優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2022年06月

夏料理
夕食は山の会席料理「西行御前」をいただきました。吉野を愛した西行にちなんだ西行鍋をはじめ、葛きり、饅頭吉野葛あんかけ桜包みなど、吉野葛がふんだんに用いられています。天ぷらにさえ本葛入り天ぷら粉が使われていました。

お箸は杉卵中箸(すぎらんちゅうばし)というもので中太両細 、一本利休箸とも呼ばれます。千利休は客を招く日の朝、吉野から取り寄せた杉の箸材を削って客の人数分の箸を揃えました。このお箸は柱を作るときの廃材を利用して作られるそうです。
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チェックイン時間を過ぎたので宿に戻りました。吉野荘湯川屋の建物は吉野建(よしのだて)という様式で建てられています。谷の斜面を背にした木造建築で正面からは二階建てで玄関は一階のように見えますが、建物は谷に向かって下方へ二階、三階となっています。この独特の様式が吉野の景観を形作っているのです。

吉野に宿を開かれて300年の歴史があり、玄関には嘉永元年(1848)に湯川屋のことが書かれた「芳野日記」が飾られています。あずけていた荷物はすでに部屋に運ばれており、案内された部屋には鮎を描いた掛け軸がかかっていました。
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青葉
吉水神社のすぐ近くに東南院はあります。金峯山修験本宗の別格本山で、現在は宿坊も営まれています。多宝塔を見て桜の時期にここに来たことを思い出しました。そのときは塔の脇の枝垂桜が見事でした。多宝塔は昭和12年(1937)に移築されたもので、もとは和歌山県の野上八幡宮にありました。
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青葉
吉野には桜時に来たことがあります。そのときは上千本からハイキング道を通って下まで降りてきました。下千本の桜が満開でそのあたりは大変な賑わいでした。しかし、今は人通りもまばらで平日のせいもあり店はほとんど閉まっていました。
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カラー
吉野にも頼朝の追手が迫り、義経は山伏に姿を変えて大峰山を越えて行くことにしました。女人禁制の地であるため、静を連れて行くことはできず、吉水院が義経と静御前の別れの場所となりました。

その後、頼朝の追手に捕らえられた静御前は鎌倉に送られます。頼朝の命により鶴岡八幡宮で静は白拍子の舞を披露し、その際「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」と義経を慕う歌を謡いました。激怒した頼朝を妻の北条政子は「私が御前であったなら同じようにしたでしょう」といって取りなし、命を助けました。
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梅雨
元歴2年(1185)、源義経は壇ノ浦で平氏を破り平家は滅亡します。京へ凱旋した義経でしたが、その直後に兄の源頼朝と対立。頼朝の要請を受けた後白河法皇が義経追討の宣旨を発します。

義経は再起をかけて船団を組み瀬戸内海を九州へ向かったものの、暴風雨にあい難破して主従は散り散りとなります。義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野へ逃れ、ここ吉水院にしばらく潜んでいました。
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梅雨
吉水神社の書院は日本住宅建築史上最古の書院建築として世界遺産に登録されています。後醍醐天皇以外にも源義経、豊臣秀吉といった日本史上に名高い人物と縁の深い場所であり、書院内には彼らの残した文化遺産がいくつも展示されています。

花の時期であれば一目千本といわれる桜の名所です。しかし、梅雨の今は訪れる人もなく書院内をゆっくり見て回ることができました。特に義経の鎧(重要文化財)や弁慶の七つ道具は興味深いものでした。
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ささゆり
吉水神社の境内には「ここにても雲居の桜咲きにけり ただかりそめの宿と思ふに」という後醍醐天皇の歌碑が建てられています。吉野の皇居はかりそめのものと思った天皇でしたが、京に戻ることはかないませんでした。しだいに南朝が劣勢となるなかの延元四年(1339)、後醍醐天皇は吉野の金峯山寺金輪王寺で52歳の生涯を終えています。
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