優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

タグ:大和三山

枯田
藤原宮跡から醍醐池の西畔を通り、大和三山の最後である耳成山に向かいました。耳成山(139m)は最も低いものの、形は秀麗で盆地の中の独立峰としてよく目立ちます。JR桜井線、近鉄大阪線を越えて耳成池に達すると目の前が登山口でした。IMG_0790
大和三山を詠んだ歌は多く、歌枕として重要です。また近世の地誌、紀行文などでも広く紹介され万葉世界を代表する地名になっています。『万葉集』の中で耳成山だけを単独で詠んだ歌はなく、ほかの二山とともに詠まれました。IMG_0803


寒の内
藤原京のあたりは、金柑をはじめ、柑橘類を植えているお宅が目につきます。気候的に柑橘類の栽培に適しているのでしょうか。クロガネモチらしい赤い実の庭木もたくさん目にしました。IMG_0802
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しぐれ
天岩戸神社から登山口への標識でちょっと迷ったものの、登山口はすぐわかりました。低い山なので、いろいろな場所から頂に行けるのだと思います。畝傍山と耳成山は死火山の独立峰ですが、天香久山は多武峯から下る尾根の末端にあたります。

山頂には國常立神社があり、西側の一角から畝傍山とその背後にある大和葛城山、金剛山が望めます。金剛山はしぐれの雲の向こうに霞んでいました。北へ視線を移すと二上山のふたつの峰も見えます。IMG_0788


松の内
奈良では12日はまだ松の内です。橿原神宮前駅にも寺社にも門松がありましたし、家々にも注連飾りが飾られていました。

大和三山がすっぽりとおさまる地域は、持統天皇8年(694)から和銅3年(710)まで、持統、文武、元明天皇の都、藤原京がおかれていました。藤原京は東西南北の道路によって碁盤目に区画した日本最初の中国式都城でした。IMG_0776
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初ハイク
橿原神宮から畝傍山の山頂までは照葉樹林の中のなだらかな道を行きます。しぐれていましたが、ここを歩いているとほとんど雨がかからないくらいでした。山頂からは西側に金剛山、葛城山が見えます。

畝傍山は199mあり、大和三山のうちでは最高峰です。天香久山は152m、耳成山は139mで、山というより丘に近い感じです。畝傍山の山頂には畝火山口神社社殿跡との石碑があり、照葉樹が植えられています。畝傍山は瀬戸内海火山帯に属する死火山で、二次的な浸食を受けて現在のような形になりました。

麓には初代天皇といわれる神武天皇が宮を開いたとされており、万葉集にもそれを思わせる歌が残っています。橿原神宮はその伝説に基づいて造られたのでしょう。IMG_0765 (1)
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底冷
大和三山を歩いた日は朝から曇って時雨がちのお天気でした。橿原神宮の拝殿横には巨大な猪の絵馬が飾られ、新春らしさがありました。三が日は大勢の参拝客でにぎわったのでしょう。

北神門を抜けて少し行くと、畝傍山登山口の標識がありました。頂上まではなだらかな道です。散歩、ハイキング、トレイルランニングなど、いろいろな人に出会いました。IMG_0760
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