優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2011年01月

□◆□…優嵐歳時記(2446)…□◆□

  枝の影踏んで山路の寒さかな   優嵐

日曜はぐっと冷え込みました。日中でも最高気温は3度でした。光が明るいので年末のころほど心理的な寒さがないのですが、気温そのものはあのころより下がっていたのではないか、と思います。立春前の最後の寒さでしょう。

随願寺ではご近所の方が集まって追儺会の準備をされていました。その日は境内で護摩が焚かれ、いつもは静かな境内が大勢の人でごったがえします。一度来たことがありますが、人ごみが苦手なので、早々に頂へ行きました。


<蜘蛛の糸>
小学校の国語の時間に
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の感想を発表するという授業があった
クラスのほとんどが
カンダタは馬鹿だと述べた
「カンダタは蜘蛛の糸を独り占めせずみんなと分け合うべきでした」
そういうのだ

あほらしいと思った
そしてお釈迦さまに腹がたった
自分は極楽に身をおいて地獄で苦しむ人間を試すとは
許しがたい
ずっとそう思ってきた

今は少し見方が違う
『蜘蛛の糸』は「みんなで仲良く分け合いましょう」などという
道徳話ではないかもしれない

蜘蛛の糸は天からそれぞれの人に差し出された
導きの糸なのではないか
私たちは一人残らず地獄にいる
死んで地獄へいったりはしない
私たちは地獄の血の池の中に生を享ける

そこへするすると降りてくるのが蜘蛛の糸
信じて登っていきなさい
そう内側から呼びかける声を聴くことができず
人は不安にかられて叫んでしまう
蜘蛛の糸を切るのは私たち自身なのだ

それぞれの蜘蛛の糸を見出しそれを信じて登る
それだけが人を地獄から救う


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□◆□…優嵐歳時記(2445)…□◆□

   眠る山川も眠りて流れおり   優嵐

冬の山のことを季語で「眠る山」とも言います。落葉しつくした山が静かに眠っているように見える、と山を擬人化しています。雪山など雪の布団にくるまってぐっすり熟睡中といえます。今は川も水量が減り、流れがおとなしく、こちらも眠っているようです。

気温の低い日が続いています。土曜日は少し風もありました。山頂に立つと眼下に広がる播州平野は見事なまでの枯れ色です。散歩をしながら句が浮かんだり、詩の断片が浮かんだりします。それらはケータイにメモしておきます。浮かんだときに尻尾をつかまえておかないと、どこかへ行ってしまいます。

土曜日は、絵のことでふと思いついたことがあり、家に戻ってやってみました。それをデジカメで撮影していて----ブログの絵はデジカメで撮影し、フォトショップで明るくした後、アップしています---あることに気がつきました。

アナログの絵をデジタル化してアップするには、スキャナを使う方法とデジカメで撮影する方法、大きく分けて二つあるようです。ただし、スキャナの場合は絵のサイズがA4以下でないとスキャンできません。そんなわけで、デジカメを使っています。

デジカメの問題点は四隅が暗くなりがちということです。レンズが丸いせいでしょう。いろいろ光を加減したりしましたが、あまりうまくいきません。思いついたことというのは、「絵を中央に小さめに写して周辺部をトリミングすれば、四隅が暗くなるのを避けられる」ということでした。

絵をきちんと撮影したいと思い、今までは画面いっぱいに絵を写していました。しかし考えてみれば、アップする画像は元の絵より随分小さいものです。少しくらい画質が落ちたところで何の問題もありません。常に明るく写る中心部に絵をもってきて、周辺部はフォトショップでトリミングすればいい、と気づいたのです。押してだめなら引いてみよ、ですね。


<必然>
この世に偶然は無い
近頃ますますそう思うようになった

何かが起きたとき
特に喜ばしくないことが起きたとき
人はこう問いがちだ
「なぜ私がこんな目にあわなければならないのか」

これでは袋小路の堂々巡り
質問を変えたほうがいい
「この出来事は私に何を教えようとしているのか」
「私はこのことから何が学べるのか」


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□◆□…優嵐歳時記(2444)…□◆□ 

  播磨灘沖に来ている明日の春   優嵐

「明日の春」は「春近し」などと同様、春が間近だという思いをあらわす季語です。増位山の頂に立つと、北播磨から淡路まで一望することができます。北の空には雪雲が出て、北部は雪が降っているようでした。その一方で、播磨灘にさす光は春の兆しが日ごとに濃くなり、冬と春の真ん中に座っている気分でした。

境内の梅林はまだ咲いていませんが、ゆっくり歩いているとジョウビタキがやってきました。中国西部からウスリー、サハリンで繁殖し、日本には冬鳥として飛来します。雄はシルバーグレイの頭、オレンジ色のお腹、黒い羽で背中に白い斑があり、よく目だちます。

尾をふってはヒッ、ヒッと短く鳴きながら梅の枝を飛び移ります。私から半径5〜10mくらいの円状をぐるっと一回りしました。しげしげと彼がこちらを見ていることもあり、楽しいひとときでした。


<汀にて>
苦しみや悲しみの中にいるとき
そこから逃れようとしてはならない
苦しみの最中にあって苦しみを見つめ
悲しみの最中にあって悲しみを見つめる

喜びや楽しみの中にいるとき
それにしがみつこうとしてはならない
喜びの最中にあって喜びを見つめ
楽しみの最中にあって楽しみを見つめる

それらはみな同じ波
寄せては還す波
やってきては去っていく

汀に座って
波が打ち返すさまを
静かに眺めていよう


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□◆□…優嵐歳時記(2443)…□◆□

  雲ひとつ枯山に影を置きにくる   優嵐

お昼過ぎに雪が舞いました。長くは降らず、すぐに日差しが戻ってきました。午後五時をすぎても随分明るく、日が長くなったと感じます。坂井泉水さんの肖像画、第八作を描きました。人の顔を描くのはやはり独得の面白さがあります。彼女の場合、写真がユニークであるため、特にそう思います。


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この絵のもとになったのは、33枚目のシングル『promised you』(00.11.15)のジャケット撮影時に撮影されたと思われる写真です。彼女の右サイドから差し込む光が明るく、瞳まで反射しているのがよくわかりました。

万年筆とクーピーペンシルとクレオロールを使って描きますが、どこをどの程度まで何を使って描くかで絵の雰囲気が変わります。そういうことの確認もし、描くたびに「そうか、次はこうしようかな」という発見があります。それも楽しいものです。


<揺れる>
梅林のベンチにすわって
まわりにある竹林をながめていた
ゆるやかな風が竹を揺らし
竹の葉を揺らし竹にさす陽を揺らす

規則的であるようで規則的ではなく
竹も竹の葉も陽の光も
同じようでありながら
同じではない動きの中をたゆたっている

□◆□…優嵐歳時記(2442)…□◆□

  指さして山の名を呼ぶ春隣   優嵐

山頂でお会いした方から「高御位(たかみくら)はどこでしょうか」とたずねられました。高御位山は標高304m、加古川、姫路、高砂の三つの市の境界線付近にある山です。岩尾根で、毎日登山を楽しまれる方もあり、そこからは明石海峡大橋を間近に望むことができます。

晴天でしたが、昼間の気温はあまりあがりませんでした。それでも光が明るく、刻々と近づく春を感じることができます。この感覚をあらわしたのが「春隣(はるとなり)」という季語です。

坂井泉水さんの月命日です。今日はZARDの41枚目のシングルとして『悲しいほど貴方が好き』と両A面で発売された『カラッといこう!』(06.3.8)を取り上げます。昨日、『DIAMONDS』だったから、というわけでもないんですが、この歌詞の中では、ダイヤモンドのカラットと表題の「カラッと」が掛け合わされています。

カラッといこう!



生前のシングルとしては最後から二番目のものであり、歌詞が初期のころとはかなり変わってきていることに気がつきます。言葉が重層的で謎めいているとでも言えばいいでしょうか。歌詞全体から単なるラブソングというよりも、聴き手への応援のメッセージソングともとれ、聴き手によっていかようにも解釈可能といえます。

「キミ」が登場するのは相変わらずですが、この「キミ」は果たして誰なのか、とも思います。ラブソングとしての恋人なのか、聴き手なのか、それとももっと違う誰かなのか…。両A面の一方の『悲しいほど貴方が好き』が文字通り切ない歌なのに対し、こちらは曲調ががらっと変わった明るさです。しかし、単純に明るく楽しいというだけのものでもありません。

私が最も印象深かったのはこのフレーズです。

終わったわけじゃないヨ
まだ始まってもいないんだから
幻想はいつまで続く?
目の前の現実(いつわり)に目を伏せた

どこか哲学的な内容だと思われませんか?


□◆□…優嵐歳時記(2441)…□◆□ 

  見はるかす沖は明るし冬の梅   優嵐

梅が咲き始めました。日当たりの良い南斜面、梅の高さからは海が見えます。沖を望んで咲いている梅です。

先日、YouTubeで別の曲を検索しているうちに、プリンセス・プリンセスの『DIAMONDS』にあたり、聴いてみたら、そのときからアタマの中でこの楽曲がとまらなくなってしまいました。切ないバラードなんていうのもいいけれど、ノリがいいのはこういう曲ですね、私の場合。





名曲は色褪せない、と視聴者の方のコメントがありました。確かに。生理に訴えますこういうリズム。そういえば、二年前の今頃、肉離れを起こして部屋から動けず、たまたま聴いたYouTubeでZARDに出会い、すっかりはまってしまったのでした…。

懐かしい楽曲がアップしてあるところには、ほとんどの場合「こういう歌がいい。それに比べて今の曲はウンヌン」というコメントがついています。でも、考えてみればいい曲だから今まで残っているんですよね。

ポピュラーソングは発売されたときに、まず売れるか売れないかに分かれます。その次は時の試練を経て、残るか消えるか。ヒットチャートの上位にあったと言われても、もうほぼ忘れられている曲もあるでしょう。売るためのキワモノのような楽曲だってありますし。

一方、大勢のアーティストにカバーされたり、いろいろな場面で演奏されたりして残っていく歌もあります。これが名曲です。『DIAMONDS』の発売は1989年、今から22年前です。2010年に売れたJ-POPの果たして何曲が2032年にも記憶に残っているでしょうか。


<Q>
となりの人と同じ事をしたいと思うのは
巧妙に仕掛けられた罠
となりの人がAということをしていたら
あなたはもうAをする必要はない

世界は多様性を求めている
あなたはBでもCでもZでも
何か違うことをしていい

世界がAばかりなら文章は綴れない
Qを求めよ

□◆□…優嵐歳時記(2440)…□◆□ 

  頂に吹く風たおやか春近し   優嵐

増位山の山頂は東南に向かって開いているため、冬は季節風があたらず陽だまりとなって暖かな場所です。そこにある西行と在原業平の大理石製の歌碑に座って周りを眺めるのが好きです。昨日の山頂では、時おりやわらかな風が感じられました。それはもう冬の北風ではなく、間違いなく春の香りがします。菅原道真が「東風(こち)吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」と詠んだ風とは、こういう風だったのか、と思ったりしました。

最近、ケン・ウィルバーの著作を続けて読んでいます。自分が十代のころから抱いてきた疑問に対するひとつの考え方が記されていて、興味深いのです。特に彼が示している「私・私たち・それ・それら」(統合心理学への道)、というこの世界を構成する四つの象限の考え方は大変興味深く、納得できるものです。

世界はそのままに昔からあるのですが、それをどうとらえるかによって見え方やあり方がこんなに変わるものか、と驚きます。しばらく本は読まないだろうと思っていた矢先にケン・ウィルバーに出会い、ちょっとなかなか、これは…と思いながら読み進めているところです。


<具象絵画>
写真の発明で具象絵画には意味がなくなったという人がいる
写真のように描く技術には意味がなくなったと

それは半分正しく半分間違っている
具象絵画が示すのは描かれている「何か」ではない
描いている人自身だ

描いている人のものの見方
描いている人の感じ方
それらはすべて異なっている

誰かの「よう」に描くことが無意味なのは
それがあなた自身を示していないから


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□◆□…優嵐歳時記(2439)…□◆□

  やわらかき色を置きたり寒卵   優嵐

寒中に鶏が産んだ卵を「寒卵」といいます。この時期は鶏の産卵期にあたり、特に滋養に富んでいます。今ではスーパーで年中変わらず買えることからこの季語にいまひとつぴんとこないままでしたが、たまたま卵を入れてスケッチしていて、この言葉が浮かんできました。窓からの光をあびた卵殻の肌合いは卵しか持ち得ない形と質感です。

絵をまた描くようになってよかったな、と思うのは、身の回りにあるものをよく見るようになったことです。じっくり見ればいろいろなことに気がつきます。美しいものを発見するのにどこか特別なところへ出かけていく必要なんて無く、自分のものの見方を変えればいいのです。


<努力>
努力するのをやめることにした

こうしなさい
こうすべきです
こうしないとこまりますよ

こうしたほうがいいですよ
こうしたほうがとくですよ
こうしたらいいことがあります

こうしたら…

やめよう
いやなこと
好きじゃないこと
それを無理に飲み込む努力なんか
する必要はない


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□◆□…優嵐歳時記(2438)…□◆□

  みなどこか折れて曲がりて葱太し  優嵐

ネギはユリ科の多年生野菜です。原産地は中国あるいはシベリア・アルタイ地方といわれ、古くから栽培されてきました。日本では、『日本書紀』にすでに記録があるといいます。葉鞘の白い部分を食べる「根深葱(白ねぎ)」と緑色の部分を食べる「葉葱(青ねぎ)」があります。

近所を散歩していると、時々葱畑に会います。きれいに整えられ、包装されて並んでいるスーパーの葱とは一味違う”生きた葱”の姿、生命力に溢れていていいものです。


<寒の梅>
「こっち」という声がした
ふと視線を向けると
紅梅が三分咲き

ドライブウェイを上がってくるときは
雪が残っていないか気になって
全く気づかなかった

山上の梅林は雪が残り
蕾が膨らんでいるものの
開花しているものはまだなかった

そうだよね、寒かったもんね
そう思いながら下ってきたら
途中でこの声

咲いてるんだよ
もうすぐ春だよ


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□◆□…優嵐歳時記(2437)…□◆□ 

  寒晴れや色鉛筆をペン立てに   優嵐

寒中の晴天を「寒晴れ」といいます。瀬戸内沿岸では寒中はほとんど晴れの日が続きます。大寒が過ぎ、晴れた日中に戸外へ出ていると、日差しにはもう早い春の気配を感じます。明らかに十二月半ばころとは日光の力が違います。俳句の魅力はいろいろありますが、近づいて来る季節の兆しを掬い取るというのは、中でも大きいものです。

今日も河原へ散歩にいきました。ぶらぶらとあちこちを見ながら歩いていきます。少しずつ新しい場所へも足を伸ばし、新しい発見もあります。近所とはいえ、歩いて見なければ出会えない場所、出会えないものというのはいろいろあるものです。


<相似形>
足元に落ちているのを見て一瞬
木彫りの薔薇かと思った

拾い上げてみると
それはヒマラヤ杉の松かさだった

杉と呼ばれながら
ヒマラヤ杉は松の仲間
とある施設の一角に
小さな森となって育っている

知らない人に
薔薇の彫刻だと言って渡したら
信用されるだろう

ヒマラヤ杉が
薔薇を知っているはずはないのに


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