優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2010年11月

□◆□…優嵐歳時記(2374)…□◆□

  小春日や海の最も光りおり   優嵐

増位山の頂は北西方向が樹木でさえぎられ、南東方向に見晴らしが開けています。そのため、冬になると季節風がさえぎられ日当たりがよく、ほかほかと心地よい場所です。そこのベンチに座って姫路市街や遠く六甲まで続く山なみ、市川、播磨灘、家島群島、淡路島、行き交う船などを眺めるのは素敵なひとときです。

小春日とは、今頃の春をおもわせるような穏かな日を意味します。「小春」は陰暦十月の異名です。十四世紀に書かれた吉田兼好の『徒然草』に「十月は小春の天気」として早くも登場しており、歴史的には古くからある言葉です。

今日は散歩のコースを少し変え、随願寺境内へ回りました。梅や桜が咲く頃はこちらへ回っていたのですが、夏場は暑くて、森の中ばかりを歩いていたのです。姫路藩主・榊原政邦と正室の墓が並ぶ前の広場の楓が、見事な色合を見せていました。紅葉の色が影の中にまで溶け込んでいるように見えます。

楓の色は赤くなるもの、黄色くなるものとさまざまです。今、森の中で最も鮮やかな黄色はタカノツメです。その色に勝るとも劣らない美しい黄色を見せてくれます。本堂近くまで行くと、スケッチ中のグループに会いました。紅葉の最盛期ですから、描くのも楽しいと思います。


<功徳>
履き古したジョギングシューズに
手を合わせた後
丁寧にゴミ箱に葬った

物品にも魂が宿っている
使い切ってやれば魂は平穏を得る

品物を成仏させる
モノが溢れた社会で生きる人間がおこなえる
ひとつの功徳だと思う


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□◆□…優嵐歳時記(2373)…□◆□ 

  くるまれて赤子冬陽の中に出る   優嵐

姫路は暖かい日が続いています。新しいジョギングシューズで散歩に行きました。新品はいいです。気持ちも新たになります。古いジョギングシューズはお礼を言ってゴミ箱に納まっていただきました。モノというのは、使い尽くせば満足できるものです。

さて、昨日javari.jpが発端になっていろいろ考えましたので、その続きを書きたいと思います。インターネットが導き出す未来のキーワードは「過剰&フリー」だと感じました。デジタル化されそうなものは、すべてデジタル化され、ほとんど人手を介さずに流通するようになるでしょう。

さらにリアルなものさえjavari.jpのようなシステムの下で中間の販売者というものがなくなっていきます。ここで思うのは、では雇用はどうなるのだろうということです。インターネットはあらゆる中間存在を空洞化していきます。

人間がいなくてはできない仕事がどれだけ残るでしょうか。これは、販売だけの話ではなく、あらゆる分野で似たことが進展していくと思います。少し前に『ベーシック・インカム』という本を読みました。この考え方を提唱したのはドイツのドラッグストアチェーンの経営者です。

一言で言えば、雇用が減少し続けるなかで、「消費者」を存続させるために、一定額のお金を国民全員に給付しようというものです。共産主義? と思うような考え方なのですが、これが先進国の経営者から出たアイデアだというのが興味深いところです。

マルクスは資本主義が高度に発達した国から共産主義に移っていくと主張していました。ロシア革命と冷戦という回り道をしたけれど、これはもしかしたら最も的確な予言だったかもしれない、と思います。冷戦が西側の勝利に収束し、共産主義は敗れたと思われていました。

しかし、あれは資本主義を経験していない帝政ロシアで無理矢理にはじめられた変形帝国主義です。旧の東側がどうしようもない管理主義になってしまったのは、モノも情報も不足しており、誰かが持てば誰かが失う状況だったからでしょう。バブルとその崩壊を繰り返す資本主義が問題を抱えているのは明白です。そろそろ異なる社会システムに移行していく機が熟しつつあるのかもしれません。


<奴隷>
賃金労働は現代の奴隷制だといった思想家がいた
自分の時間を切り売りして
その日の生きる糧を得る

奴隷は逃げ出す自由がなかったかもしれないが
現代の賃金労働者の何人に逃げ出す自由があるだろう
奴隷は鞭で打たれたかもしれないが
現代の賃金労働者もノルマや過重労働という鞭で打たれ続けている

社会はかくあるべきだという
ものの見方を少し変えれば
もう奴隷制のもとで生きる必要はなくなるかもしれない

明日が昨日と同じという保証はない
明日が昨日と同じでなければならないという理由もない


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□◆□…優嵐歳時記(2372)…□◆□ 

  一樹立つおのが落葉に囲まれて   優嵐

断捨離の最中なのですが、ジョギングシューズのソールの寿命が尽きてしまい、インターネットで注文しました。javari.jpというAmazonの姉妹サイトでした。翌日に届き、特になんということもなく箱を開けてちょっと驚きました。ジョギングシューズの両方に完璧に紐が通されていたのです。

スポーツシューズの紐を通すのは面倒なものです。これまで片方に紐が通されていることは珍しくありませんでしたが、両方とも完璧に通されているというのは初めてだったように思います。しかし、そんなことで驚いていた私は初心者でした。

このサイトの売りは翌日配達、完全送料無料、30日間返品(送料も)無料という凄いものだったのです。ウェブで検索すると、このサイトについてどれだけ便利かということを解説したブログがいくつかありました。何足注文しても返品は無料ですから、サイズ違い、色違い、メーカー違いなどでどっさり注文し、部屋でいくらでも試し履きができる、というのです。

他のインターネット販売サイトを絶滅させるに十分なサービス、と書いてありました。確かに。しかし、何十足も注文するなんて現実的じゃないし、と思いながら、ふと、これはインターネット販売だけの話ではない、と気がつきました。これは、一般店舗を絶滅させるに十分なサービスです。

何足試し履きしようと無料ということは、つまり、店舗がそのまま家に来てくれることを意味します。しかも、Amazonの姉妹サイトというくらいですから、品揃えはどこよりも豊富です。日本中どこに住んでいようと、大都会なみの品揃えの店が向こうからきてくれるのです。

先日、紙の本はもうすぐ終りだとここで書きました。音楽、書籍といった電子化できるものはすべてインターネットで販売されるようになる、と思うと同時にリアルはだから強いね、と考えていましたが、同じ道を歩んでいるのだとjavari.jpで悟りました。

インターネットがビジネスに結びついたのは常時接続が可能になったからですが、店舗の常時接続が始まろうとしているのです。24時間どこからでも注文でき、返品フリーとはそういうことです。インターネットの販売大手(ここでもグーグル化が進み、二つか三つ程度しか生き残れないでしょう)、実物を運ぶ宅配業者、消費者、それだけで物品販売が成り立ってしまいます。


<想像もつかない>
鉄腕アトムには
アトムが空を飛びながら
固定電話を借りに行く場面があるという

手塚治虫ほどの天才でさえ
携帯電話のすみやかな普及を予測できなかった

未来は想像もつかない形で
曲がり角のすぐ先に待っている

今メディアで騒がれているような未来は
たぶんやってこない
未来はもっと静かにけれど確実に
全く違う顔をしてそこにいる


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□◆□…優嵐歳時記(2371)…□◆□

  冬浅き甍にあたる日差しかな   優嵐

増位山の頂から見る周囲の山々は今が紅葉の盛りです。今週に入ってぐっと色合が豊かになったのを感じます。駐車場近くの広場の楓も鮮やかに紅葉して、特にそこに日が当たると美しく、しばらく足を止めて見入っています。

最近、本を読む時間ががっくり減り、その時間に絵を描いています。いったいどうしたのかと思うほど絵を描くのがおもしろく、これほど絵を描いたのは小中学校の時代以来です。去年、アウトドア活動への興味が薄れてきたと感じたのは、この予兆だったか、と思っています。

何かが終わることは何かが始まることへとつながっていくものであり、やはり何かを手放さないと次のものは手に入らないのだ、と思います。絵を描くことの楽しさは、あるときほんの一瞬ですが、完璧に集中する状態に入れることがある、ということです。


<死は存在しない>
もしあなたが唯物論者であるとしたら
あなたにとってあなた自身の死は存在しない
あなたが死を迎えれば
あなた自身の脳が機能を停止し
あなたの意識が消失して
あなた自身というものも消滅する
消滅したあなたが死を所有することはない

もしあなたがなんらかの死後存続を確信しているなら
あなた自身にとっての死はやはり存在しない
あなたがこの世の死を迎えても
あなたはなんらかの形で存続するのだから
それはあなた自身にとっては
あらたな誕生である

唯物論者であろうと死後存続論者であろうと
どちらにせよ
あなた自身にとっての死というものは存在しない
それならば
なぜ死をこれほど恐れるのだろう


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□◆□…優嵐歳時記(2370)…□◆□

  山道をくだりておれば暮早し   優嵐

晩秋から冬にかけては低山歩きに適した時期ですが、日暮れが早くなるため、昨日のように道に迷うことは危険なことでもあります。山から降りてきたときに「熊が出ることもあるのに」と言われました。

暑い時期は日射病や脱水の危険があります。アウトドアスポーツというのは、常に危険があることを念頭において行動しなければいけません。とはいえ、どこにいても危険でない場所は無い、とも言えると思います。街中と山中とどちらが危険でしょうか。

ひとりでキャンプしたりしていたころ、「よくそんな恐ろしいことができるね」といわれたことがありました。しかし、考え方次第ではないかと思います。備えるから憂いが生れる、ではないですが、「あれも怖い、これも恐ろしい」とばかり言っていては何もできないだろう、とそのころも思っていました。

ひとりでアウトドアで行動することによって与えられたものは、当時の私にとってはとても貴重でした。今も大きな財産になっていると思います。モノはなくなってしまいますが、経験や感動は失われることがありません。


<蝶>
蝶が蝶になるためには
蛹であることをやめなければならない
蛹になるためには
まず幼虫であることをやめなければならない

現状のままであることは
心地よい安心感なのだが
そのままでは先に進めない

蛹になって蝶になれる保証はない
蛹のまま羽化できないものもあれば
羽化の途中で止まってしまうものもある

それでも蛹にならなければならない
羽化しなければならない
幼虫のままでいることはできない
はばたくために生れた
それが蝶なのだから


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□◆□…優嵐歳時記(2369)…□◆□

  銀山跡いよいよ赤く冬紅葉   優嵐

兵庫県中部にある白岩山(973m)へ行ってきました。播磨の最北部にあり、すぐ隣が生野です。林道の端に車を止めて東コースを登ります。林道工事中とのことで、柵が設けられていましたが、そこを抜けて20分ばかり行くと、登山口に着きました。

そこから檜の植林帯をジグザグに登って行きます。途中白いプラスティックの筒の残骸が転がっていました。広葉樹を植林し、その幼木を鹿の食害から守るためのものだったようです。しかし、広葉樹が育っている気配はなく、ススキの類が生い茂っていました。

このあたりの山はほぼ全面的に杉や檜の植林で覆われています。前に見える山も尾根筋にほんのわずかに残る広葉樹が色づき、針葉樹の中を細いベルトのように結んでいました。やがて尾根道へ出てしばらく登ると、岩がいくつもある山頂に着きます。これが山名の由来です。

この日も曇りなのか黄砂なのかはっきりしないぼんやりとしたお天気でした。山頂は、晴れて見通しが利く日なら瀬戸内海まで見えることもあるそうですが、前の山すら霞がかかったような感じで、眺望は望めませんでした。

下山は西コースを辿るつもりで、目印のテープを見ながら歩いていきました。ところが、このテープの指示が隣の高畑山への縦走路だったらしく、稜線を歩いてピークに達し、その後檜の植林帯の急坂を下った先で、生野銀山の鉱山跡の一角へ出ることになりました。

播磨から境界を越えて但馬側に来てしまったわけです。道に迷ったことは確かだったのですが、谷を埋めた採鉱屑の山、その上にできている池、山腹に作られた古いコンクリート製の水路などを見ることができ、驚きでした。

生野銀山は1973年に閉山し、現在は史跡となって一部公開されています。日本最初の産業道路といわれる「銀の馬車道」が姫路の飾磨港からここまでつけられ、それが現在のJR播但線のもとになっています。それだけの威力を持った鉱山だったのであり、その往時の繁栄ぶりを偲ぶことができました。

ここは現在、三菱マテリアルの管轄地であり、生野側から登山することはできません。偶然ここに入り込んだためにこれらの遺構を見ることができました。何が幸いするかわかりません。


<風に吹かれて>
遺跡、遺構というものの前に佇む時
心を不思議な風が吹きぬける

かつてそこに多くの人が集い
あるいは生活を営み
あるいは労働に勤しんだ

それらのエネルギーの残滓が
朽ちた建物や
崩れ落ちたコンクリート
礎石の穴などとして残っている

そこから吹いてくる風
栄華、栄光、夢、幻
それは散る紅葉のような


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□◆□…優嵐歳時記(2368)…□◆□

  帰り来て熱きコーヒー冬はじめ   優嵐

曇っているのか黄砂なのか判然としないお天気でした。風は無く日差しも無く寒くもなく暖かくもなくという中で、スケッチに出かけました。市川の堤防横にあるソメイヨシノがすっかり葉を落としています。その枝ぶりが面白く感じられ、それを描いてみることにしました。

木は種類によって枝の張り方に特徴があります。落葉樹の場合、葉を落としてしまうとそれがはっきりわかりますから、これからのシーズンは裸木を描くのにいいかもしれません。ソメイヨシノの枝は根元近くからすぐにいくつかに分かれて横に大きく張り出しています。花の時期にこんもりとした感じになるのはそれゆえです。

ソメイヨシノは最も早く葉を落としてしまう木のひとつで、近くにあるイチョウはまだ黄葉さえしていません。このあたりのイチョウが裸になるのは十二月になってからです。その前に鮮やかな金色の黄葉を楽しめます。


<手放す>
子どものころ校庭にあった雲梯で遊んだ
両手で横棒を握り
ぶら下がりながら前に進む

前に進むためには後になった手を離し
反動をつけて
前のバーに手を伸ばさなければならない
いったん手放さなければ前には進めない

人生に必要なことは
すべて小学校の校庭で学んだ
そう言えないか


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□◆□…優嵐歳時記(2367)…□◆□ 

  初冬(はつふゆ)の播州平野に黄沙来る   優嵐

朝の雨があがったあと、黄砂がやってきました。霞にしては霞みすぎているし、霧というには薄いと思っていたら、黄砂とのこと。もともと春の季語になっており「黄沙」「つちふる」「よなぐもり」などといくつかの季語があります。中国内陸部の砂漠の気候変動でこういうことになっているようです。そのうち「冬黄沙」という新しい季語が生れるかもしれません。

万年筆とクーピーペンシルによるスケッチは続いており、しばらく小さくなっていた右手中指のペンだこが成長してきました。描く対象はほとんど日用品や食品ばかりなのですが、描くといろいろな発見があって面白いものです。よく見ればこんなに興味深いものかと感心します。

絵というと特別な場所に行ったり、美しい人をモデルにしたりしないと描けないように思いがちですが、そうではないと気がつきました。どんなものでも絵の題材になりえるし、「美しい」のです。これが一番の発見でした。そう思ったとき、メーテルリンクの『青い鳥』のお話を思い出しました。

幸せとか秘伝とか何でもいいですが、人はどこか遠い場所にそれがある、と思いがちなのです。しかし、本当は目の前にあり、自分がそれをどう見るかだけなんですよね。洗濯ハンガーにも食パンにも「美」はあります。

姫路に生まれ育った人間は、他のところで「城」というものを見るまで、姫路城がどんなに凄い建物か気がつきません。日常生活でたびたび見ているため、あたりまえになってしまっていて、感性が鈍っているのです。それと同じことが身近なものの美にもいえるのかもしれない、と思いました。


<鍵>
幸せを発見するのに
遠い国や最果ての島へ出かけていく必要は無い
秘法はあなたの内にあり
発見されるのを待っている

人間をつくるとき神さまは
宝物を発見するのが簡単すぎては
人間が退屈するだろうと考えた

だから一番見つけにくい場所にそっと隠した
それが人間自身の内側
人間の目は外側に向いていて
外界を見るのに忙しい

ここではないどこかの場所
今ではなくこの先のいつか
取るに足りない自分ではなく特別な誰か
それらが幸せの鍵だと思い込んでいる

違うね
今・ここ・自分自身
それが幸せの鍵だ


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□◆□…優嵐歳時記(2366)…□◆□

  冬めきて犬と遊べる人丘に  優嵐

残暑が長く厳しかった今年ですが、冬の訪れは順調なようです。「冬めく」とは周囲の様子が冬らしくなることをいいます。何を冬らしいと感じるかはそれぞれですが、秋とは違う、確かにもう冬なんだ、長く寒い季節が始まったのだという実感を詠みます。

水曜日は穏かな晴天で暖かでした。増位山の頂から見える周囲の山にはゆったりと霞がかかり、淡路島もかすんでいました。青々としていたひつじ田は枯れの色を見せ始めています。のんびり座っていると鳶がピーヒョローと鳴いて飛んでいきました。日差しがほこほこと暖かいと感じるところが、もう冬ですね。


<真実>
この世に「唯一の真実」というものは無い
それぞれのものの見方があるだけ

それぞれの人はそれぞれの見方に従って
それぞれの物語を生きている

だからあなたの「真実」はあなただけのものであり
隣の人とは違う

あなたの「真実」を隣の人に押し付けようとするから
争いが起こる

あなたに「真実」があるように
その人にもその人だけの「真実」がある


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□◆□…優嵐歳時記(2365)…□◆□

  冬の薔薇淡き光をそのままに   優嵐

断捨離の一環として、メールの整理もしています。インターネットで買物をするとその店からメールマガジンが送られてくるようになります。Amazonや楽天といったところは、そこからさらに関係のありそうな情報を入れたメルマガを大量に送ってきます。

一日メールボックスを開けるのを忘れていると、どっとメルマガがあふれ出します。それに埋もれて必要な情報を読み落としたこともありました。スパムメールはソフトによって大半が事前にはねられてしまいますが、こういう正規の店からのメールというのは、こちらで対処するしかありません。

モノでも情報でもそうですが、量が多くなりすぎると少ないよりも対処に困ると感じます。たいていのものがいまや足りないよりもあり過ぎるのです。この数十年というのは、人類史上初めてモノや情報が不足から過剰へと転換した時代だったのではないでしょうか。

栄養も情報も物品もすべて「不足する、欠乏する」という前提に備えながら私たちは生き残ってきました。だから流れが逆転して、まだそれに対処できず右往左往しているのではないか、と思います。

足りない時代なら「仕方がないから我慢する」という生き方があったのですが、今では「過剰な中から自分で考え選択し、自己コントロールしなければ溺れる」という時代になっています。


<備えあれば>
「備えあれば憂いなし」という諺がある
「備えよ常に」はボーイスカウトだったか

人類は常に備えてきた
ところが
いまや「備えるから憂いがくる」という時代だ

がん、認知症、脳卒中、エイズ、
地震、火事、交通事故、詐欺、通り魔…
あらゆる恐れがメディアに溢れ
「買え、買え、買え」の大合唱

十種類以上の保険に入っている同僚がいた
あらゆることに備えて
大きくなるのは憂いばかり

備えるばかりの人生っていうのも
どうなのだろう


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