□◆□…優嵐歳時記(74)…□◆□

    生きていく我に春愁ありにけり   優嵐

深刻な物思いではありません。生きていくことのなんともいえない
哀しさとでもいえばいいのでしょうか。光があふれ、日差しは明るく、
花は咲き、鳥は歌い…、それでありながら、いや、それだからこそ、
ある瞬間に心をとらえるこの物憂さは何なのでしょうか。憂いや
悲しみは、必ずしも何か理由があるから沸き起こるものではない、
ということです。

なんともいいようのないこうした感情を、敏感にすくいとって季語
にしている日本人の感性を素敵だなと思います。この憂い、哀しみは
どこからくるのでしょうか。どうも、人生そのものの、人が人として
ある心の深淵からふわりと立ち上ってくる哀しみだという気がします。

人にうらやまれるような人生を送っている人の心にも、いや、そういう
人の心にこそ、滲み出してくる憂いかもしれません。漢の武帝の
「秋風辞」にある「歓楽極まりて哀情多し」という感じです。