優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年10月

□◆□…優嵐歳時記(2354)…□◆□

  鳶一羽色無き風を正面に   優嵐

「色無き風」とは秋風を意味する季語です。秋の風には他に「白風」「素風」「金風」といった季語もあります。紀友則の「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」(『古今六帖』)の歌に基づいています。秋風は万物を枯らすものであり、落剥、凋落の思いが哀れ深く、しみじみとした思いを誘います。

そうしたしみ入る寂しさを感じながらも、この句ではその風を正面に受けて飛ぶ鳶を詠みました。秋とはいっても生き物はやはりいきいと活動しています。鳶の翼にみなぎる躍動感をとらえたいと思いました。

色という言葉、日本語では大変多くの意味があります。色彩やそれに関係するものだけでなく、容姿などが美しいこと、ものの趣、愛情、種類などといった、言葉になりきれないほどの範囲の広がりを持ちます。そういえば、「いろは」も最初は色で始まっています。


<色即是空>
色は空から生まれ空に向かう
空なくして色はなく
色あれば必ず空がある

それを繰り返し
律動しながら
万物はなりたっている

あなたがいる場所の広がり
それがすなわち空
空に支えられなければ
色は存在できない


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□◆□…優嵐歳時記(2353)…□◆□ 

  真南に鳴門海峡秋晴るる   優嵐

増位山の頂上から直線距離にして約70kmのところに鳴門海峡はあります。年に何度か、肉眼でもそこにかかる大鳴門橋が見える日があります。雨で空気中の塵が一掃され、その後風が吹いて晴れたときがそのチャンスです。増位山頂は東南方向に開け冬は季節風がさえぎられ、暖かです。これからの季節はベンチで日向ぼっこをしながら風景を楽しみます。

怪我をした猪に会いました。右前肢の具合は少しずつよくなっているように見えます。あのヤマカガシにはあれ以来会っていません。そろそろ冬眠でしょう。蛇が冬眠することも秋の季語になっており、「蛇穴に入る」といいます。冬眠に備えてたっぷり栄養補給しておく必要があるのです。


<翼あるもの>
頂に立つ私の目の前に鳶が現れた
正面から風を受け止め
まるで虚空に静止しているよう

ゆらゆらと揺れ
鳶の身体は一転
大きく西に放たれた

気流に乗り遠ざかっていく
私からは見えない風の流れ
それに乗り日々生きる
翼あるものよ


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□◆□…優嵐歳時記(2352)…□◆□ 

  雲低く蔦の紅葉の赤さ増す  優嵐

目覚めたら雨が降っていました。気温が低く、足元だけに使うこたつを出しました。人間が快適に過ごせる気温というのは、ごく狭いものだと驚かずにはいられません。このまま寒くなってしまうことはなく、また少し暖かい日がきて、また寒くなってという繰り返しで冬かな、と思います。

ツタは山野に自生するブドウ科の落葉低木です。若枝の巻きひげに吸盤を持ち、木、岩、石垣、塀、壁などを伝っていきます。ツタとの名称は「伝う」からきています。ツタには夏蔦と冬蔦があり、冬蔦は常緑です。俳句の季語として「蔦」と詠まれるのは夏蔦です。夏の緑もみずみずしく美しいのですが、秋の燃えるような紅葉を賞して秋の季語になっています。


<いまこの瞬間を>
何かを獲得したら幸福になれるのではない
そういったわかりやすい出来事が
幸福というものではない

過去を惜しむのでもなく
未来を願うのでもなく
いまのこの瞬間をとらえよ

幸福はそこだけにある
あなたが生きているのもそこだけだ


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□◆□…優嵐歳時記(2351)…□◆□

  柿の木に鵯の来ている雨あがり   優嵐

「柿」も「鵯(ひよ)」も秋の季語です。一句の中に季語が二つ以上入るのを「季重なり」といい、避けるべきものとされています。この句は、雨があがってふと窓の外を見たら柿の木に鵯が来て、熟れた柿を啄ばんでいるのに出会った、というそのままの情景を詠んでいます。柿を外すのも鵯を外すのも自然じゃない気がして、このような句になりました。

以前、命日には供養代わりに肖像を描いてみようかと思います、と書きました。そこで、27日には坂井泉水さんの二枚目の肖像画を描きました。今回は『きっと忘れない』の表紙から写真を拝借し、作詞者としての姿ということになります。


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万年筆とクーピーペンシルで描くのが自分にあっていると思うのは、非常に速く仕上がるからです。絵が乾くのを待つ時間は不要で、どんどん描き進めていけます。肖像の場合のポイントは目と髪です。今回の絵は、彼女が着ている霜降りのセーターを描くのも楽しかったですね。


<ヤマボウシ>
森からヤマボウシの落葉を三枚拾ってきた
鮮やかに赤く色づいている
一枚は中央に虫に食われた穴があり
一枚は左端をもう一枚は先端を
それぞれ虫に食われている

同じ一本のヤマボウシから落ちた葉なのだが
みんな形が違っている
大きさも葉脈の走り方も色づき方も
それでいてやっぱりヤマボウシの葉なのだ

植物の葉でさえこれならば
人間がみんな違っているのは
あたりまえではないだろうか



□◆□…優嵐歳時記(2350)…□◆□

  秋しぐれ去りその雲を見ておりぬ   優嵐

お昼前に時雨がありました。時雨は冬の季語で、晩秋の場合は「秋時雨」と詠みます。この雨のあと一段気温が下がり、空はすぐに晴れましたが、肌に当たる空気が冷たく、はっきりと冬が近いという感覚がありました。

坂井泉水さんの月命日、今日はZARDの37番目のシングル『もっと近くで君の横顔見ていたい』 (03.11.17)を取り上げます。この曲は月桂冠「月」のCMソングとして使われ、季節的には今の時期にぴったりです。

もっと近くで君の横顔見ていたい



歌詞にも「月を浮かべて夜を語り明かそうよ」と月が登場します。今日は旧暦九月二十日、今夜の月は更待月(ふけまちづき)といわれる時間帯の月で、月の出は午後八時ごろです。月を浮かべて夜を語り明かすにはぴったりかもしれません。朝まで月は空にいますから。三日月では、夜らしい夜にならないうちに沈んでしまいます。

ここで歌われる二人の関係がどのようなものなのか、いろいろ想像できます。かつての恋人同士なのか、それとも…。聴く人が思い思いに物語を構築できる広がりのある歌詞だと思います。坂井泉水さんの声は、この曲のようにほのかな切なさが漂う歌によくあいます。また、この声質で歌われるから励まし系の歌詞が逆に生きてくる感じがします。

この楽曲の中にも「淋しさで人は愛に苛立ちをおぼえてゆく でも人は淋しさで強くなってゆくよね」というフレーズがあります。人間の淋しさをめぐる心理をわずかこれだけの言葉で語っているところが、凄いと驚きます。通常、なかなか言葉にならない心のひだの部分をさらりと歌詞にしているのです。淋しさで強くなる…、これもある意味では励ましですね。

さらにいつも思うのですが、彼女は季節感を取り入れるのが実にうまい。この歌の背景は晩秋、欠けていく月の感覚を入れつつ冬へと向かう凋落、侘び、寂び…、そして最後に「華やいだ季節は そう遠い記憶」としめくくっています。春や夏の歌なら決して使わないだろう言葉をここにもってきているのです。晩秋だからこそ、「華やいだ季節」が象徴するものとの対比が生きます。


□◆□…優嵐歳時記(2349)…□◆□ 

  夕暮れを待たず降り出すそぞろ寒  優嵐

「そぞろ寒(さむ)」の「そぞろ」は「そぞろ歩き」などに使われる言葉と同じで、なんとなく覚える寒さを意味します。日曜日は午後から雨になり、気温が下がりました。さすがにもう半袖とはいかず、薄手のフリースを着ています。

インターネットで銀行のサービスを利用しています。これが銀行によって微妙にログインナンバーの入れ方とかインターネットパスワードとかなんだかんだと異なっていて、戸惑います。二つも三つも暗証番号を入力しなければならないことがあり、自分のためとは思いながら煩雑です。

こういうのは、コンピュータにあわせた防犯ですね。機械はナンバーや記号を厳密に記憶していますし、峻別しますから、確かにいいのですが、人間にとって意味のない番号や記号を覚えるほど苦手なことはありません。しかも生年月日や電話番号といった自分に身近な数字は防犯上使えません。生体認証のようなものが早く実現してくれないものか、と思います。


<海へ>
夢の中にその人がやってきた
「海がどんな風に光るか見てきたら」
そう言うのだ

スケッチブックを持って海へ行こう

秋の寂しい海
冬の厳しい海
春のやわらかい海
夏の輝く海

海の光と影を見に出かけよう


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□◆□…優嵐歳時記(2348)…□◆□

  万年筆インク入れ替え秋の雨   優嵐

夕暮れになる前に雨が降り始めました。絵を描くのに使っているプラチナカーボンブラックは耐水性顔料インクのため、万年筆のメンテナンスが必要です。一ヶ月に一度くらいはペン先をぬるま湯に一日から二日浸してください、とあります。

このインクを使って絵を描き始めてほぼ一ヶ月たったのと、ちょうどインクがなくなったので、昨晩からペリカーノのペン先を水に浸し、その後インクを入れました。インクの入れ替えのときは周りを汚さないよう気を使います。絵を描くと字を書いているよりは、インクの減り具合が早いように思います。

子ども(幼児)の絵を見て、自由奔放に描いているという人があります。一見そのように見えても実は少し違います。子どもの絵は年齢によってだいたいどういう感じかが決まっています。

これはお母さん、お日さま、お花、お家、お友だち…、外の世界にあるものをシンボル化し、言葉とともにそれらを自分の中へ取り込んで定着させるために子どもは描きます。子どもがみんな絵を描くのが好きであり、描かずにはいられないというのはそれゆえでしょう。

外の世界をシンボル化して取り込む間は写実は必要ありません。概念でつかむことが大事なのです。目はこういうもの、椅子はこういうもの、手はこういうもの…、そうしてどんどん吸収していきます。こうした貪欲な概念吸収の時代が終わる時、絵を描くことは第一段階の役割を終えるのだと思います。

現代絵画ではすでに写実的なリアリズムは意味が無いとされています。確かにプロの芸術家としての絵は、単に見たとおりに描けるというだけでは意味がないでしょう。しかし、一般人が写実的に描く訓練をすることは非常に意味があるのではないか、と最近思うようになっています。

なぜなら、写実的に描けないということは、ちゃんと物が見えていないということだからです。自分の中の概念にとらわれ、ものをそのままの形で見ることがどこかで妨げられています。子どものとき概念として固定したものから自由になるために、写実的に絵を描くのです。

三次元の物体を二次元の絵に移し変えるとき、自分の視点の取り方でモノは全く違う形で見えます。「こう見えるはずだ」というのは通用しません。写生はそのことを教えてくれます。


<少年よ>
裸足の少年が自転車に乗って駆けてきた
サドルに座ったらペダルに足がとどかない
大人の自転車が彼のものになったのは
つい最近のことだ

ぼく乗れるんや
ほら見て
ちゃんと乗れるやろ
少年の顔は誇りに輝いている

思い出すあの感触
何かが初めてできた日の
例えようもない喜び

自分の中からこみあげてくる
嬉しさをどうしようもない
できた
できた
私にもできた

そうだそれを忘れないで
少年よ
その思いを抱いて
ずっと歩いていって


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□◆□…優嵐歳時記(2347)…□◆□ 

  薄立つ高さよ向こうの山よりも  優嵐

はっきりしない空模様が続いています。そのせいか夕暮れ時が早く感じられます。天気予報では日曜日は雨になりそうです。一雨ごとに周囲のものすべてが秋から冬への寂び寂びしたものへと変わっていくでしょう。

季節の中で一番もの寂しい感じがするのが、今頃から木枯しが吹くころまでです。日は日ごとに短くなり、野山のものがすべて枯れてゆき、木々は葉を落とします。時雨がちとなり、午後は雲が出る日が多くなります。

十二月に入り、落葉が終わってしまうと逆にさっぱりします。師走でいろいろ片づけることや行事も増え、それにとりまぎれているうちにクリスマス、歳末です。お正月が過ぎれば、もう日差しには明るさが戻り始めています。そして立春前後のあの明るさ、「光の春」が私は大好きです。


<写生>
身近にあったなんでもないものを
目の前に置いて描いていく
そのたびに
ものを見ていなかったということに気づく

すべて思い込みで過ごしている
これはこんなカタチ
これはこんなイロ

それは幻影
それは約束事
それはとらわれ

よく見て描くことはそこから
自分を解放することにつながる
とらわれていないと思っているのは
それに気づいていないから


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□◆□…優嵐歳時記(2346)…□◆□ 

  秋草に午後の光のはや失せる   優嵐

日暮れがしだいに早くなっています。秋草は秋に花をつける草をすべて指します。萩、薄、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗といった秋の七草のほか、いずれも楚々とした風情があり、春の草花とは一味違う趣があります。

「秋草」という季語がそこにあるだけで、「さびし」「幽けし」「なつかし」といった形容詞を含むことがらを表現したことになります。季語の持つイメージの膨らみを楽しむのが俳句の醍醐味ですね。一語で豊穣な世界を表現できるのが季語なのです。


<ローリングストーン>
「転石苔を生さず」はラテン語の諺
「ひとところに落ち着けない人は栄えることがない」
という意味が知られているが

今では
「活動的な人はいつまでも生き生きしている」
との意味で解釈されることも少なくない

諺とはそういうもの
人の世の真理にはいつも二つの面がある
何ごとにせよ
一方だけに強く偏ると間違いのもと
視野を広く柔軟に


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□◆□…優嵐歳時記(2345)…□◆□ 

  萩に触れ萩の滴を受けにけり  優嵐

山では萩の花盛りです。マメ科ハギ属、東アジア、北アメリカに分布しますが、花が美しいのは東アジアの種類に限られるそうです。秋の七草のひとつであり、その花の咲く様子は、華やかというよりはやや寂しげで可憐です。この風趣が古くから日本人に愛され、秋の花の代表として「萩」の字が作られたといいます。 

今週に入ってから空模様は曇り勝ちの日が続いています。時雨を思わせるような雨もあり、秋の終りが近づいていることを感じます。昨日は昼ごろにかなり強い風が吹き、あとひと月もしないうちに木枯しの季節になるんだなと思いました。


<成功の理由>
ほんとうにうまくいっているとき
人はその理由をつかむことができない
なぜそれができているのか
なにゆえそうなっているのか

だからものごとがうまくいきすぎているとき
人は「怖い」という
それが自分のコントロール能力を超えているから
自分の力ではなく
何かの上に乗って運ばれていることがわかるから

他の人にはそれが見えない
だからその人の能力だと思ってしまう
そうではない

成功のコツを尋ねたところで
それを伝授しきれないのは
そのメカニズムが本人もわからないから
わかっていると思い込んでいるなら
それは錯覚

なぜあなたにそれができるのか
できているのか
それを知っているのはあなた自身ではない

あなたがなぜその役割を担うことになったのか
それがわかるのもあなた自身ではない


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