優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2011年06月

□◆□…優嵐歳時記(2596)…□◆□ 

  青空の濃くあり枇杷の実熟れている   優嵐

今日も増位山の枇杷の実をいただきました。もぎとって食べるという行為そのものが楽しいですね。蛇ヶ池のハナショウブはそろそろ終盤です。今は枇杷の木のまわりに萱草が咲いています。ユリ科の多年草で、濃い橙色のユリに似た花です。いかにも暑くなる時期にふさわしい色合です。

36℃を示す温度計と湧き上がる入道雲を見ていると、もう梅雨は明けていると考えた方がよさそうです。早朝が最もすごしやすく、日中は風がよく通るところにいれば快適です。例年なら梅雨の最盛期なのですが…。

IMG_1251<暗闇>
どれほど恐ろしく思える状況でも
それ自体が問題なのではない
恐ろしくしているのは自分自身の反応なのだ

子どもの頃
暗闇が怖くてどうしようもなかった
暗闇が問題なのではない
恐ろしいと思う自分の心が問題だったのだ

自分がどこにいるかよく見よう
自分の状況を意識できれば
暗闇に光を灯すことができる




□◆□…優嵐歳時記(2595)…□◆□

  夏草の刈られし後の香の中に   優嵐

梅雨は明けたのではないかと思うようなお天気が続いています。火曜日の日中も35℃まで気温があがりました。木陰は風が通って涼しく、梅林の東屋でゆっくり周囲の竹林が風に揺れているのを見ていました。梅雨の間に通路まで草の丈が高くなっていましたが、この週末に草刈をされ、すっきりしていました。

そこに足を踏み入れると、刈られた草の香りが漂い、不思議なリフレッシュ感がありました。夏の草は生長のエネルギーが充溢しているため、草の香も高くなるのだそうです。放生池でカワセミにまた会いました。飛び立つ一瞬の光が他のどの野鳥とも違っているので、すぐにわかります。

池の面は今ほとんどが菱と河骨に覆い尽くされています。冬には全く何もありませんでしたから、春から夏にかけてのこの繁茂は驚きです。境内のボダイジュにアオスジアゲハが来ていました。黄色い花に青いストライプが映えています。

IMG_1254<枇杷の実>
池のほとりの枇杷の実が
黄色く色づいてきた

好きなように採っていいらしい
熟れた実をもいで
皮を剥いた

冬に咲いていた
白い小さな花を思い出す

赤や黄色が食欲を刺激するのは
果物の熟れた色だからだ

大丈夫
美味しいよ
甘いよ
私を食べていいよ


□◆□…優嵐歳時記(2594)…□◆□ 

  夏嵐燕くるりと腹見せて   優嵐

台風の影響なのか風の強い日が続いています。高温多湿であっても風が吹くと涼しいと感じられます。薫風、青嵐、南風などすべて「夏の風」の季語です。これが強くなると「夏嵐」と言います。緑が最も勢いよく茂る時期であり、それらが強い風にあおられて揺れ動く様子は躍動的で爽快です。

坂井泉水さんの肖像画第18作です。線描に油性マーカーを使っています。この肖像画は少し時間をかけ、いろいろ考えながら描きました。どのように描くかということと同時に何で描くかも考えました。ミクストメディアで描いていますので、画材をどのように使うかは使いながら考えていくという感じです。元になった写真は93年4月に世田谷で撮影されています。


IMG_1227
シナベニヤ(450×310mm)、アサヒペン水性多用途つや消し白、万年筆&プラチナ顔料ブラック・顔料ブランセピア、TAJIMA油性ペイントマーカー、サクラクレパス

髪が水性顔料インクの万年筆、肌とセーターはクレパス、線描は油性マーカーという組み合わせで、まだ画材の使い方には考慮の余地があります。油性と水性の画材を同じ画面で使うには画材同士の反応も考えなければならないと実感しています。単独の画材、たとえば鉛筆は鉛筆だけ、透明水彩は透明水彩だけ、油彩は油彩だけで描くなら、その画材の特徴をつかめば描けます。

そういう描き方をすればよかったのでしょうが、いつでも中断し再開できるシンプルな画材で描きたい、しかし、色彩も描いてみたいという都合のいい願いを持ったため、こういうことになりました。今も紙とキャンバスと地塗りボードの微妙なところで試行錯誤しています。

彩色にはクレパスやクレヨンといったオイルパステルを使いたい。線描を最も描きやすいのは紙です。しかし、紙はオイルパステルには不向きです。修正が効きません。キャンバスは中間でいいのですが、張りキャンバスは下が柔らかすぎ、さらに嵩も高く収納に問題が出ます。値段も高い。キャンバスボードでもいいのですが、こちらも値段が高く、大きさにもさまざまな制限があります。

一番自由に画面の大きさを設定でき、値段が手ごろで彩色の修正も都合がいいのが、アクリル樹脂塗料を地塗りしたボードです。しかし、これについては線描で試行錯誤の段階です。顔料インクの筆ペン、水性顔料マーカー、油性マーカーこれらを全部試し、水性顔料インクはアクリル樹脂塗料の上では摩擦に弱く、定着しにくいことがわかりました。下描きを消す時に問題が出るのです。この絵の髪は顔料インクですが、このあと定着剤をかけて固定してしまうので、問題にはなりません。

油性マーカーは製品により、インクが弾かれて描けないものがあります。さらにくっきり描けたものであっても、今度は彩色の段階でオイルパステルのオイルと反応して色が溶け出してくることがあるのです。現在水性塗料地塗りボードへの線描の最終候補として残っているのは、同じ水性アクリル塗料のペンキです。これを筆で線描する。次の肖像画はそれでいくつもりです。


□◆□…優嵐歳時記(2593)…□◆□  

  雲の峰四方八方立ち上がる  優嵐

雲の峰とは、夏空に湧く積乱雲を意味します。日差しを受けて白く輝き、その偉容を「雲の峰」と呼んだ先人のセンスに脱帽です。土曜日は急激に気温があがり、播磨灘の上にも中国山地の山なみの上にも入道雲が湧き上がっていました。

坂井泉水さんの月命日です。今日はZARDの三枚目のシングル『もう探さない』(91.11.6)のカップリング曲『こんなに愛しても』を取り上げます。三枚目のオリジナルアルバム『HOLD ME』(92.9.2)にも収録されていますが、アルバムタイトルの「HOLD ME」はこの曲のワンフレーズから取られたのではないか、と思います。

こんなに愛しても



歌詞を聴いて、「はー」という気分になりました。内容は、彼女が彼の部屋に来ているのだけれど、真夜中になっても彼は帰ってきません。すでに彼の気持ちは離れていて新しい恋人のもとへ行っているようです。それをわかっていながら彼のことを思い切ることができない彼女の独白…。聴いているとつらくなりますね。

さっさと関係を清算して、次のステップに進んだ方がいいよ、と言ってあげたくなりますが、人間はそういうことがなかなかできないから人間なのでしょう。弱く迷い、愚かで滑稽、それが人間の姿なのだ、としみじみ思います。ここで切ない心をかかえてつぶやいている彼女だけが弱いわけではなく、正面きって彼女に向かうことが出来ない彼もまた弱い人間なのです。

そういう弱い人間同士が傷つけたり傷つけられたりしながら生きている、それがこの世界です。ZARDの楽曲のうち、『負けないで』でブレイクする以前のものは、特にこういうもどかしい切ない世界を歌ったものが多く、友人はこれらの楽曲を聴いて「この人はよっぽどつらい恋愛をしてきたのかと思った」と言いました。

もちろん、彼女自身の体験かどうかはわかりません。体験していなくても描けるのがプロです。小説だろうと歌だろうと、体験の有無にかかわらず、むしろ体験を超えた普遍的な何ものかを掴み取って人々の前に提示できる、それが優れたクリエイターだろうと思います。その点で彼女は群を抜く才能を持っていたことは間違いありません。


□◆□…優嵐歳時記(2592)…□◆□

  大南風(おおみなみ)過ぎゆく森は音たてて   優嵐

梅雨明けを思わせるような一日でした。朝から快晴でぐんぐん気温があがり、日中の気温は35℃になりました。空には入道雲が盛り上がっています。梅雨入りが早かったため、すでに梅雨に入って一ヶ月です。このまま梅雨明けになる可能性もあるとしたら、長い真夏になりそうです。

IMG_1222IMG_1224随願寺の境内の観音堂と地蔵堂の間にある木が花をつけていました。TAK.ECHOさん、この木はなんでしょう? 葉も撮影しました。→
シナノキ科ボダイジュでした。ありがとうございます。

ホームセンターでファルカタ集成材という軽い合板を買いました。6mm厚さで、250×600mmのものが300円ほどです。三等分すればB5程度の大きさの板が三枚とれます。これをシナベニヤやMDFボードと同様に使えるかもしれない、と思っています。何枚かクレパスで絵を描き、クレパスには紙より水性ペンキで地塗りした板の方があっていると実感し、もっと小さいサイズでも試してみようと考えたわけです。

<真夏>
頂で周囲の入道雲を見ながら
ある音を探している自分に気がついた
蝉の声

日本の真夏に欠かせないもの
視覚には入道雲
聴覚には蝉の声

このふたつがそろって登場する時
そこに間違いなく
日本の夏がある

□◆□…優嵐歳時記(2591)…□◆□ 

  深海の色を湛えて額の花   優嵐

夏至を境に急に暑くなった気がします。金曜日は快晴で真昼の外気温は34℃を示していました。六月でこの暑さとは。このまま猛暑に突入ということはないとは思いますが、昨年のことを考えると「常識」が通用しないような気温変化が起こってもおかしくありません。

森の散歩はそれでも快適です。梅林のかたわらでガクアジサイが咲いています。「額の花」とは、ガクアジサイを意味します。つい先日まで卯の花が咲いていたその隣にガクアジサイの藍色のグラデーションが並んでいます。この色の涼しそうなこと。

境内の花壇にはいろいろな花が植えられています。今こちらではアジサイが咲いています。おなじみのオーソドックスなアジサイの他に装飾花の花びらがぎざぎざのもの、真っ白のもの、ガクアジサイの変化種と見られるものなどいろいろなものがあります。今日は暑くてアジサイもぐったりしているように見えました。

IMG_1205<血液循環>
南北の窓を開け放つと
陽が昇るにしたがって
海からの風が強くなる

内陸部が強い日差しで熱せられ
上昇気流が起こる
それにともなって
海から陸に空気が吸い込まれていく

上昇気流は
高く発達する入道雲を育てる
風は地球の血液循環



□◆□…優嵐歳時記(2590)…□◆□

  緑陰の風と光を歩く午後   優嵐

木曜日はよく晴れて気持ちのいいお天気になりました。日差しの強さが感じられ、梅雨があければ即真夏です。「緑陰」とは、夏の緑の木陰のことです。「木下闇」という季語もあります。こちらが鬱蒼として湿気を感じる言葉だとしたら、「緑陰」は明るくからっとした印象があります。

森を歩いていると、夏場はほとんど木陰を歩くことになり、街中を歩くのとは違ってかなり涼しく感じます。木漏れ日が自然歩道でちらちらと踊り、ときおり吹いてくる風が涼しさを運んでくれます。気温は高いですから、汗はかきますが、アスファルトの照り返しや、直射日光にさらされての暑さとは全く感じが違います。

IMG_1191<考えるリズム>
歩くことと考えることは
多分連動している

じっと坐っているよりも
歩いた方が気分が変わる

人間は動物で動くようにできている
そしてそのリズムは
心臓の刻むリズムが基準なのではないか

安静時の脈拍ほどのリズムで
一定時間歩けば
思考はあるひとつの波に乗り
無理なく流れていくことができる

□◆□…優嵐歳時記(2589)…□◆□

  夏至の宵明るきうちの湯浴みかな   優嵐

夏至は曇っていましたが、気温は上がりました。日中の気温は30℃を超え、湿度が高く日本の夏らしい夏が姿を現しつつあります。昨年の夏から初秋にかけての考えられないほどの猛暑を思い出しました。

増位山の蛇ヶ池の奥で花菖蒲が咲いています。放生池の花菖蒲はもうシーズンを終わりました。あちらは多分ノハナショウブなのだと思います。蛇ヶ池の花菖蒲は園芸種としての本来のハナショウブで、ハンカチを束ねたような花が池のほとりに点々と咲いています。

IMG_1180<錯覚>
花菖蒲の写真を撮ろうとして
細い足場を辿り
池の中ほどまで行った

足元が不安定で方向転換が難しい
ふと見ると
すぐそこに頃合の岩が埋まっている

あそこに足をかけて方向を変えよう
そのつもりで足を踏み出したら
それは泥に浮かんだ古段ボールだった

足は泥まみれ
目の錯覚とはこのこと
期待するから裏切られるのか

けれど
裏切られることも
楽しんでしまおう

□◆□…優嵐歳時記(2588)…□◆□

  荒梅雨の音に誘われ眠りけり   優嵐

年を取ることは必ずしもつらいことでも悲しいことでもないと数日前の詩に書きました。これは実際に自分が感じていることです。年をとると体力が落ちるとかお肌が衰えるとかそういう外見のことだけでなく、頭が固くなると思われているようです。外見には同意しますが、頭や考え方はそうではないと私は思っています。

人の名前を覚えるとか、外国語を習得するとか、そういう意味での「記憶」としての頭の能力は落ちて行きます。しかし、もっと違う総合的な「知恵」としての頭の能力は向上していくのではないでしょうか。

自分自身のことを省みて、10代や20代のころというのは、とても頭が固かったと思います。ものごとを一面的な見方でしかとらえられませんでした。今も忍耐強いとはいえないかもしれませんが、もっといらいらと性急で、なぜあれほど苛立っていたのだろう、と思います。

どうでもいいことを「どうでもいい」と思えるようになったのも年齢の成果です。あらゆることを成し遂げることはできません。時間も資源も有限で、どうでもいいことにエネルギーを費やしたり、面子にこだわって不毛な議論や争いごとに巻き込まれるのはつまらないな、とはっきりわかるようになりました。

IMG_1163<チェンジ>
嫌なこと不愉快なことがあったら
嫌だ嫌だ
不愉快だ
と言っているばかりでなく
お風呂に入ろう

お風呂に入って
ゆっくりお湯に浸って
ぼーっとしたら
違う考えが浮かんでくる

このことは
こんな風にも考えられるじゃないか
ここからは
こんなことが学べるじゃないか

お風呂は身体を重みから解放してくれる
ついでに頭も心も軽くして
視点を変えてみるんだ


□◆□…優嵐歳時記(2587)…□◆□

  あっけなく気持ちは変わり明易し  優嵐

明日が夏至です。最も日が長い時期なのですが、梅雨の最中であるため、その感覚が薄められています。「明易し」は夜明けの早さを意味する季語です。日の出と日没の時刻は毎日変わります。人の気持ちもそういうものだなと思います。これは自分の気持ちのありようから特に思うことです。

なぜ変わるのか自分でもよくわかりませんが、ちょっと前までは絶対こうだろう、ずっとこうするだろう、と思っていたようなことがころっと変わってしまっていることが珍しくありません。心変わりと言いますが、心は変わっていくのが本質であり、何かとの関係を続けていく(それが人であれモノであれ何かの
行動様式であれ)というのは、関係を常に新しく結びなおしながら進むことじゃないか、と思います。

IMG_1148<変心>
変わっていく心を
変えないでいようとして
首輪をはめるのは愚かなことだ

心は君より大きく
君が知らないことを知っている
心は君のものではなく
君を乗せて流れる川だ

川が西から東へ流れを変えようとしていたら
それに従うこと
「意志が弱い」という
外野の言葉に惑わされるな
心は君の行く方向を知っている

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