優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年10月

□◆□…優嵐歳時記(2334)…□◆□ 

  残照に長月三日の月浮かぶ   優嵐

10月10日は旧暦の長月三日でした。夕方、西の空を見ると、低い位置に三日月が光っていました。まだ夕暮れの明りが空に残っており、山際はぼおっと発光しているように見えます。山の向こうに沈んだ太陽があの三日月の光を作り出しているのだ、とあらためて思い、頭の中で月と地球と太陽の位置を並べてみました。

10日はお昼前から晴れ、土曜日には見合わせられていた屋台の巡行がおこなわれていました。私が住んでいるあたりのお祭りは子ども会中心のささやかなものです。しかし、姫路で最も秋祭りが盛大におこなわれる灘・白浜といった地域では、お正月には帰省しなくても祭りには帰るという人もいるそうです。漁師の祭りに起源を持ち、屋台をぶつけあう荒っぽいもので、「けんか祭り」と呼ばれています。


<自由に>
スケッチの技法書を何冊も読んだ
彩色は透明水彩でというのが定番だ

いま万年筆とクーピーペンシルで
絵を描いている

絵は好きなように描けばいいと
ある有名な風景画家が書いていた
車の運転とは違うのだ

自分の好きな画材で
好きなものを好きなように描けばいい
自由に描いて自分の世界を作ればそれでいい


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□◆□…優嵐歳時記(2333)…□◆□ 

  静寂へ木の実降らせる音続く   優嵐

蝉の声がやみ、木枯しまでにはまだ間がある今の時期、森は静かです。増位山にはコナラやアベマキといったどんぐりを生らせる落葉広葉樹がたくさん生えています。それらは今いっせいに木の実を落としています。冬に備える動物がそれらを食べ、千分の一、万分の一の確率で残ったものが、次の樹木へと生長します。

昨日、近所のスーパーにスケッチブックとクーピーペンシルを買いに行きました。描きまくっているので消耗が早いのです。鉛筆の補助軸も買いました。昔懐かしい。短くなったクーピーペンシルを挿して使います。描くものによって使う色に差はありますが、どの絵にも必要なのが影をつける黒です。グレーと黒が必須ですね。

文具売り場の隣におもちゃ売り場があり、そこでおもしろいジグソーパズルを見つけました。「ジガゾーパズル」といい、300ピースであらゆる人の顔を描くことができる、と書いてあります。モナリザやオバマ大統領の顔がパズルで作られており、「どうして?」と宣伝文句に書いてあります。実際、どうして?と思いますよね。

仕組みは、自分の顔写真(誰でもいい)をケータイで撮影し、指定のアドレスに送れば、パズルの組み上げ方の説明が返信メールで届き、それに従って作ればあーら不思議、となるようです。

よくこんなことを考えるものだ、と感心しました。これは人間のパターン認識の習性を利用した遊びなのでしょう。人間は形に意味を見出すようにできています。壁のしみのようなものでも、意味のある図形として読み取った経験は誰にもあるでしょう。ロールシャッハテストを連想しました。

もしかしたら、逆にこういう方法で人工知能に人の顔を認識させるパターンを考えているのかもしれません。ジグソーパズルでも随分進化しているものなのだなあと認識を新たにしました。それにしても「ジガゾーパズル」とは。こういう遊びができる日本語が好き。


<チャンス>
夜毎子どもたちは公民館に集まって
祭太鼓の練習をしてきた
伊勢音頭にあわせて撥を握る
よーいやさぁ

祭りに備えての入念な準備
ところが今日は朝から強風と雨
屋台の巡行は見合わせられた

六年生にとっては最後の経験
この日のためにがんばってきたのに
明日の午前中も雨マークが並ぶ

晴れの特異日のはず
晴れ上がった空の下で祭りを楽しめたはず

でもね
人生ってそういうもんなんだよ
そういうこともあるねと学ぶ
その最初の機会かもしれない
かけがえのないチャンスかも


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□◆□…優嵐歳時記(2332)…□◆□ 

  街角に紙垂の注連縄秋祭り   優嵐

姫路周辺はこの三連休に秋祭りというところがほとんどです。紙垂(しで)を垂らした注連縄が町並みの中を張り巡らされています。午後、激しい雨が降り、夜になっても降り続いています。あの紙垂はどうなったかしら、と思います。

夏祭りは疫病退散などの祓いであり、秋祭りは収穫への感謝といわれています。収穫をもたらしてくださった田の神様を祭囃子に乗せて送るのです。農業に直接従事する人がほとんどなくなった地域でも、地域の親睦を深め、伝統を受け継ぐという意味からか、お祭りは盛んになっているようです。


<今ここ>
答えを求めてあてどなく探し回り
苦しむのをやめよう
探し求める限り答えは決して見つからない

幸せを求め
幸せになるために何かを企てている限り
幸せにはなれない

ああしてこうしてこうやって
忙しく何かを成し遂げようと駆けずり回る
けれど何か成し遂げたところで
次にするべきことが追いかけてくるだけ

何かを「する」のではなくただ「ある」
それができる人はほとんどいない


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□◆□…優嵐歳時記(2331)…□◆□

  透明に磨きし秋日賜りぬ   優嵐

終日よく晴れ、快適な秋の一日でした。こういう日はたくさんあるようで実は滅多にないのではないか、と思えるそんな一日です。風もなく、空は澄み日の出から日没まで青空が広がっていました。「秋日」は秋の太陽と秋の一日と両方の意味がありますが、今日の句は秋の一日と解釈してください。

もう森を散歩してもあまり汗をかかなくなりました。頂のベンチに座って周囲の景色、空気を楽しみました。真夏から初秋にかけては、暑さのために頂でのんびりすることはほとんどありませんでした。しかし、今日はしばらくぼーっとそこにいました。

播磨灘と淡路島が見え、広がる田んぼにはひつじが伸びています。ときおりアゲハや赤とんぼが視界を横切っていきます。暑くもなく寒くもなく、完全にニュートラルで、このままこの状態の中にずっといたいと思えるような雰囲気でした。


<戻ってきた>
絵を描きながら
人はやっぱり変わると可笑しくなる
好きだった絵をいつか描かなくなり
自転車でオートバイで旅に出るようになった
山に登り海を渡った

また絵を描くようになるとは
そのころは考えていなかった
久しぶりに描いて
どこかでかちっとスイッチが入った

戻ってきたと思う
長い遍歴の旅に出て
今ふたたび最初のところに戻ってきた
子どものころとはまた違う
描く喜び
それが新鮮に私をとらえる


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□◆□…優嵐歳時記(2330)…□◆□

  秋晴れへ干し物の色カラフルに   優嵐

日没が早くなったと感じます。秋から冬へ日が短くなっていくときは、特に午後の時間の短さとして感じられます。日没が最も早いのは冬至より少し前ですから、これから二ヶ月と少しの間、夕暮れは早まっていきます。午後から時雨れることもこれからは増え、お天気が変わりやすいことから、晴れたら洗濯、です。

最近、絵を描くことに熱中しています。読書が大好きなのですが、その時間すら今はちょっと横において絵を描いています。九月初めにちらりと絵を描き、その意外な感触が子どもの頃の楽しさを呼び起こしてくれました。振り子がもう一方へ振れたかなあ、という感覚があります。

ずっとアウトドア系の遊びが好きで海や山で楽しんできました。アクティブな人間と思われがちですが、子どもの頃は文化系の方が好きでした。読書や絵でいくらでも遊べる子どもでした。そのころの自分がリターンズです。

優嵐スケッチブック」というブログを立ち上げて、最近描いた万年筆&クーピーペンシルの絵をアップしていますが、ここでは今のところ靴や掃除機といった変哲も無い日用品を描いています。子どもの頃、タレントの似顔絵を描いて友達にプレゼントしていたのを思いだし、人の顔も描いてみようか、と思いました。

人の顔は難しいです。全員同じパーツで出来ているので、他のものなら少々歪んでいてもそのものに見えるのですが、人の場合は似ても似つかない状態になってしまうことがしばしばです。人の顔…、と考えてブログパーツとして使っているZARDの坂井泉水さんの顔を描いてみることにしました。美形ですから描くのも楽しい。

そんなわけで作品の途中経過も含めてアップします。だいたいこういう感じで他のスケッチも今は描いています。

IMG_0943まず、0.9mmのシャープペン(HB)で下描きをします。














IMG_0944その後、カーボンブラックを入れた万年筆でペン入れをします。













IMG_0949シャープペンの線を消したあと、クーピーペンシルで彩色です。万年筆の長さをスケールに原画の大きさも想定してください。













久々の肖像画で、やはり集中しました。でも、楽しかったなあ。描いた作品がどうのこうのよりも、純粋に「その時」が楽しいのです。絵を描く楽しさというのはこれにつきます。人の顔って楽しいですね。これから供養代わりに肖像を描いてみようかと思いました。


□◆□…優嵐歳時記(2329)…□◆□

  ポストまで歩けば木犀の香る   優嵐

月曜日に今シーズン初めて木犀の香りを感じました。「あ、これ…」何にしてもそのシーズン最初に出会った瞬間はときめくものがあります。木犀の香りが漂い始めるともう晩秋です。立冬は11月7日ですから、深まっていく秋を楽しみましょう。

今日の坂井泉水さんの誕生の「日」には『Top Secret』を取り上げます。ZARDの5番目のオリジナルアルバム『OH MY LOVE』(94.6.4)の収録曲です。歌詞は、結婚してそれほど日のたっていない女性のちょっといたずらっぽいため息まじりの独白、という体裁になっています。

Top Secret 



仕事が忙しくてなかなか家に帰ってこない彼。あーあ、もう、せっかくおいしいシチューができたのに。私をほったらかしていたら、ちょっと浮気しちゃうかもしれないよ…。そんな心境を歌っています。主人公は、けっこう私は遊んだし、今だってそういう気持ちはあるんだから、というZARDの歌の中では比較的珍しいタイプの女性です。

状況スケッチに分類される楽曲で、こういうときの小道具の使い方がうまいなあと思います。歌詞の中にシチューや電話のベルといったものが出てきますが、これらに主人公の気持ちを乗せて語らせています。つらいことをただつらい、恋しいことをただ恋しいというのではなく、モノに語らせることによって、間接的に主人公の気持ちをさりげなく、的確に浮かび上がらせることに成功しているのです。

直接的ではない、月並みではない、奇を衒わない、それでいて新鮮で人の心にすっと入っていくような歌詞を書くのは、容易なことではありません。本当にこういう状況があるかどうか、はわかりません。しかし、本当にありそうだなあ、という感覚を聴く側の心に呼び起こす、そういう歌詞なのです。


□◆□…優嵐歳時記(2328)…□◆□

  空よりも深き青さや秋の海   優嵐

この海は明石海峡です。姫路から阪神方面に出るときはJRに乗って行きます。在来線は明石から須磨にかけて海沿いを走ります。明石駅を出てすぐに明石海峡大橋の主塔が見え始め、やがて淡路島、海、そこを行く多くの船の姿を目にします。何度見ても飽きない風景です。

ペーパーレス化が社会に及ぼす影響についてもう少し考えてみました。これは、フィルムカメラがデジカメに変わることとは比較にならないほど大きな影響を社会に与えます。グーテンベルクの印刷機、と昨日書きましたが、グーテンベルクの印刷機に始まった「紙に情報を印刷して伝える」という形の文化が主流から退くことを意味するからです。

これまでは紙が最も安価で持ち運びしやすい情報伝達媒体だったのですが、それが電子に変わろうとしています。文字や情報というものは変わりませんが、媒体が変わるのです。情報に「重さ」がなくなるため、伝達・携行できる情報量はほぼ無限大になります。そして、情報を重さとして扱っていた業界に関連していた人々の生活は大きく変わっていかざるをえません。

紙として情報を扱っていた出版社、新聞社はもちろん、書店、新聞販売店、図書館、本や雑誌を作る紙を作っていた業者、印刷業の方などです。紙の本が完全に無くなることは決して無いでしょうが、主流であるのはもうあとわずかの期間だろうと思います。ちょうど自動車におけるガソリン車のような存在です。

紙の本は特殊な用途でのみ残り、雑誌、新聞、文庫本、新書のように大量消費されていく情報媒体はすべて電子におきかわるでしょう。その中に教科書も入ってきます。義務教育教科書として毎年無償配布される教科書が全部電子媒体に変わったらどうなるでしょうか。2000年以後に生まれた人たちが社会の主流を占めるころには、それが実現していると思います。彼らは生まれたときからインターネットに接しており、電子媒体に全く抵抗がないからです。

中世以前の人々には手書き写本しかなかったと聞いて、私たちが驚く感覚に似たものを、来世紀の人たちは、今の私たちについて持つのでは、と思います。「昔の人は紙に印刷して持ち歩いていたんだって、へえ〜、重くて不便だったでしょうに」という具合です。ガソリン車の消滅と紙の本の消滅はほぼ同じ頃に起こるかもしれませんね。

紙そのものは筆記用具、絵画用品、梱包材などとして今後も中心であり続けます。しかし、情報を載せて大量配布する媒体としては間もなく役割を終えるだろうと思うのです。古紙回収をいま盛んにやっていますが、それも今後どうなるのでしょうか。情報伝達媒体として紙が使われなくなることは、資源保護から見るといいことだと思います。


<変化>
変わらないと思っていたものほど
いったん変わり始めると
劇的に変わる

すべては無常
ローマ帝国もイスラム帝国も
どれほど無敵に思えた国も人も
時の前には儚い

儚いからまた新たなものが生まれ育つ
何かが衰え滅びなければ新たなものが
生まれ育つことはない

振り子の振動であり
波頭と波の底であり
陰の極と陽の極である

良いとか悪いとかの判断で
一方にしがみつくな


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□◆□…優嵐歳時記(2327)…□◆□

  落花生塩茹でにして山盛りに   優嵐

落花生は明治初期にアメリカから伝わりました。南米原産で、南京豆、ピーナッツとも呼ばれます。地中で実を結ぶという他の豆にはない性質を持っています。油分が多く、栄養価が高いので、トレッキングの行動食によく使いました。ナッツ類とシュガーコーティングされたチョコレートをジップロックに入れ、それを歩きながら食べるのです。

土曜日のアートセラピーの場所に参加者のおひとりが落花生を茹でてもってきてくださいました。炒ったピーナッツはかりかりとしていますが、茹でると柔らかく、これもなかなかいける味でした。

土曜日に電車に乗っていて、紙としての出版業界は間もなく大幅に縮小するだろう、と思いました。以前からそう感じていましたが、この日は特にそれを強く感じました。ちょっと前までは、電車に乗ると多くの人が本や雑誌、新聞などを読んでいたものです。しかし、土曜日は、皆無とはいわないまでもその数のあまりの少なさにあらためて驚きました。

何かを見ている人の八割以上がケータイの画面です。本を読んでいる人は、中高年以上の年齢層に偏り、その年齢層でもケータイを見ている人が少なくありません。10代〜20代となると漫画雑誌すら見ていません。本が売れなくなったと言われていますが、これでは雑誌も新聞も厳しいだろうと思います。

1990年代はレコードがCDに入れ替わり(今やそれもダウンロードに変わろうとしています)、2000年代はデジカメの普及でフィルムやその関連業界が様変わりしました。パソコンとプリンターが普及したときはペーパーレスになると言われながら、逆に膨大なプリントアウトで紙の消費量は増えました。しかし、いよいよ本格的なペーパーレスの時代になりそうな気がします。変わるときは劇的に変わるのです。

iPadのような電子端末が進化し、紙以上に使い勝手がよくなっているようです。重量を考えれば、何百冊でも持ち歩ける電子端末に紙は太刀打ちできないでしょう。小学生も大学生も鞄に自分の電子端末をひとつだけ入れて学校へ行きます。ビジネスマンは会議にそれだけを持って出て、資料はその場でクラウドコンピューティングを使って見るのです。マンガも学術書もそれひとつで全部読めます。

インターネットはグーテンベルクの印刷機どころか、狩猟採集社会が農耕定住社会に変わったほどの大変化を引き起こすだろうと思います。まだそれは始まったばかりで、想像もつかなかったようなものがデジタル化、インターネット化されていくでしょう。すでに音楽がそうなっており、この先、あらゆるメディアと娯楽、公共手続の類まですべてがそこに組み込まれていくに違いありません。


<未来>
未来は「誰も予測がつかない」と読む
すべてがインターネット化されていくとき
これまで「雇用」という名で提供されてきたものは
どうなっていくだろう

人手がいらなくなる
もちろん
まったく不要になるわけではない

改札口のトラブルに備えて今も係員が一人はいる
機械は不測の事態には弱いからだ
けれど一人で十分

あらゆる分野でそれが起こるとしたら
雇用の確保は絵に描いた餅になる

「雇用」を背骨に成り立っている
社会福祉、税制、さらに社会全体は
どう変わっていくだろう


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□◆□…優嵐歳時記(2326)…□◆□

  朝露を身に彼岸花列なして  優嵐

彼岸にかなり遅れをとりましたが、ようやく彼岸花が花盛りです。畦などにどっと群れて咲くためよく目立ちます。まだ刈られずに残っている稲田の隣でいっせいに咲いているのを見ると、この黄金色と朱色の取り合わせが秋らしさのひとつだなと感じます。

今日はアートセラピーに行っていました。十月の第三日曜は都合が悪く出席できないため、一足早く別のクラスに出席してきたわけです。朝は少しひんやりしていたため、長袖のシャツを着ていきましたが、大阪の街は暑く、まだ半袖の人も大勢見かけました。

これからの三ヶ月は「呼吸と自己調整」というテーマでおこないます。いつもワークのはじめにお手玉を使って自分の今日の調子を見ます。片手で投げ上げたり、二人で向き合って投げあったりしたあと、輪になって歌にあわせてお手玉を廻していきます。四拍子の歌が二曲(これで左右にまわす)、三拍子の歌が一曲です。

その後、前回と今回までの期間の振り返りを行います。レポートを書いたり、振り返りをおこなったりするのは、そのことによってひとつの出来事にピリオドを打つことを意味します。振り返りの途中で講師の方が「ものごとを続けられないのは、その前のものごとをきちんと終わらせていないから」と言われたのが印象に残りました。

作品でも仕事でもなんでもそうですが、やればやるだけきりが無いという場合があります。完璧にやりたいと思うあまり、どこで見切るかの判断ができず、抱え込んで負担となり、そこで止ってしまうのです。これは執着と手放すということにも関係しているように思いました。

「けりをつける」という言葉があります。和歌や俳句に「けり」をつけて終わらせることが多いことからきた言葉で、ものごとをきちんと終わらせる、ということを意味します。始めること以上に「けりをつける」ことは重要かもしれません。

最初は呼吸を意識しながら大きな円をひたすら描きました。右回り、左回り、右手、左手、スピードを変えたり、呼吸を変えたりしてそのとき自分がどのように感じるかを体験します。円は呼吸を整えやすい形だということです。確かに、人間にとっては最も基本的な形です。円をひたすらぐるぐる描いていると、すーっと引き込まれていくような感覚があります。

二枚目は両手にクレパスを持ち、一枚の紙の上で隣り合わせた二つの楕円を描きました。左右同時にやると、やはり利き腕の右の内側から外側へと向かっていく線がもっとも正確に描けることがわかります。線にぶれがないのです。左手を意識し過ぎると、右手の線がぶれます。注意力の配分が線を乱さないポイントです。

円を描くというワークは、単純ですが全員のものを前に並べて貼ると違いがはっきりしていて興味深いものです。円を描くと、自分を見ることができ、それによって自分を補正することができます。


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□◆□…優嵐歳時記(2325)…□◆□

  露草の色に澄みたる野辺をゆく  優嵐

露草は秋の季語です。夏から秋にかけ、山野から人家の軒下までいろいろな場所で咲いています。今年はやはり残暑の影響で咲き始めを見るのが遅くなりました。彼岸花もようやく咲き始め、半月遅れの感覚です。

露草は朝に咲いて昼ごろにはしぼむ半日花です。その短命さが朝露にたとえられました。そのせいか、この花の青は目に染みるような清冽さを持っています。ウスリー、サハリン、北海道から沖縄、朝鮮半島、中国に分布します。


<赤とんぼ>
枝先にとまっている赤とんぼ
とんぼによってとまっている時の姿勢は違う

近づいてよく見ると
赤とんぼは翅を横に広げたまま
根元でねじって
揚力を受けないようにしている

ずっと毎年赤とんぼを見てきたのに
今日初めて気がついた
見ていたのに見えていなかった

時々首をきょろっと動かしながら
赤とんぼは平然ととまっている
それを見上げながら驚いている人間が
下にいることなど知らぬ顔で


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