春浅し
能福寺の境内には神戸事件の責任をとって切腹した備前藩士・滝善三郎の墓があります。神戸事件とは、慶応4年1月11日(1868年2月4日)、三宮神社近くで備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させて銃撃戦に発展したものです。

このとき居留地予定地見分中の欧米諸国公使にも備前藩兵が水平射撃を加え、一時外国軍が神戸を占拠する事態になります。明治政府初の外交問題でした。明治政府は各国の要求を受け、砲隊の責任者の滝善三郎を切腹させて解決を図りました。

隊列を横切るのは「供割」という非常に無礼な行為で、武士としては当然の行動です。しかし、これが香港や上海のような理不尽な植民地要求に発展する可能性もあり、享年32歳の滝善三郎の命は日本史の流れを変えたとも言えます。
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