優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年11月

□◆□…優嵐歳時記(2384)…□◆□

  梅枯れて枝のおのおの天を指す  優嵐

この梅は葉を落とした木であって、本当に枯れてしまっているわけではありません。「枯木」と同様、俳句では、よく知られた落葉樹は「名の木枯る」として季語になっています。「桜枯る」「銀杏枯る」「欅枯る」「柳枯る」などがよく詠まれています。

梅は比較的早く落葉を終える木です。増位山梅林の梅もごく一部を除いてほぼ裸になっています。花の時期は随分楽しませてもらいますが、花にばかり注目して、木そのものはあまり見ていませんでした。花が終わるとすぐに葉が茂り、実ができて、今度はそちらに注意が向きます。

この時期あらためて梅を見て、枝の走り方がどの木よりも直線的だと気がつきました。花は可憐ですが、幹や枝はむしろ男性的、剛毅な雰囲気です。もうどの木も花を咲かせる準備を終え、年が明けるのを待っています。


<沈黙と静寂と>
明るい日差しが降り注ぐ冬の森を
ただひとり歩くのが好きだ
かさこそと足元で鳴る落葉

孤独な時間は私を育てる
内側からやってくる声は
沈黙と静寂の中でしか聞こえない


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□◆□…優嵐歳時記(2383)…□◆□ 

  枯蔓を引きて強さに驚きぬ   優嵐

「枯蔓(かれづる)」とは、蔓性の植物が枯れている状態を総称した季語です。山藤、葛かずら、藪からしなどが蔓を他の植物にからませたまま枯れています。この句は桜にからんでいた山藤の蔓を引っ張ってみた感覚をそのまま詠んでいます。

「枯」がつく季語は冬全体で詠めますが、十一月後半から十二月半ばくらいが最もふさわしい気がします。野山が枯色に変わっていく時期だからです。十二月も半ば以降となると、歳末の雰囲気が強くなり、それに気持ちを寄せた句が多くなります。

一方、年が明けると、最初の一週間ほどは新春気分を詠みます。そうしているうちに寒の入りを迎え、寒中はやはり厳しい寒さに焦点をあてた句になります。そして、大寒であっても一月も末となると、光は明るさを増し、近づく春への思いを詠むようになります。

季語は俳句のものですが、それだけでなく、日本の四季の移り変わりの微妙さを把握する的確な手がかりになってくれます。


<得るものと失うもの>
便利になったら何かを失うのだという
ケータイやゲームが
日本人から考える力を奪ったと

何か新しいものが出てくると
必ずそれを悪くいう人がいる

その人はケータイは使わないかもしれないが
電話やバスは使うだろう
電気もガスも使うだろう

人間が他の動物と異なるのは
前の場所に安住しないということだ
それがいいことか悪いことか
それはわからない

けれどホモサピエンスは
誕生した時からずっとそうして発展してきた
それがホモサピエンスたるゆえんだ

これまでも
そしてこれからも


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□◆□…優嵐歳時記(2382)…□◆□ 

  枯蓮に陽の燦々と降り注ぐ  優嵐

夏の間緑の大きな葉を広げ、風に揺れていた蓮の葉は秋の半ばからしだいに黄色くなり、裂けて穴が開くようになります。これが秋の季語の「破蓮、敗荷(やれはす)」です。冬になると、葉柄が腐って折れ曲がり、いびつな漏斗が下を向いたような格好になります。こちらは冬の季語「枯蓮」です。

土曜日は暖かい小春日和でした。のんびりと増位山随願寺へスケッチに行ってきました。日曜日には「大根焚」がおこなわれるようです。紅葉はまだまだ美しく、快晴の空に映えています。

午後、坂井泉水さんの肖像を描きました。彼女の写真はチャレンジングだと思っていましたが、やはりそうだと実感しました。微妙な角度の写真が多いのです。今回は髪で目が隠れているポートレイトを描いてみました。目は肖像のポイントなので、それ抜きでどこまでそれらしく描けるか。雰囲気が出ているといいのですが。

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この絵の中で、ヘッドフォン、彼女の身体、結んでいる髪が作る白い一角が画面やや右下にあります。元になった写真はレコーディングブースで撮影されたもので、彼女の着ているシャツとスタジオの壁の色がよく似ています。そのため、最初、私はこれをシャツの一部だと思って描いていました。

どうも辻褄があいません。さらに、写真そのものが、ストロボを使っていないので粒子が粗く、この辺は三者が重なっていることもあって、いっそうわかりにくくなっています。

色をつけていきながら、突然、「あ、これはシャツの一部ではなく、向こうの壁だ」と気がつきました。そして、人間の思い込みというのはこういうものなんだと教えられた気がしました。そう思いこんで見ているからそうとしか見えない…。いったん壁だとわかると、そうか、そうだったんだとはっきりその部分が見えてきました。

わかってみればなんということもないこと、しかし、わかるまではその視点の転換ができません。明白に目の前に見えている形であっても、です。もし、壁だと最後まで気づかなければ、何かおかしいというフラストレーションがたまる絵になったことでしょう。


□◆□…優嵐歳時記(2381)…□◆□ 

  枯野原北へ真っ直ぐ高速路   優嵐

人目も草も枯れ果てた冬野の景色を季語では「枯野」「枯原」「枯野原」といいます。芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が有名です。高浜虚子にも「遠山に日の当たりたる枯野かな」との名句があります。余韻、余情を感じさせる季語です。

さて、ZARD・坂井泉水さんの月命日、今日はちょっと視点を変えてみます。11月6日の誕生の「日」にyumekyoさんからいただいたコメントで、和泉式部(いずみしきぶ)のことを連想しました。和泉式部は978年ごろの生まれで、紫式部、清少納言らと同時代に活躍し、男女を通じて一、二を争う王朝歌人との評価が高い人です。

小倉百人一首にも「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな」が取り上げられています。歌の意味は<わたし、もう長くはないわ。旅立つ前にもう一度、せめてもう一度、あなたにお逢いしたいわ>というもので、実際に病床にあった彼女が恋人にこの歌を贈ったのです。この歌について、田辺聖子さんは『田辺聖子の小倉百人一首』の中でこう書いています。

「あらざらむ この世のほか」といういいかたが、彼女独得の口吻(くちぶり)である。直訳すると、<自分がいなくなってしまうであろうこの世と、別のところ>---つまり、あの世である。この女(ひと)はまことに不思議な言語感覚と詩心に恵まれた女流歌人で、天才としか言いようがない。王朝期、女流文学者の豊饒な時代にも、ことに和泉式部はきわだったきらめきを放つ美しい星である。

そして、千年の時を越えて登場したもう一人の「いずみ」ですが、私は結構共通点があると思っています。紫式部が小説家、清少納言がエッセイストの原点だとしたら、和泉式部は恋の歌をうたうポピュラーシンガーでしょう。

今日はZARDの23枚目のシングル『My baby Grand〜ぬくもりが欲しくて』(97.12.3)のカップリング曲、『Love is Gone』と、11枚目であり、最後のオリジナルアルバムとなった『君とのDistance』(05.9.7)のラストナンバー、『君と今日のことを一生忘れない』の二曲をとりあげます。


Love is Gone



君と今日の事を一生忘れない



この二曲、冒頭に「だけど」と「でも」という逆説の接続詞が使われています。詞の物語が始まる突端に接続詞、しかも<前の事がらから予想される結果とは逆の結果になることを示す>という、逆説の接続詞を置いています。こんなことは、普通、考えないのではないでしょうか。「あらざらむ この世のほか」です。

難しい言葉はひとことも使われていません。ところが、聴き手が「やられた」と思ってしまう。さらに、『君と今日の事を一生忘れない』では「でも」のあとに、「〜たら?」という仮定の疑問詞がついたフレーズを四つたたみかけるように使っています。目の付け所が違います。常識にとらわれていないのです。


□◆□…優嵐歳時記(2380)…□◆□

  紅葉散りいよいよ空の透けている   優嵐

最近、あまり本を読みたいと思わなくなりました。絵を描いているということもあるのですが、その少し前からその傾向がありました。「活字中毒」といっていいくらい本が好きだったので、こんな風に考えるようになるとは、と驚いています。

本を読むよりも、自分で考えたいと最近は感じます。ショウペンハウエルが『読書について』の中で「読書は他人にものを考えてもらうことである」と述べています。なんとなくこの意味するところが少しわかってきたかもしれない、と思っています。

書物というのは、その著者のものの見方、世界観の反映です。活字になっているからといってそれが「正しい」わけではありません。ひとつの見解にすぎないのです。その見解を参照するのが読書という行為です。参照するのも確かに大事ですが、では、自分はどう考えるのか、です。

自分で考えて気づく、そのことが多分一番面白いし、本当に血肉になるのはそれだけじゃないか、と思うようになりました。また、自分の内側から来るものに耳を傾ける、その時間を持つこともとても大事です。


<波>
この世界の存在のすべては波のようなものだ
海から生まれ海に戻る
津波も小波もともに波であり
同じ海の違う姿にすぎない

波頭の先端にいれば
隣の波とは何の関係もないように思える
けれど
波はすべて同じ海から生れている
たとえ何万キロも離れていようとも

波自身の中には
「自分は波であって海など無い」
と言うものもいる
海はただ笑っているだろう

自分よりはるかに大きなもののことを
完全に理解するすべはない
その片鱗を感じ取るだけ


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□◆□…優嵐歳時記(2379)…□◆□ 

  いさぎよく枯木となりて立ちにけり   優嵐

俳句の季語の「枯木」とは、落葉樹が冬に落葉しつくした姿をさしています。枯れてしまった木ではありません。「裸木(はだかぎ)」とも言います。「冬木」には常緑樹も含まれます。暖かい姫路でもだんだんに落葉が進み、森へ行くたびに空が広くなっています。

散り敷いた落葉を踏む感触、アベマキにはがさごそとした強さがあります。カエデは繊細で、まだ赤さが残っているところにはかなさを感じます。

水曜日は自衛隊と姫路市の担当者の方たちが協同で一斉清掃をされていました。ドライブウェイ沿いにはさまざまな粗大ゴミが投げ捨てられており、PCのディスプレイ、ソファ、棚、ベビーカーなどが積み上げられています。洗濯機まであったのには驚きました。


<落葉>
広場のアベマキがすっかり落葉を終えていた

春いっせいに芽吹き
夏じゅう青々と茂っていた葉は
秋の終りに黄色く色づき
初冬の風の中で地面に舞い降りた

自らが生み出したものを
すべて土に返してアベマキは
木枯しが去ったあとの青空にすがすがしく立っている

必要な時に必要なだけ持って
時期がきたら惜しげもなく手放す
本来土からもらったものであり
土に返すことに何の躊躇がいるだろう

アベマキよ
人間はそれがわからなくて
嘆き苦しみ執着し悩む


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□◆□…優嵐歳時記(2378)…□◆□

  脱ぎ置きしジョギングシューズ散紅葉   優嵐

目が覚めると風の音がしていました。木枯しです。これでかなり木の葉が散るだろうと予想して、増位山へ出かけました。風はありましたが、それほど気温は下がっておらず、午前11時ごろは車の温度計で14度ありました。休日でお天気がよければ外へスケッチに行こうと決めています。

駐車場から境内に向かう道にはコナラやアベマキの落葉が一面に散り敷いていました。さくさくとそれらを踏むのは心地よいものです。ここは静かなお寺で、休日でもハイキングを兼ねた参拝客がときおり訪れる程度で、この静かさが好きです。太陽に背を向けて絵を描いていると、背中がほかほかしてきます。

スケッチの後、梅林を通って山頂まで行きました。梅林の周りの楓のうち、黄色のものはかなり散っていましたが、赤くなる楓の方は、これから本番という雰囲気でした。同じ枝の葉でも緑から赤まで微妙な色の変化があり、なんともいえない美しさです。


<美>
家の前の銀杏が金色に染まり始めた
山では楓のグラデーション

こんなに多くの美しいものが
すべて何の苦労もなく手に入る

この美しさは誰のために
用意されたものなのだろう
人間はこの地上へ最後に登場した

自然は人間がやってくるのを予定していた
そうでなければ楓がこんなに赤く
銀杏の黄色がこれほど輝くはずがない

ようこそ
自然はいつも人間にそう語りかけているのだ

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□◆□…優嵐歳時記(2377)…□◆□

  石蕗の花はや日輪の傾きぬ   優嵐

昨日は二十四節気の小雪でした。立冬の十五日後で、太陽の黄経が240度に達します。姫路ではもちろんまだ雪の気配などはなく、山の紅葉はさかりで、里では銀杏が黄色く色づいています。

随願寺の境内で石蕗(つわ)の花が咲いています。ツワブキは本来海浜の岩場に群生するキク科の植物です。葉の形がフキに似ており、表面が厚くつややかなことから「ツワブキ」との名前がつきました。古くから観賞用として庭に植えられ、葉の間から長く突き出した黄色い花は初冬の庭に華やかさをもたらします。

日曜のアートセラピーのことをもう少し書いてみたいと思います。人はひとりの時にしか成長しない、と私は思っていますが、こうした場でふとしたことからヒントをいただくことはよくあります。ブログを書いていてもそうなのですが、誰かから投げかけられた言葉をきっかけにそこから連想が広がったり、気づきが生れたりします。

夫婦や親子、職場の同僚との関係についての悩みなどもこの振り返りの場でよく出ます。人間関係というもの、特に親子や夫婦という濃厚な関係というのは、善悪、愛憎、悲喜劇が混じり合った、ひとことでは言えない不思議な関係だと思います。いいことだけというような関係はないな、と思うのです。

この世に来ている大きな理由のひとつは、その濃厚な人間関係の中でお互いに鏡となって学びあうことではないか、と思います。そこには被害者も加害者もありません。自分が被害者だと思っているその相手が見せる姿が自分の中にもあると知る、それがその人と親子や夫婦といった関係になった最大の目的ではないかと思うのです。

「縁」という言葉がありますが、これは深い言葉です。誰とどういう関係を結ぶことになるか、は人間には計り知れません。自分でどうこうして何とかなるようなものは、たいした縁ではないように思います。

ぱっと見ていいように見える縁ばかりではなく、この中には、たとえば犯罪者とその被害者のような関係もあります。それもまた、そこでお互いがその経験をする必要があったからそういう形で出会ったという「縁」に結ばれているのではないか、と思います。法然はこれらすべてをあわせて「業縁」と呼んでいます。人間は業縁に縛られてこの世を生きる存在なのです。

自分で理解できたり、なんとかできる因果関係が必然と映るのに対して、縁はただ偶然としかいいようのない因果関係です。人生はこうした偶然によって左右されます。生れてきたことがそもそも業縁としかいいようがありません。さらにそれぞれの人の持つ業縁は異なります。

誰もが何らかの荷物を背負っていますが、それは他人からはうかがいしれないものであり、それを業縁と言ってもいいでしょう。ですから、画一的な生き方、画一的な善悪、道徳、是非などを論じてみても意味がありません。シュタイナーも法則は変わっていくと述べており、すべての人、すべての時にあてはまる法則などないのです。

善悪の判断についてですが、この世で万人が「悪」と認めている戦争というものですら、さまざまな理屈をつければ「よい戦争」になります。また、もし進歩を善い事と考えるなら、それに果たした戦争の役割は非常に大きいと思うのです。人より抜きん出たい、そういう思いがなければ競争も戦争も進歩もありません。そして多分、人類は今も洞窟に住んでいたでしょう。

洞窟に住んでいないということは、人より抜きん出たいという思考を人間が持つことには何らかの必然性があり、縁があったということではないでしょうか。ここでも「いいこと」だけを都合よく取り出すことはできない、ということです。何かが起こったとき、それにいいか悪いかのレッテルを貼り、さらに自分が被害者だと思い込むのは実は一番安易な方法ではないか、と思います。


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□◆□…優嵐歳時記(2376)…□◆□ 

  歓談の店の戸出れば冬の雨   優嵐

月曜日は雨になりそうです。月が暈をかぶっています。アートセラピーに参加するために大阪へ行っていました。その後参加者の方たちと晩ご飯を食べ、店を出たら、ぱらぱらと雨が降り出していました。

いつものように最初にお手玉をやりました。お手玉の重要性を見直してくださいね、と講師の方。単純な子どもの遊びにしか見えないけれど、お手玉をやることによって、自分の意識を全身に巡らせることができるようになります。何か具体的なものを使って自分の状態に目をむけるきっかけとするというのは、アートと同じです。

自分の内側にあることに気づく手がかりとして何か具体的なものを使うというのは、先日からここで書いている断捨離ともつながりがある、と思いました。ものを捨てるという具体的行為、行動によって自分の内側にあるものを見たり、自分の内側の変化を感じることができます。

まず何かを行ってみる、そのフィードバックを受けて考える、それを繰り返せば流れを作ることができます。変わりたいと思っても人がなかなか変われないのは、最初に考えて立ち止まってしまうからです。

アートセラピーで何を目指しているのかということについてまとめの話をききました。自分で意識できている「私」というのは非常に限定されたものです。もっと大きな私というものがあり、それがあるいは「ハイヤーセルフ」と呼ばれたりときには神や仏といった名前で呼ばれることもあります。そういう存在から常にサインやメッセージが来ています。

ところが限定された「私」はそのメッセージをすんなり受け入れることができません。それをブロックしているのが執着、判断、思い込み、経験、是非といったものです。直感を信じることができずにあれこれと考えてしまいます。そのブロックを外すための手段としてアートを使っているのです。

気づき、受け取って、手放し、変化を待つ、もしそれが必要でないならば、そこに向かって行っても手に入りません。それが今、必要か必要でないかをハイヤーセルフは知っており、必要でないものは与えられないからです。人生は学びの過程であり、それぞれで学びの課題も過程も違います。

人を殺すのがなぜいけないかというと、「その人が学ぶべき人生というチャンスを奪うことになるから」です。ハイヤーセルフのサインを受け取れるようになると、学びの過程がよりスムーズに進むということなのでしょう。


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□◆□…優嵐歳時記(2375)…□◆□ 

  池の面に冬の紅葉と空の青   優嵐

暖かく気持ちのよい晴天でした。風がないため、遠くの山や播磨灘は霞んでいました。随願寺の境内へ出かけ、昨年、国の重要文化財に指定された鐘楼を描きました。こういう建物は軒下の木組みの部分が非常に複雑で、すべてを描こうとすると無理が生じます。

家で身の回りの品物を描いている時は、いかに丁寧に詳しく描くかに力点を置いたのですが、屋外の風景を描く時は、いかにそれらしく省略して描くかが大事だと思います。全部描こうとすると、こちらの集中力も尽きてしまいます。


<石蕗の花>
日影に座って鐘楼を描いた
シャープペンで形をとり
ペンでラインを引いた

気がつくと身体が冷えている
立ち上がり伸びをして
ペン入れまで終わったスケッチブックを片づける

ああやっぱりもう冬なんだ
石蕗の花が咲いている


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