2016年11月
語らいて囲炉裏にひとつ炭を足す
古民家や山茶花に降る雨を見る
◆山茶花
冬を代表する花のひとつが山茶花です。秋の終わりごろから咲き始め、冬中咲いています。昨日宿泊した古民家の庭にも咲いていました。
土曜日の朝は雲ひとつない青空でしたが、夕方からお天気が崩れ日曜日は一日雨になりました。朝食は木を丸ごと使ったテーブルでとりました。どっしりしたテーブルで、梁が見えるこの古民家にぴったりです。
全国で空家が問題になっていますが、こういう形で古い民家を活かし地域の活性化につなげていくことも可能なんだな、と思いました。原始人会というのは、加西市の上万願寺町地区で結成された団体です。
上万願寺町は兵庫県の中央部、中国山地の麓に近いいわゆる限界集落のひとつで、少子高齢化、過疎化、放棄田、などいろいろな問題を抱えています。それらの問題を地域のみで解決しようとするのではなく、都会から人を呼び込んで長い目で見た対策を行っていこうとしています。
近郊の中核都市である姫路の中心部から車で一時間ほどで来られ、里山の風景が広がります。阪神間からでも中国自動車道を使えば日帰りが可能でしょう。近郊の田舎として、地理的条件には恵まれています。農家レストランやどぶろく・甘酒づくり、食材つくり体験などもおこなっていて、盛況なようです。
冬を代表する花のひとつが山茶花です。秋の終わりごろから咲き始め、冬中咲いています。昨日宿泊した古民家の庭にも咲いていました。
土曜日の朝は雲ひとつない青空でしたが、夕方からお天気が崩れ日曜日は一日雨になりました。朝食は木を丸ごと使ったテーブルでとりました。どっしりしたテーブルで、梁が見えるこの古民家にぴったりです。
全国で空家が問題になっていますが、こういう形で古い民家を活かし地域の活性化につなげていくことも可能なんだな、と思いました。原始人会というのは、加西市の上万願寺町地区で結成された団体です。
上万願寺町は兵庫県の中央部、中国山地の麓に近いいわゆる限界集落のひとつで、少子高齢化、過疎化、放棄田、などいろいろな問題を抱えています。それらの問題を地域のみで解決しようとするのではなく、都会から人を呼び込んで長い目で見た対策を行っていこうとしています。
近郊の中核都市である姫路の中心部から車で一時間ほどで来られ、里山の風景が広がります。阪神間からでも中国自動車道を使えば日帰りが可能でしょう。近郊の田舎として、地理的条件には恵まれています。農家レストランやどぶろく・甘酒づくり、食材つくり体験などもおこなっていて、盛況なようです。
猪鍋を囲み小さな同窓会
◆猪鍋
土曜日の日中は保健師の仕事で尼崎に出かけていました。夕方からは看護学校時代のミニ同窓会で加西市の原始人会大谷山荘へ。加西市の最北部にある古民家を改装した宿泊施設です。囲炉裏があり、そこの炭火で作った猪(しし)鍋を食べました。
外観は昔の民家ですが、中はオール電化で台所もトイレも浴室も改装されています。囲炉裏のまわりは床暖房になっていて、現代の快適さを味わいつつ古い時代の雰囲気を楽しめます。参加できなかった仲間に写真を送ったりしながら、遅くまで話に花が咲きました。
土曜日の日中は保健師の仕事で尼崎に出かけていました。夕方からは看護学校時代のミニ同窓会で加西市の原始人会大谷山荘へ。加西市の最北部にある古民家を改装した宿泊施設です。囲炉裏があり、そこの炭火で作った猪(しし)鍋を食べました。
外観は昔の民家ですが、中はオール電化で台所もトイレも浴室も改装されています。囲炉裏のまわりは床暖房になっていて、現代の快適さを味わいつつ古い時代の雰囲気を楽しめます。参加できなかった仲間に写真を送ったりしながら、遅くまで話に花が咲きました。
家々に皇帝ダリア咲く伊予路
大輪の冬菊タオル美術館
◆冬菊
今治から新居浜へ向かう前に今治タオル美術館へ立ち寄りました。今治はタオルの産地として有名で、地域ブランドとして力を入れています。タオルをテーマにした美術館というのは世界でも珍しいのではないでしょうか。
南欧風の外観を持つ建物で、五階まであります。上階が有料の美術館になっており、下には各種タオル製品が売られています。ブランド品ですから、値段もなかなかのもので、人気があるのはアウトレットショップです。ふわりとした感触ながら、こしがあってなめらかな高級タオルの手触りを楽しませてもらいました。
カフェやレストランもあり、ガーデンカフェの前の庭を散歩しました。レモン、皇帝ダリア、柚子、パンジーなどが目に付きました。
今治から新居浜へ向かう前に今治タオル美術館へ立ち寄りました。今治はタオルの産地として有名で、地域ブランドとして力を入れています。タオルをテーマにした美術館というのは世界でも珍しいのではないでしょうか。
南欧風の外観を持つ建物で、五階まであります。上階が有料の美術館になっており、下には各種タオル製品が売られています。ブランド品ですから、値段もなかなかのもので、人気があるのはアウトレットショップです。ふわりとした感触ながら、こしがあってなめらかな高級タオルの手触りを楽しませてもらいました。
カフェやレストランもあり、ガーデンカフェの前の庭を散歩しました。レモン、皇帝ダリア、柚子、パンジーなどが目に付きました。
豚しゃぶの肉花びらのごと並ぶ
雨あがる来島海峡冬はじめ
◆冬はじめ
東京から戻った翌日は愛媛に向かいました。いっしょに山歩きをしている友人の実家が新居浜にあり、ご両親が亡くなった後の家を改装して、その友人は新居浜と姫路を行き来する生活をしています。年に一度、そこに仲間でお邪魔することにしているのです。
一昨年は石鎚山に、昨年は剣山に登りました。今年はしまなみ海道でサイクリングをしようと考えていましたが、土曜日は雨との天気予報でした。それならば、瀬戸大橋を渡ってどこかの観光をしようということで、出発。しかし、雨が降っていたのは出発するころだけで、瀬戸大橋まで来ると晴れてきました。
そこで、今治まで行き来島海峡大橋をサイクリングすることにしました。尾道から今治までは、しまなみ海道が開通したときに一度一泊二日でサイクリングをしたことがあります。あのころに比べると設備が充実して、自転車で走っている人も大勢います。
来島海峡大橋の上は風が強く、橋の起伏もあってそれなりに走り応えがありました。大島までの往復約10kmをレンタサイクルで走りました。橋の下をひっきりなしに船が行き交います。海峡は潮の流れが速く、海流が渦巻いて流れているさまもわかりました。
東京から戻った翌日は愛媛に向かいました。いっしょに山歩きをしている友人の実家が新居浜にあり、ご両親が亡くなった後の家を改装して、その友人は新居浜と姫路を行き来する生活をしています。年に一度、そこに仲間でお邪魔することにしているのです。
一昨年は石鎚山に、昨年は剣山に登りました。今年はしまなみ海道でサイクリングをしようと考えていましたが、土曜日は雨との天気予報でした。それならば、瀬戸大橋を渡ってどこかの観光をしようということで、出発。しかし、雨が降っていたのは出発するころだけで、瀬戸大橋まで来ると晴れてきました。
そこで、今治まで行き来島海峡大橋をサイクリングすることにしました。尾道から今治までは、しまなみ海道が開通したときに一度一泊二日でサイクリングをしたことがあります。あのころに比べると設備が充実して、自転車で走っている人も大勢います。
来島海峡大橋の上は風が強く、橋の起伏もあってそれなりに走り応えがありました。大島までの往復約10kmをレンタサイクルで走りました。橋の下をひっきりなしに船が行き交います。海峡は潮の流れが速く、海流が渦巻いて流れているさまもわかりました。
冬麗の浜離宮園を見下ろす
冬ぬくし大さん橋の汽笛かな
◆冬ぬくし
この週末は異様なほどの暖かさでした。横浜では、横浜駅から臨港パーク、赤レンガパーク、横浜港大さん橋、山下公園、中華街、横浜公園をぶらぶら歩きつつ観光しました。
大さん橋は国際線の旅客ターミナルがあります。ここの屋上は「くじらのせなか」と呼ばれ、板張りでなだらかに起伏しており、横浜港全体を見渡せる絶好のスポットです。24時間無料で開放されています。
横浜が開港したのは1859年です。日米和親条約が締結された場所にも行きました。安政元年(1854)2月から3月にかけ、日米の代表が横浜村の海岸で会見し、この条約を結びました。その応接所は現在の神奈川県庁のあたりです。日本の歴史を大きく転換させ、横浜市誕生のきっかけとなりました。
県庁の前が銀杏並木の見事な日本大通りです。初めて日本大通りという名前を聞いたとき、「なぜ日本大通り?」と思いました。この場所へ来てみると、日本が開国し貿易を始めたのがこの場所であり、それゆえの「日本大通り」という名前なのだろう、と想像できます。
この週末は異様なほどの暖かさでした。横浜では、横浜駅から臨港パーク、赤レンガパーク、横浜港大さん橋、山下公園、中華街、横浜公園をぶらぶら歩きつつ観光しました。
大さん橋は国際線の旅客ターミナルがあります。ここの屋上は「くじらのせなか」と呼ばれ、板張りでなだらかに起伏しており、横浜港全体を見渡せる絶好のスポットです。24時間無料で開放されています。
横浜が開港したのは1859年です。日米和親条約が締結された場所にも行きました。安政元年(1854)2月から3月にかけ、日米の代表が横浜村の海岸で会見し、この条約を結びました。その応接所は現在の神奈川県庁のあたりです。日本の歴史を大きく転換させ、横浜市誕生のきっかけとなりました。
県庁の前が銀杏並木の見事な日本大通りです。初めて日本大通りという名前を聞いたとき、「なぜ日本大通り?」と思いました。この場所へ来てみると、日本が開国し貿易を始めたのがこの場所であり、それゆえの「日本大通り」という名前なのだろう、と想像できます。