優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2020年09月

待宵
明晩は名月です。その前夜を待宵といいます。名月の夜が晴れか曇りかわかりませんから、それに先立ってこの夜の月を眺めて楽しもうという心がその言葉の中にあります。

姫路の今日は朝からずっと曇っていました。お昼ごろから雨との予報でしたが、日があるうちは雨が落ちず、午後8時ごろから降り始めました。明日は晴れとの予報ですので、名月が楽しめそうです。
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露草
近所を散歩していると、ありとあらゆるところでツユクサを見かけます。放置された花壇、河川敷、堤防、ちょっとした溝の端、田畑の手入れが行き届かない隅などであの深い青色の花が咲いている姿を見られます。意外にたくましい花なのでしょう。
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彼岸花
お彼岸の時期よりは一週間ばかり遅れましたが、いま家のまわりではヒガンバナが最盛期を迎えています。咲くときはそろってわっと咲くのがこの花の特徴です。ヒガンバナは有史以前に渡来した外来植物で、人間の生活の側にしかありません。種子では増えず遺伝的にはすべてクローンです。
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秋茄子
家に帰ったらドアノブにナスが入った袋がかけてありました。畑をやっている友人が持ってきてくれたものでした。半分はラタトゥイユにして食べています。ナスがたくさんあるときはこれが一番いい食べ方かもしれません。
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弓張月
今年の名月は10月1日です。ここ一週間ほどで急に季節が進みました。本来今頃ならこういう感覚なのでしょう。残暑が長く厳しかったので、突然涼しくなったと思えるのです。

このところ夏から秋への移り変わりがこんな感じになる年が多い印象です。梅雨明けが遅く、真夏がほんの少しで立秋の後にむしろ長く厳しい残暑がやってくる、そういう年が増えているように思います。
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無花果
一周忌の法要をすませた後、スイーツを買って姉の家に行きました。すでにケーキの装飾にはハロウィンが使われています。美味しそうなケーキがいくつもあって目移りしてしまいます。イチジクを使ったものもあり、珍しいので私はそれを注文しました。ひと味違い美味しかったです。
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秋晴れ
四連休の間に義兄の一周忌の法要がありました。新型コロナの影響で九州にいる義兄の兄弟たち、東京にいる次男は出席できませんでした。新型コロナはこうした冠婚葬祭にも大きな影響を与えていて、火葬場すら密になるので、火葬への立ち合いは5人までに制限されているといいます。

少人数ながらおだやかで落ち着いた一周忌となりました。もともと派手な法要は誰も好みません。しかし、日本全国を見渡せば冠婚葬祭に関わるもろもろの業者が受けた影響は非常に大きなものがあったでしょう。しかも当分収まりませんし、それがあらたな様式として定着していくかもしれません。
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爽やか
最後に飛鳥寺に参拝しました。飛鳥寺は588年に蘇我馬子が発願し、596年に創建された日本最初の本格的寺院です。本尊の飛鳥大仏は、609年に推古天皇が鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像です。

高さ3m、当時銅15t、黄金30kgを用いて造られました。887年と1196年の火災によって全身罹災し後補を受けました。それでも概形と細部に飛鳥彫刻らしい形をとどめているといわれています。
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秋の水
1992年、酒船石がある丘陵北斜面の発掘調査で砂岩石垣が見つかりました。この地は伝飛鳥板葺宮跡の東方に位置し、『日本書紀』の斉明天皇2年(656)の条に記された「宮の東の山に石を累ねて垣とす」の記述に合致すると推定されました。

2000年の第12次発掘調査で亀形や小判形石造物が見つかっています。石敷き広場の中央に砂岩積みの湧水施設、小判形と亀形の石造物を通る基幹排水溝が設けられ、閉鎖性の強い人工的な空間であることから、何らかの祭祀を行った場所と考えられています。酒船石とこれらをあわせ、『酒船石遺跡』と名づけられました。

専属のガイドさんがいらっしゃって、遺跡の説明をしてくださいました。この丘は人工的に築かれたものと考えられ、大規模な土木工事であったことがうかがえます。斉明天皇は天智・天武天皇の母にあたり、史上最初の重祚をした天皇でもあります。

斉明天皇となったときは62歳、実権は皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)が握っていました。度重なる土木工事に不満の声が起き、それが有間皇子の変につながったと言われています。中大兄皇子が邪魔な有馬皇子を陰謀で葬ったとも言えますが。
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秋風
岡寺から急坂を下り酒船石へ向かいました。酒船石は小高い丘の上にあり、周囲は竹林です。高さ1m、東西5.5m、南北2.3mの花崗岩で、上部に皿状のいくつかの窪みとそれを結ぶ溝が刻まれています。

江戸時代に高取城を建てる際に使用を試みた石割用の鑿の跡が残っており、上面が一部欠損しています。これが何のために使われた石なのかはよくわかっていません。酒や油、薬を作る設備という説、庭園の石という説、古代の流体素子という説まであります。
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