優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

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吉野にも頼朝の追手が迫り、義経は山伏に姿を変えて大峰山を越えて行くことにしました。女人禁制の地であるため、静を連れて行くことはできず、吉水院が義経と静御前の別れの場所となりました。

その後、頼朝の追手に捕らえられた静御前は鎌倉に送られます。頼朝の命により鶴岡八幡宮で静は白拍子の舞を披露し、その際「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」と義経を慕う歌を謡いました。激怒した頼朝を妻の北条政子は「私が御前であったなら同じようにしたでしょう」といって取りなし、命を助けました。
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梅雨
元歴2年(1185)、源義経は壇ノ浦で平氏を破り平家は滅亡します。京へ凱旋した義経でしたが、その直後に兄の源頼朝と対立。頼朝の要請を受けた後白河法皇が義経追討の宣旨を発します。

義経は再起をかけて船団を組み瀬戸内海を九州へ向かったものの、暴風雨にあい難破して主従は散り散りとなります。義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野へ逃れ、ここ吉水院にしばらく潜んでいました。
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梅雨
吉水神社の書院は日本住宅建築史上最古の書院建築として世界遺産に登録されています。後醍醐天皇以外にも源義経、豊臣秀吉といった日本史上に名高い人物と縁の深い場所であり、書院内には彼らの残した文化遺産がいくつも展示されています。

花の時期であれば一目千本といわれる桜の名所です。しかし、梅雨の今は訪れる人もなく書院内をゆっくり見て回ることができました。特に義経の鎧(重要文化財)や弁慶の七つ道具は興味深いものでした。
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ささゆり
吉水神社の境内には「ここにても雲居の桜咲きにけり ただかりそめの宿と思ふに」という後醍醐天皇の歌碑が建てられています。吉野の皇居はかりそめのものと思った天皇でしたが、京に戻ることはかないませんでした。しだいに南朝が劣勢となるなかの延元四年(1339)、後醍醐天皇は吉野の金峯山寺金輪王寺で52歳の生涯を終えています。
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梅雨に入る
蔵王堂のほど近くに吉水神社があります。ここはかつては吉水院という修験道の僧房でした。延元元年(1336)建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇が幽閉されていた京都を脱出し、ここに南朝を開きました。南北朝時代の始まりです。

京都御所の規模からすれば考えられないような僻地の小さな僧房ですが、それでも名目上は皇居であり、南朝四代57年の歴史がここから始まりました。明治維新で南朝を正統とした新政府により吉水神社と改められ現在に至っています。
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