優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

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冬紅葉
岩崎宏美の20代における声は「火曜サスペンス劇場主題歌」のような劇的で深刻な表現に適していました。ドラマティックに歌い上げ、人生の苦悩と葛藤を歌います。「歌がうまい」と誰でもわかりやすく、大人の表現だと誰もが感じるでしょう。

天地真理の声は違います。彼女が岩崎宏美を歌うかどうかは別問題として、そもそも声質がそういう深刻で劇的な表現にむいていません。同じように、20代の岩崎宏美が天地真理を歌っても、天地真理のような優しく広々と包み込むような歌にはならないと思います。

歌手の根本的な生命は声の質でしょう。一発で心をもっていかれるのは、そのときの自分の心の琴線にふれる声に出会ったときです。
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冬紅葉
YouTubeでは、クラシックの音楽家が日本の「流行歌」を歌っている動画をいくつも見ることができます。少し前までなら本格的に音楽の修練を積んだ歌手が「流行歌」を歌うなんて考えられなかったことですが、YouTubeが垣根を取り払ったと思います。

『ひとりじゃないの』を声楽家ののぞみさんが歌っている動画を見つけました。さすがクラシックのプロ。本家の天地真理と比較してみて、いかがでしょうか。彼女も国立音楽大学付属高校声楽科卒ですから、クラシックの基礎は学んでいます。
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冬紅葉
夜明けが遅く午前6時でも真っ暗です。白湯のおかげか目覚めたときはこむらがえりは起きていませんでした。ただ、伸びをした拍子に左足に軽いこむらがえりが起きました。

CIDPの患者LINEグループには、筋肉の伸ばし具合で自在にこむらがえりを起こせるという人がいます。私の場合、目が覚めた後、不用意につま先を伸ばすと起きるようです。

どういうメカニズムで起きるのかはわかりませんが、末梢神経がおかしくなって、そこにつながる筋肉の収縮と伸展のバランスもおかしくなっているのだろうと思います。
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冬紅葉
講師の役割を替わってもらえる人がなんとか見つかりそうです。友人たちのつてをたどっているうちに、いろいろな人と話す機会がありました。初めて話すのに話がどんどん広がって随分長く話してしまった人もありました。

「雑談力」というのがあります。「相手の話を受けて適度に自分の話も交えつつ会話を継続していける力」という意味だろうと思います。雑談力が高い人とは会話が弾みます。話題が広がりますし、面白いです。
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冬紅葉
さて、天地真理を聴く日々が続いています。1stアルバムは71年12月21日(当時20歳)にリリースされ、デビュー曲『水色の恋』以外はすべて内外のカバーです。今は1曲単位の配信なので、アルバムという概念がなくなってしまったかもしれません。

この半世紀は音楽を聴く方法が大きく変化していった時代です。50年前はまだLPレコード、それを聴くための高価なステレオ装置が必要でした。カセットテープが一般に普及したのは70年代に入ってからです。

ウォークマン発売は79年。音楽を持ち歩けるようになりました。そしてCDは88年に発売。90年代に入ってインターネットが登場し、2010年代以降本格的にストリーミングが開始され、今ではそれが主流になっています。
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冬紅葉
別府鉄道跡の「であいのみち」を歩いていくとイロハモミジ、ヤマザクラ、ケヤキなどの紅葉が美しく、これがJR土山駅まで続いてます。大中遺跡とあわせると恰好の散歩コースではないでしょうか。
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冬紅葉
博物館の建物の壁には蔦が這っており、赤く色づいてきれいでした。そこを通り抜けると大中遺跡公園に出ます。考古博物館の中を見学するのは後にして大中遺跡の復元された住居群を順番に見ていくことにしました。
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冬紅葉
山を降りてからの昼食は「三感hoso」でいただきました。旬の食材を使った薬膳料理が看板メニューの店です。個室になっていて、ゆっくり食事を楽しむことができました。レンコン饅頭など珍しいメニューもあり、どれも美味しかったです。
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冬紅葉
篠ノ丸城址から東の方角に下山しました。枝を伸ばした紅葉のトンネルをくぐるように降りていきます。お昼を麓で食べる予約をしており、その時間が迫っていたので急ぎました。
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冬紅葉
喫茶コーナーのあった広場からさらにゆるやかな斜面を登っていくと篠ノ丸城址に着きます。『赤松家播備作城記』によれば、南北朝期に赤松貞則の長男顕則が初めてここに城を築きました。

その後、赤松一族の西播磨守護代宇野氏は山崎町中心部に居館を置き、背後の山上に篠ノ丸城を築きました。天正8年(1580)の羽柴秀吉の播磨攻めの際に長水城とともに落城しました。黒田家の正史『黒田家譜』に、宇野氏滅亡後に官兵衛が山崎の城に居城したと記されており、これが篠ノ丸城ではないかとする説があります。

確実な史料として官兵衛が宍粟を領有するのは天正12年(1584)7月で、同15年(1587)7月に豊前に移封となるまで宍粟を治めました。平素は多忙な官兵衛に代わり代官が居城していたものと考えられています。
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