優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2019年04月

白藤
平成最後の日は雨がふったりやんだりの一日でした。増位山随願寺の境内では白いフジが咲いています。雨があがったひととき、そのフジを見に行ってきました。
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退位礼正殿の儀はYouTubeで見ました。宮内庁の人たちが恭しく捧げ持っているものが三種の神器なのだろう、と思いながら見ていました。「象徴としての自分を支えてくれた国民に感謝したい」というのが天皇陛下の最後のお言葉でした。
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壇から下りて退出の際、ふと振り返り皇后陛下に手を差し出されました。それがとても自然で、しみじみといい雰囲気でした。公務から解放され、ゆっくりした時間を送っていただきたいと願います。
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春空
二の丸搦め手から本丸に登ります。その前に天守のすぐ下で石垣の端に立ち、丸亀市街地を望める場所がありました。高所恐怖症の方にはお勧めできませんが、市街地と丸亀港方面が見渡せます。IMG_2387
ここで振り返って見ると、日本一小さな現存天守も石垣に支えられ、本丸で見るよりもすらっと高く見えます。天守は三層三階の木造で、高さ約15m、唐破風や千鳥破風で意匠を凝らしています。四国内で最も古く、1660年(万治3)に完成しました。
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春の陽
三の丸北側の石垣は丸亀城のなかでも最も高く、20m以上の城壁が続きます。隅角部は算木積みによって、より強固で高く積み上げられるようになり、「扇の勾配」と呼ばれる美しい曲線を描いています。
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見返り坂を過ぎると高浜虚子の「稲むしろあり飯の山あり昔今」の句碑があります。ここから二の丸に入ると二の丸井戸がぽつんとあります。丸亀城で最も高所にある井戸で深さは36間(約65m)で、今も水をたたえています。IMG_2384


八重桜
丸亀城へ向かう際、駐車場がいっぱいでした。外にあふれた車の合間になんとか隙間を見つけて駐車しました。天守へ行く道順を通りかかった中学生くらいの女の子にたずねたら、行き方を教えてくれた後、「すごい急坂があってそこを登って行きます」と言いました。
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観光案内所を出たら、目の前にその急坂がありました。大手門から山上に向かっており、「見返り坂」と呼ばれています。傾斜が急で時々立ち止まって振り返りたくなるため、いつしかそう呼ばれるようになったとか。周囲にソメイヨシノが植えられており、花の時期は見事でしょう。いまはヤエザクラが咲いていました。IMG_2381



観光は香川県の最も西部の観音寺市から始め、三豊市、善通寺市としだいに東へ進みました。帰路は瀬戸大橋を通るので、徐々にそこへ近づく計画です。
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丸亀城へ行きました。丸亀城は現存する十二天守のひとつです。市街地南部の亀山(66m)を利用して建てられた平山城です。現存天守として最も小規模ながら、石垣は素晴らしく、山麓から山頂まで四重に重ねられ、合わせると60mとなり、総高は日本一高い石垣です。

2018年10月8日、9日、城の南西部の石垣が豪雨と老朽化の影響で大規模に崩落し、現在復旧作業がおこなわれています。観光には影響はないようですが、修復には多額の資金と年月がかかるようです。IMG_2378
お城に登る坂の手前に丸亀城内観光案内所があり立ち寄りました。そこではグッズ販売とともに、うちわ製作の実演もされていました。丸亀は江戸時代から続く団扇の産地で、現在も国内シェア9割の年間1億本以上を生産しています。お土産品としてきれいな団扇が多数販売されていました。IMG_2379


春日和
最後に参拝したのは、弘法大師・空海が生まれたところにある75番札所・善通寺です。空海は774年(宝亀5)讃岐国多度郡屏風浦で生まれました。父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)。幼名を佐伯真魚(さえきのまお)といいました。IMG_2374
善通寺は直田公から土地の寄進を受けて813年(弘仁4)に落成したといいます。寺号は父の法名からとられています。寺域は広大で、伽藍のある東院と生誕地とされる西院に分かれています。
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東院には1902年(明治35)に完成した四代目の五重塔が建っています。四国霊場で五重塔があるのは四箇所だけですが、そのうちの二つをこの日見ることができました。IMG_2375
西院は「遍照金剛閣」の扁額があがった仁王門をくぐり、空海の生涯を順に描いた絵馬がかかっているところを通って御影堂に詣でるようになっています。IMG_2376


遍路
次に70番札所・本山寺へ行きました。ここには1910年(明治43)再建の五重塔があります。本堂は1300年(正安2)に京極氏と佐々木氏の寄進によって再建され、国宝。仁王門は室町時代中期の建立で重要文化財。これ以外にも多くの文化財が広い境内に立ち並んでいます。
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仁王門のそばに西洋人らしい若い男性が、「南無大師遍照金剛」と書かれたお遍路さんの装束を着て座っていました。歩き遍路をしているようです。これ以外にも途中で同じ装束の金髪の女性を見ました。IMG_2369
日本人でもサンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩く人がいますから、それと同じようなものでしょうか。「遍路」は春の季語です。今なら、四季を通じて車で回ることができますが、歩き遍路しかなかった時代は季節のいいときに多く、その名残でしょう。IMG_2371


遍路
神恵院と観音寺の境内にはクスノキの巨木がありました。クスノキはもとは台湾、ベトナム、中国南部といった暖地に生息していたもので、日本では本州西部、四国、九州に多く見られます。

このクスノキの下にお接待をされる方たちがいらっしゃいました。そろいのオレンジ色の衣で、お遍路さんの白衣をオレンジ色にしたような感じです。背中に「南無大師遍照金剛」と書かれているのは同じです。
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紫木蓮
神恵院の本堂は2002年(平成14)に新しく建てられたコンクリート打ちっ放しで白木と組み合わされています。本堂に向かうところと庭園の隅にシモクレンが咲いていました。IMG_2355
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納経所では、掛軸に御朱印をいただかれているお遍路さんに出会いました。車でお遍路をされているそうでこれで五日目だということでした。歩き遍路はなかなか時間がとれないでしょうから、車で回る方が多いのでしょう。大きな筒状のものを抱えてお参りされている方は、掛軸だったのです。IMG_2363
「私もお遍路しようかなと思てるねん」と姉が言いました。御朱印帳を持っていて、参拝した寺社仏閣では御朱印をいただいています。歩き遍路なのか、車での遍路なのかわかりませんが、体力の許すうちにやるのがいいのでは、と思いました。IMG_2364


つつじ
神恵院の開基は法相宗の高僧・日証上人といわれています。703年(大宝3)琴弾山で修行中に宇佐八幡宮のお告げを受け、海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げて琴弾八幡宮として祀りました。その神宮寺が神恵院の起源です。IMG_2365
807年(大同2)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊とし、後に神恵院として68番霊場となりました。その後、明治維新の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は観音寺境内に阿弥陀如来とともに移転し、現在に至っています。IMG_2357
神恵院には巍巍園(ぎぎえん)という回遊式庭園があります。1976年(昭和51)の土砂災害により、大部分が失われましたが、今も残っているところは手入れがいきとどき、ツツジが咲きそろっていました。IMG_2359


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