優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年10月

□◆□…優嵐歳時記(2344)…□◆□

  うす雲に影にじませて後の月   優嵐

昨夜は十三夜、陰暦九月十三夜の月でした。これを季語で「後の月」といいます。昨日は昼間からうすぼんやりとした曇り空で、月が見えるだろうかと案じていました。それでも雲は薄く、月の光が雲を透かして見えました。

八月十五夜の名月の一ヶ月後なので、「後の月」、枝豆や栗を供えるところから「豆名月」「栗名月」とも呼ばれます。八月十五夜と九月十三夜をあわせて「二夜(ふたよ)の月」といい、名月だけを見て、後の月を見ないのは「片見月」としてよくないこととされました。

昔のお月見は一大イベントでした。十五夜にもてなされた家には十三夜にも訪れて、馳走になったり泊まったりする習慣があったといいます。今では電灯にかき消されてお月見の習慣は、すっかり影が薄くなってしまいました。

十五夜と十三夜に、電灯を消して月に親しむというのは、風流な習慣ではないでしょうか。月の明りで静かに一献傾ける。大人にはハロウィンよりもこちらの方がいいように思います。


<人間の能力>
モーツァルトは
作る曲を一瞬にして聴くことができた
まるで絵画か彫刻を見るように
演奏すれば何十分もかかる交響曲さえ
瞬時につかむことができた

こうした「超聴力」で聴けたとき
それこそが最高の瞬間だと語っている

人間には途轍もない可能性がある
計算して分析して計画して…
そういうものを瞬時に飛び越えてしまう何か

小さく折り畳まれたパラシュート
それがこの世を生きている人間の姿
誰かが紐をひいたなら大空に向かって開く


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□◆□…優嵐歳時記(2343)…□◆□

  城までの銀杏並木の黄葉初む  優嵐

姫路城は大天守がすっかり修理屋根の下に隠れました。修理期間中は普段見られないところが見られるそうですので、一度は行ってみたいと思っています。

今夜は十三夜、陰暦九月十三日の月です。昨夜はうすぼんやりと曇っていました。ナイターでテニスをして戻り、車から出て夜空を見上げたら、月の形がようやく見分けられるかどうか、という空模様でした。今夜の月はどうでしょうか。

気温はまだ高く、例年ならもうロングパンツと長袖になっているところですが、今年はまだハーフパンツと半袖のポロシャツでコートに出ています。それでも少し走ると汗をかきます。


<それは本当か>
「今ほどひどい時代はない」
偶然目にした雑誌と本にこの言葉が載っていた
ひとりは七十代、もうひとりは六十代

人の一生は長くても百年前後
彼らは今をいつと比べているのだろう
平安時代や江戸時代ではあるまい

高度経済成長の時代?
バブルの時代?
失われた90年代?

「今ほどひどい時代はない」は本当か?
比べる基準がない
客観的にはもちろん
彼ら個人の主観としても無理だ

人間は変わる
同じ個人名を有していたところで
十代、三十代、五十代、七十代では
感じることも思うことも変わる

自分自身が常に流れて変わっていることを自覚せずに
「ひどい時代」という言葉を投げつけて
それで誰が救われるというのだろう


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□◆□…優嵐歳時記(2342)…□◆□ 

  破蓮の隙(ひま)に透けいる水の青   優嵐

蓮は夏の初めに新しい葉が水面に浮かび始め、夏の盛りには茎を伸ばして大きな葉を茂らせます。その後、花が咲きます。秋半ばともなると蓮の実ができ、葉はしだいに枯れた色に変わり始めます。秋が深まるにつれ実を落とし、葉は枯れて茎も折れ、無残な姿になっていきます。

これを「破蓮」あるいは「敗荷」と書いて、「やれはす」または「やれはちす」と読みます。池の面ではすっかり衰えた雰囲気の蓮ですが、この時期に泥の下で蓮根が急生長しています。

五日ぶりにあの猪に会いました。やはり右前肢は折れているのか、同じ格好でひきずったままです。それでも小走りにかけているところを見て、野生というのはすごいものだと思いました。人間なら、骨折してそのまま平気で食事をするなんて、考えられないことです。

<秋の花>
頂にくるたび
増えているのは萩とすすき
播磨灘を望みながら風に吹かれている

遠くの田が鮮やかなピンクに
染まっているのに気がついた
あれは休耕田を利用したコスモスだろう

今ごろ気がついたの
私たちはずっと眺めているのよ
萩とすすきがそう言って笑った


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□◆□…優嵐歳時記(2341)…□◆□

  中世の宝篋印塔秋の声   優嵐

「秋の声」とは、秋のもの寂しさを感じさせるさまざまな物音をさします。春の声、夏の声、冬の声という季語はなく、「秋の声」だけが季語として存在するというところに、季節に寄せる日本人の微妙な感覚を思います。

祖母と父の法要で檀家のお寺に行きました。境内の一画に南北朝時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が安置してあります。ここはかつて土地を治めていた武士の住居だった場所であり、発掘作業で出土したものだということです。

今回、法要時に曹洞宗でよまれるお経が書いてある聖典を見せていただきました。その中に「修証義」というお経があります。これまでは住職がよまれるのを聞いていただけだったのですが、こうして文として読むと、何が書いてあるのかがおおまかながら理解できます。「お経は死者のものではなく、生きている人間のためのものだ」との思いを新たにしました。


<心しておく>
道元はいう

光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、
身命は露よりも脆(もろ)し
何れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか
過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる

無常迅速
それと同時に

徒(いたず)らに百歳生けらんは
恨むべき日月(じつげつ)なり
とも説いている

得がたき人身を得たのであるから
精進しなさい

たとえ人生最後のわずか一日であろうとも
真実に沿った生き方ができれば
それは素晴らしいことなのだと


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□◆□…優嵐歳時記(2340)…□◆□ 

  東西南北みな秋の山なみ   優嵐

宍粟市一宮町から笠杉山(1,032m)へ登ってきました。標高650mの高地に千町の集落があり、そこからさらに林道の工事が進められていて、かなり頂上に近い場所から登り始めることになりました。林道工事脇で、すでに作られていた林道が土砂崩れで埋まっているところがあり、道が寸断されて登り口がわかりにくくなっています。運良く測量中の方に会い場所を教えていただきました。

半袖のポロシャツで登りましたが、標高1,000m近くともなると、やはり空気の温度が違うと感じました。それでも「寒い」というほどではありませんでした。宍粟市は面積の9割が森林で、自ら「森林王国」と名乗るほどの地域です。山頂に立つと周りは一面の山また山でした。

ほとんどが杉や檜、赤松といった針葉樹ですが、その中に落葉広葉樹の森もちらほらと残り、紅葉が始まっていました。途中、往きの道路沿いで木の実を食べているニホンザルに会いました。少しも騒がず、ゆったりと座っています。帰りには、林道の脇でイノシシに出会いました。今年生まれたと思われる可愛らしいイノシシで、車を見ると一目散に逃げてしまいました。

山を下りたあとはいつも近くの立ち寄り温泉に行きます。今回は一宮まほろばの湯に向かいました。ここは昔海底だったそうで、舐めると少し塩辛く感じるお湯です。


<美味い>
コンパクトストーブで沸かしたお湯に
インスタントラーメンとちくわを入れる
粉末スープは半分程度
薄味が好み

いつもいつも不思議なのは
なぜラーメンとちくわが
これほど美味しいのかということ

登ってきたその道、景色、頂からの眺め
踏み出す一歩一歩の感触
それらすべてが特別な調味料になっている

どんな高級レストランにもない
ここだけの味


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□◆□…優嵐歳時記(2339)…□◆□ 

  がしがしと描きしあとの林檎をかじる   優嵐

今年のりんごが店頭に並び始めました。鳥取では、梨は平年の6割の収穫しかなかったそうです。りんごもあまり豊作ではなかったように見受けられます。全体に値段が高めです。りんごは大好きなので(基本的に果物はみんな好きです)さっそく小ぶりなサンつがるを買ってきました。

まずスケッチをして、その後洗って丸かじり。万年筆とクーピーペンシルでのスケッチとあわせてクレヨンも試してみました。万年筆と相性がいいのはクーピーペンシルのようです。クーピーペンシルの技法書は無く、メーカーのHPを見ても、単独で色鉛筆のように使うものとして書かれています。

万年筆で絵を描くというのはあまり耳にしない方法です。『楽しい万年筆画入門』という本を読み、そうか、万年筆で絵を描いてもいいんだ、と気がつきました。子どものとき、漫画家になりたかった時期がありました。そのころの入門書にはマンガは"つけペン"で描くもので万年筆は使わないとあり、その印象が刷り込まれて、万年筆は絵を描くものではないと思い込んでいました。

この本を読まなかったら、万年筆で絵を描こうなどと思いつかなかったでしょう。描いてみると、これがとても楽です。さらに、プラチナカーボンブラックという耐水性顔料インクを使っているのですが、非常に伸びがよく、なめらかに描けます。この線描を活かせるように色をつけたいと今は思っています。試行錯誤しているのですが、これがまた楽しいのですね。


<帰化>
野にセイタカアワダチソウの黄色が
目だつ季節になった

北アメリカからやってきて
一時は劇的に勢力を伸ばしたこの花も
今では穏かな風貌となり
日本の山野に溶け込んでいる

ヨーロッパからやってきたオオイヌノフグリの青が
日本の春を彩る色になったように
セイタカアワダチソウの黄色は
日本の秋を彩る色になっている


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□◆□…優嵐歳時記(2338)…□◆□ 

  自転車のペダル軽やか秋うらら  優嵐

「秋うらら」は「秋麗」と書き、「しゅうれい」と読ませることもあります。「麗か」は春の季語で、春の日のうらうらとあたたかなさまを指します。秋の穏かで暖かな日差しに春のうららかさを感じ取って詠むのが「秋うらら」です。春とは一味違う澄んだ大気の心地よさをうれしく思う気分ですね。

久しぶりにマウンテンバイクに乗りました。タイヤを街乗り用に変えてツーリングに行ったりしたものでしたが、最近はちょっとご無沙汰でした。特にこの夏から初秋にかけては激烈な暑さで、自転車を敬遠していました。

しかし、今日、ふと思いついてMTBに乗ってみる気になり、減っていたタイヤの空気を入れて走り出してみると、やっぱり私は自転車が好きやなあ、と感じました。あの空気をきって走る感覚、日差しや風と親しくある感じ、歩くのともオートバイとも異なる味わいが好きです。もちろん歩くのもオートバイも好きですが。


<舞踏>
ヤマカガシの餌食になったカエルを
哀れと思いはするけれど
カエルもまた多くの昆虫をえさにして
あそこまで成長した

冬眠から覚めたばかりの蛇を
鳶がわしづかみにして舞い上がるのを
見たことがある

昆虫はカエルの
カエルはヤマカガシの
ヤマカガシは鳶の
それぞれの命を支えている
鳶が命を終えればそれはまた
無数の微生物や昆虫を支えることになる

それぞれの生き物は単独で存在するのではなく
目に見えない鎖でつながっている
どこが始まりでどこが終りでもない

単独の生命があるわけではなく
「いのち」という存在が姿を変えながら
永遠の舞踏を続けている


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□◆□…優嵐歳時記(2337)…□◆□

  笹揺れてゆっくり猪来る気配   優嵐

猪が右前肢を骨折していました。散歩の途中、よく出会う東屋のところで団栗を食べているのを見かけましたが、足音がおかしいのです。ベンチに座って観察すると、右前肢をひきずっています。ちょうど手の甲をだらりとたらしたような格好です。

どこで怪我をしたのでしょう。最近、「動物へのえさやりはおやめください」との看板が立てられていました。猪にえさをやる人がいるのですね。彼女が人に慣れ、私の姿を見ても警戒しなくなったのはその影響かと思います。車の近くに寄っていって接触でもしたのか。

猪にあんな怪我をさせられる動物はこの辺にはいません。野生動物が人に慣れすぎるのも逆に危険なことなのかもしれません。あのような状態で冬を越せるでしょうか。蹄に炎症を起こすことも考えられますし、何よりあれでは素早く動くことができません。どうしてやる術もありませんが、何だか悲しくなりました。


<ヤマカガシ>
ヤマカガシが這って行くのを見た
何か様子が違うと思った瞬間
カエルが飛び出してきた

渾身の力を振り絞って逃げるカエルを
ヤマカガシが追う
ぐっと鎌首をもたげ
見たこともないような猛々しい姿

カエルはジャンプを試みたが所詮は空しい
あっという間に追いつかれ
左脚をくわえ込まれてしまった

鎌首をもたげてカエルをくわえたまま
ヤマカガシは落ち着いて
食事ができる場所へと移動する

やや落葉がたまっている柔らかな斜面で
身体を反転させる
カエルは残った右脚を蹴って
なおも逃げようとしている

カエルの身体はヤマカガシの頭の二倍はある
いったいどうやって丸ごと食べるのかと思うが
まるで排水口に吸い込まれていく液体のように
カエルの身体がすううっと消えていく

最後にヤマカガシの赤い口が見え
ペロペロっと舌先がのぞいた
お食事はこれでおしまい


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□◆□…優嵐歳時記(2336)…□◆□ 

  秋の野を祭太鼓の音流る   優嵐

姫路がある兵庫県西南部は秋祭りが盛んな地域です。驚いたことにwikipediaにまで「播州の秋祭り」として取り上げられていました。今、シーズン真っ盛りというところです。地域によって熱の入れ方に差があり、それほど盛んでないところでは、休日や週末を利用してお祭りをおこないます。しかし、祭礼日が何日と明記されているところは、平日でも学校は休みとなり、街は祭り一色になります。

祭りを象徴するものはいろいろありますが、太鼓の音というのは中でも大きいのではないか、と思います。打楽器というのは、人間の根源的ななにかに訴えてきます。心身のリズムに直接響いてくるものだからでしょう。セラピーのために打楽器を使う場合もあるそうです。


<描いて知る>
靴、手袋、食器、筆記用具、鍋、はさみ…
ずっと身近にあったものを
あらためて目の前において描いてみると
そのうしろに多くの人がいることに気づく

デザインした人、作った人、運んだ人、売った人…
どうでもいいものなどこの世にはない
すべてに人の手が人の心がこもっている

それに気づかなかった
見ようともしなかった
そんなものはなんでもない
あたりまえのものだと

何かを知るということは
自分がどれだけ愚かだったかを知るということだ


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□◆□…優嵐歳時記(2335)…□◆□

  コスモスを切り野の風を持ち帰る   優嵐

三連休最後の月曜日は晴れて気温があがりました。まだ半袖で過ごしています。コスモスは幕末にオランダ人によって薩摩に伝えられたと言われています。その後、東京美術学校の教師となったラグーザがイタリアから種子を伝えるなどして日露戦争以後、各地に広まりました。

メキシコ原産のキク科の一年草で、花期は長く、早咲きのものは六月ごろから咲いています。しかし、「秋桜」と呼ばれるコスモスの季節はやはり秋です。「桜」の漢字をもらっているだけあって、日本人好みの花のようです。

各地でこの時期になると、道路沿いの休耕田などに一面に植えられたコスモスを見ることが出来ます。華やかでありながら一抹の寂しさも感じさせるところがいいのでしょう。咲き乱れているさまは絵になります。

<不思議>
信号待ちで停まったら
前の車のトランクの上に
一匹のかまきりがいるのに気づいた

かまきりはけなげにも鎌をふりあげた
かまきりのポーズをとっている
そんなところで何をしているのか

隣を見ると
畑から二匹の白い蝶がもつれあいながら
飛んでくるところだった

目にもとまらぬ速さで
互いの身体を入れ替えながら
蝶たちは飛んでゆく
なぜぶつからないのか
彼らをシンクロさせているものは何なのか


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