮れ時が随分早くなっているのを実感します。夏休みに入ってから、毎日夕方になると子ども会の「早くお家に帰りましょう」という放送があります。初めのころはまだ日が高かったのが、今では夕方という感じになっています。そろそろ夏休みの宿題の追い込み時期でしょう。


<波を鎮める>
わくわくすることをやりなさい、と
スピリチュアル系の書物によく書いてある
わくわくすることがあなたのやるべきことだ、と

わくわくすることは確かに楽しい
しかし
わくわくだけで人生は終わらない
山が高いほど谷も深くなる

わくわくが大きければ大きいほど
それに付随してやってくる落ち込みも大きいだろう
わくわくしかないというのは
日向しかない風景のようなものだ
光が強ければ影は濃い

目指すべきなのは
波をフラットにすることではないか
高揚感と落ち込みに振り回されるのではなく
ものごとの中央にたち
静穏な心ですべてのものを見る

波が静かになった心の水面には
自分のほんとうの姿が映るだろう


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□◆□…優嵐歳時記(2282)…□◆□ 

  虫の音のいつか始まる夜となり   優嵐

真昼の外気温は38度まであがっていました。真夏よりも気温が高く発熱状態です。日中は風がよく通る部屋にいますが、それでも熱気で部屋中のものが熱くなっているのがわかります。水道から出るのはお湯ですし、畳も蒲団もみんな熱気を帯びています。

これほど気温があがっていても森の木陰は涼しく感じます。日差しが遮られていること、風が通ることが大きいのでしょう。緑がどれだけ気温を下げるかということを身体で知るこのごろです。都市緑化がヒートアイランド現象を和らげるというのは確かだろうと思います。

それでも日が沈み、あたりが闇に包まれると虫の声が聞こえてくるようになりました。厳しい残暑が続いていても季節の進みは確実です。


<飛行機>
人が空を飛びたいと思っている飛行機だとしたら
賢者というのはすでに空を飛んだ飛行機だ

空を飛んだ飛行機ができるのは
空を飛べるという事実を示すことと
滑走路まで誘導することだ

滑走路に出たら
それぞれの飛行機は自分で速度を上げ
翼に風を受けなければならない
激しい風の圧力に抗して走り続ける

あるときふっと翼が揚力を得て
飛行機は空へと舞い上がる
そこは想像もしなかった世界
どれほど速く走っても
地面から離れなければ見えない世界

一度飛び立った飛行機は思う
なぜこんなに簡単なことが
今までできなかったんだろうかと


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□◆□…優嵐歳時記(2281)…□◆□ 

  潮騒の如しよ秋の蝉の声   優嵐

森へ行くと、蝉の主役はホウシゼミになっています。固まって棲息しているところがあるのか、鳴声が特に大きくなる場所があります。アブラゼミやミンミンゼミももちろんまだたくさん鳴いています。自然歩道を歩いていると肩にぶつかってくるくらいですから、かなりの数がいるものと思われます。

<たとえ話>
本を読むのが好きで
読んだ本の感想を記録している
時々読み返してみると
何度も同じことが出てくるのに気づく

ビジネスや発想法の本なら
月並みな考え方を離れよ
新しい視点でものを見なさい
常識を疑え

精神世界の本なら
すべてはひとつである
あなたの内側に向かえ
外側にある慰めや成功は幻想だ

大昔から言われてきたことは同じだ
けれど人間は未だにそれがわからない

常識を疑えといわれながら常識に従ってしまい
外側は幻想といわれながら幻想を追いかける

そして賢者の言葉を読み返すたびに
そうだなあと思い
自分もできそうな気がしてくる

けれどできない
根本的に何かがずれている
そのずれを言葉で示すことは
どのような賢者にもできない
だから究極のことはたとえ話でしか語られない


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□◆□…優嵐歳時記(2280)…□◆□

  秋暑し湧き立つ雲を仰ぎけり  優嵐

厳しい残暑になっています。お昼ごろ、出かけた先で甲子園の中継をやっていました。この炎天下、すり鉢状の球場の底でのゲームですから、どれだけの暑さだろうか、と思います。子どもの頃何度か高校野球の観戦に連れて行ってもらったことがあります。かちわり氷の美味しさは、あそこならでは、でしょう。

姫路市の中心部から北へ向かって車を走らせていると、山の上に入道雲が連なっていました。真夏のようです。早朝や夜には少し秋らしさを感じるようになってきましたが、真昼に秋を感じるには処暑を過ぎて、やはり九月に入ってからかと思います。


<精進>
仏教の修行僧が食べる料理を精進料理という

自分が生きていくために
別の存在の命を食べる
それが人間の食事だとしたら

宗教とは関係なくても
料理はすべて精進料理であるべきなのだ
素材に何を使うかというのではなく

よりよく生きるための糧として
命を感謝していただく
それが精進料理という意味だと思う


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□◆□…優嵐歳時記(2279)…□◆□

  盆花となりて整う花の丈   優嵐

お盆の仏壇や精霊棚に供える花を「盆花」といいます。もともとは野山へ出かけて採ってくるものとされていました。今では庭の花や生花店で求めた花を供花とされる場合がほとんどでしょう。ミゾハギ、オミナエシ、ヤマユリ、シキミ、ホオズキ、ナデシコ、キキョウなど、さまざまな秋草の花が供えられます。故人がお好きだった花を特に買い求められる場合もあるかもしれません。

慰霊や供養のためになぜ人は花を供えるのでしょうか。ネアンデルタール人の遺跡から、彼らがすでに亡くなった人にお花を供えていたという事実がわかっています。故人を葬ったところから花粉の化石が採集されているそうです。死者を弔う、というのが人間存在としての意識の始まりであり、おそらく宗教儀礼の始まりでもあるのでしょう。


<他人>
いとこたちと話に興じながら
墓までの道を歩いた
全員が墓の主の血を分け合っている

けれどおそらくいとこたちの子供同士は
もう街ですれ違っても
お互いどこの誰かはわからないだろう

「兄弟は他人の始まり」
そこには一部の真実がある
それは同時に
「すべての人は他人ではない」
ということにもつながる

見知らぬ他人と思っているのは
その個人の数十年の記憶だけ


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□◆□…優嵐歳時記(2278)…□◆□

  時おりは風受け塩辛蜻蛉飛ぶ   優嵐

お盆は年に一度決まった親族が顔をあわせる数少ない機会です。顔をあわせてさて何か特別なことを話すわけではありません。それぞれ生活基盤は別のところにあり、祖父母や親兄弟がどこかでつながっているということだけがそこで顔をあわせる理由です。取りとめもない話をして、ときには昔話をきいて、お墓参りをして、それが親族というものだな、と感じます。


<無駄>
愚痴というものはほとんどの場合
「誰かが何かをしてくれない」
という話に終始する

それは誰かが
自分の考えているようには
何かをしてくれないということだ

なぜ誰かがあなたの思うように
行動しなければならないのだろう
よく考えてみるといい

あなたは誰かの思うように
常に行動しているだろうか
そんなはずはない

それならば誰かがあなたの
思うように行動しないことを
とがめだてたところで無駄だ


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□◆□…優嵐歳時記(2277)…□◆□ 

  淡路より北摂丹波へ秋の雲   優嵐

お盆ともなると、少しずつ雲の形が穏かになってきました。残暑は確かに厳しいですが、それでもやはりもう秋だと思います。増位山の頂からは、見通しがよくきけば、徳島県、鳴門海峡、淡路島、播磨灘、家島群島、明石海峡大橋、六甲山、丹波の山なみまで見渡すことができます。


<蜘蛛>
車の後部座席の窓際で蜘蛛が巣を作っていた
昨日山を歩いた時
壊してしまった蜘蛛の巣にいたのだろう
そのまま服のどこかに張り付いて
車に乗り込んでしまったのだ

ここがどこか彼にはわからない
閉じられた乗用車の中で
巣を張り巡らせたところで
獲物は一匹もかからない

そんなこと人間ならすぐにわかる
けれど彼には理解できない
巣が壊れたら巣を作り直す
蜘蛛である彼がインプットされているのは
そのことだけ

目を見張るように複雑で強靭な蜘蛛の巣を
彼は誰に教えられなくても自分で張れる
それは驚嘆するような能力だが
柔軟性が全く無い
何が起こってもそれを繰り返すだけだ

蜘蛛ならそれはシカタガナイ
けれど人間ならどうか
似たようなことになっていないか

外界が変わったのに
昨日と違う場所にいるのに
異なる風が吹いているのに
昨日と同じことを繰り返そうとしていないか


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□◆□…優嵐歳時記(2276)…□◆□

  はや桜紅葉始まる明るき午後   優嵐

立秋のころからすでにソメイヨシノの葉にはちらほらと色を変えているものがありました。春は号令を受けたように一斉に花を咲かせ、美しいまま花吹雪になってしまいます。葉はそれとは対照的に、どこか虫に食われ穴があいています。紅葉の進みもばらばらで、いつとはなく散っていきます。

色も赤や黄色が一枚の葉の中に混在して、それぞれの葉をじっと見ると趣がありますが、全体だとぼんやりした印象です。春、あれだけ注目されて人の目を楽しませているのだから、秋はのんびり静かに過ごさせていただきますよ、という桜の声が聞こえてきそうです。


<三つ巴>
証明されたら信じましょう、というのは科学
儲かるなら信じましょう、というのは経済

証明されなくても儲からなくても
人は何か大いなるものへの畏怖を持ち
手を合わせ信じる
これが信仰ではないだろうか

大いなるものに何と名がついていようと
それはみな同じもの

科学だけ経済だけで人は生きてはいけない
それはあまりに貧しい生き方
知性と肉体と霊性をともに働かせたい

人間はそういう存在だから


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□◆□…優嵐歳時記(2275)…□◆□ 

  八月や人みな何かに祈りけり   優嵐

「八月」は上旬に立秋がありますので、秋の季語になります。八月には広島忌、長崎忌、終戦日、お盆があり、手を合わせることの多い月です。決められた教義を持つ宗教を深く信仰しているという人ではなくても、やはり亡くなられた人の前では手を合わせます。

また、初日の出やご来光といったものに手を合わせるのは、アニミズムを色濃く残している日本人ならではの祈りでしょう。「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」というのは、伊勢神宮を訪れた西行が詠んだ歌です。日本人の祈りの心を見事に表した歌で、今も多くの人に愛されています。

神や仏が厳密に何と言ったとか、何をせよと言ったとかそういうのではなく、阿吽の呼吸で、ありがたさ、厳粛さといったもの感じ取る、それが日本人の霊性であり、信仰心かな、と思います。ですから、盆も正月も、クリスマスも何でもOKというのが無節操に見えて、実はそうではないのですね。


<別の名>
依存症とは
「精神に作用する化学物質の摂取や
快感や高揚感を伴う特定の行為を
繰り返し行った結果
それらの刺激を求める抑えがたい欲求が生じ
その刺激がないと不快な精神的・身体的症状を
生じる精神的・身体的・行動的状態」
だという

これを読むと程度の差こそあれ人間は
みな依存症ではないかと思う
どこからを「依存症」と呼ぶかの違いであり
関係性や過程に依存している人は多い

執着とは依存症の別の名ではないか


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□◆□…優嵐歳時記(2274)…□◆□

  風通る残暑戸外へ置き去りに  優嵐

今日はいつにも増してよく風が通るなあと思っていたら、台風が接近していました。天気予報では12日の日中は荒れ模様のようです。この夏は暑かったにもかかわらず、一度も夕立がありませんでした。台風がいってしまうとお盆で、少し涼しくなるかもしれません。すでにお盆休みの影響か、道路がいつもより空いていた気がしました。帰省の足に台風が影響しなければいいのですが。

増位山の蛇ヶ池の蓮は次々に花を開いています。花の真ん中に蓮根のミニチュアのようなものがあり、花が散るとそれが残ります。ラーメンを食べるときに使うレンゲは、この蓮の花の散った花びらの形から名づけられています。水面に散っているその形を見ると、うまいネーミングだと感心します。


<問題>
世の中には答えのある問題と
答えのない問題がある
人はその双方に出会う

そのときそれがどちらの問題か
見極めることが大切だ
自分を苦しめている問題が
答えのないものだとわかったら

答えを求めるのをやめることだ
それだけが苦しみからあなたを救う

人間はすべてのことを解明できると
思い込んでいる人がいる
それは智慧からはずれた考え方だ

わからないことはわからない
答えのない問題に答えを求めるから
苦しみが終わらない


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