優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

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40代を超えて10代のころと同様の声を出せというのは無理です。ゆえにファルセットなのですが、地声も若いころとは異なり細くなっているのがわかります。『ロマンス』『ファンタジー』は、やはり10代のために作られた歌です。

復帰後の岩崎宏美の歌で、素晴らしいと思ったのは、『人生の贈り物〜他に望むものはない』(当時53歳)です。これはこの年齢でなければ歌えない歌です。10代や20代では説得力がありません。この歌詞のようなことに気づけるのはもっと後です。

光陰矢の如しとか、少年老い易く学成りがたし、などという古典を中学や高校で習いました。しかし、そのときは何のことかわかりませんでした。意味はわかっても実感としてはわかりません。人生も若さも永遠に続く、そんな錯覚に陥っているのです。
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枯薄
岩崎宏美の全盛期は10代後半から20代半ばだと思います。『ロマンス』(当時17歳)から『家路』(当時24歳)あたりです。この間、『思秋期』(当時18歳)が転機となった作品で、代表曲『聖母たちのララバイ』(当時23歳)が挟まっています。

その後、彼女は88年(当時29歳)の結婚でいったん休養に入り、本格的に復帰するのは95年(当時36歳)です。復帰後の歌を聴くと、彼女の最大の魅力であった高音をそのまま出すのはさすがに難しくなっており、ファルセットを用いています。

それからさらに30年、65歳の現在も現役を続けるには、並々ならぬ努力と精進が必要です。歌への情熱がなくては続けられないと同時に、心身の健康状態がそれを可能にしているのは彼女の幸運といえるでしょう。
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しぐれ雲
岩崎宏美を聴きなおしてみて、私は彼女の10代の頃の声が一番好きなんだと気づきました。『ロマンス』(当時16歳)から『あざやかな場面』(当時19歳)くらいまでの声です。

このころの彼女の、特に高音部の伸びの良さが好きです。すかーんと青空に吸い込まれていくような、硬質で混じりけのない声。圧倒的な喉の力でぐいぐい押していく、才能の爆発を聴く心地よさがあります。曲自体もこのころのものが好きです。

年齢があがるに従ってこの高音部の伸びは失われ、「表現力」でそれを補っていくようになります。ボーイソプラノがゆっくりと声変わりしていった、そんな感じでしょうか。
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秋曇り
『あおぞら』には『二重唱(デュエット)』のB面『月見草』と、『ロマンス』のB面『私たち』が入っています。『ロマンス』と『私たち』はどちらをA面にするか発売直前まで決まらず、最後は岩崎宏美も含めたスタッフ全員で多数決をして一票差で決まったといいます。

筒美京平は『私たち』を推したそうです。岩崎宏美は『私たち』のキーが『ロマンス』より高く、当時は朝の生番組で歌う機会が多かったことから、歌いやすさを優先して『ロマンス』に入れたとか。もし逆になっていたら、その後の運命が変わっていたかもしれません。

当時の朝の番組で彼女が歌っている様子が「岩崎宏美さんの再アップ動画 1976」で見られます。喋りにはまだ子どもの雰囲気が残っており、「あがっちゃって…」ととちるあたりが可愛らしいです。ただ、歌はさすがです。
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台風圏
台風は日本海沿いに東へ進んでいます。兵庫県にはこれから夜にかけて最接近します。

歌詞の入った音楽は多少の例外を除いてこれまであまり聴きませんでした。歌詞の内容が頭にイメージされてBGMとして聴くには邪魔になるからです。歌詞なんか聴かないという人もいてそれにはびっくりしました。そんなこと可能なんでしょうか?

岩崎宏美のデビューから8枚目までのシングルはすべて作詞が阿久悠、作曲が筒美京平です。初期の大ヒット作『ロマンス』を聴いていると、よくこんな言葉が選べるなあと感心します。「あなたお願いよ 席を立たないで 息がかかるほどそばにいて欲しい」「もしも飛べるなら飛んでついていく たとえ嵐でもたとえ遠くでも」
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