優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

タグ:大阪七福神

春淡し
四天王寺は日本仏教始まりの地ということから、さまざまな札所になっています。布袋堂が大阪七福神の巡拝先です。布袋は宋代末期ごろに中国に実在した伝説の仏僧です。常に頭陀袋を背負っていたところから布袋と呼ばれ、七福神に取り入れられていきました。

ここは聖徳太子の乳母を祀っていたという伝説があり、もともとは母乳の出が良くなるようにという信仰を集め「乳布袋尊」とされました。しかし、現在は乳がんの平癒を願い参拝される方が増えています。庶民の信仰はこういう形で変わっていくのでしょう。

粉ミルクが無かった時代、母乳の出が悪いことは赤ちゃんの命を左右する一大事でした。しかし、今はそうした心配はなくなり、増加する乳がんから救ってくれる対象へといつしか変わっているのです。かけられている絵馬も大半がそれを祈るものでした。
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二月
西側の石鳥居をくぐって境内に入りました。すぐ左手には四天王寺学園があり、アーティスティックスイミングの比嘉もえ選手の写真入り横断幕が掲げられていました。その前を進んでいくと右手に阿弥陀堂があり、その背後にあべのハルカスがそびえています。

現在の阿弥陀堂は昭和28年(1953)に四天王寺の末寺である三重県の国束寺(くずかじ)の本堂を移築したものです。四天王寺西門は極楽浄土の入口とされ、西方の海に沈む夕陽を拝む聖地となり浄土信仰も集めました。阿弥陀堂がここにあるわけです。

江戸時代以前の大阪はもっと内陸部まで海が入り込み、大阪城の南側は湿地が広がっていました。四天王寺の西門からは鳥居越しに海に沈む夕陽を拝めたでしょう。
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大阪七福神巡拝の最後は四天王寺です。『日本書紀』によれば、聖徳太子の命によって推古天皇元年(598)に造立が開始されました。最澄、空海、良忍、法然、親鸞、一遍など平安時代から鎌倉時代にかけての新仏教開祖も参篭しています。

度重なる災害や戦災で古い建物はほとんど残っていません。しかし、そのたびに再建され、南から北へ中門、塔、金堂、講堂を直線に配置する四天王寺伽藍配置という仏教寺院最初期の伽藍配置の形は今に伝えられ、現在の五重塔は八代目の鉄筋コンクリート造です。
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今宮戎から東へ向かい恵比寿交差点まで来ると通天閣が見えてきます。現在の通天閣は昭和31年(1956)に完成した二代目で、初代創建は明治45年(1912)です。火災と戦局の悪化で昭和18年(1943)に解体され、戦後復興の象徴として再建されました。

塔自体の高さは100m、避雷針をあわせても全体108mで、タワーとしてはそれほど高い方ではありません。しかし、新世界のシンボルであり、大阪城などと並んで大阪を代表する歴史的建築物のひとつであることは間違いありません。
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春浅し
江戸の昔、境内はそれなりの広さがあり、周りは町家が建ち並んでいるだけだったでしょう。いま周囲は大都会のビル群となり寺社がこうして残っているのが不思議な気がします。

今宮戎のすぐ北側は阪神高速1号環状線が走り、その西にはなんばグランドマスターズタワーが聳えています。それでも片隅に座ってお茶をいただく程度のスペースはあり、持ち寄ったコーヒーとお菓子でお茶の時間にしました。
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二月
長久寺、法案寺南坊、大乗坊は大都市のど真ん中で座る場所もないような狭い境内でしたが、大国主神社はそれなりの広さに恵まれていました。大黒天とは、インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身のひとつであるマハーカーラが大国主命と習合した神様です。

大国主は農業・商業・医療の神であり、国津神の代表的存在として荒ぶる八十神を平定する祟り神の側面も持ちます。破壊と創造の神としてシヴァ神と習合したのです。狛犬の代わりにねずみが社殿の前に据えられていました。

大国主には神話の中で素戔嗚に殺されそうになっていたねずみを助けたエピソードがあり、ねずみは大黒天の使いになっています。新しく寄進されたもののようで、古い狛犬が境内の隅で居心地悪そうに座っていました。
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春昼
南海なんば駅近くの「イタリア大衆食堂堂島グラッチェなんば店」でお昼にしました。ランチが760円で鶏の唐揚げ6ピース山盛り、スープ、サラダ、ライスです。唐揚げの衣が独特のクリスピーさで葱の風味もよく美味しくいただきました。

イタリアンながら、中華料理の「太陽軒」の姉妹店というなんだかよくわからないコンセプトのお店でしたが、この値段でこれだけたっぷりで美味しいならお客さんがどんどんやってくるわけです。
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春の空
大乗坊周辺は日本橋オタロードと呼ばれる一帯で、東京の秋葉原と並ぶオタクの聖地です。周囲は大きなスーツケースを引いた外国人旅行者の数が目立って増えました。アニメ、フィギュア、キャラクターグッズなどの店が所狭しと建ち並んでいます。

メイドカフェに向かう独特な衣装の女性たちがいたり、他の場所では見られない珍しいものをいろいろ目にしました。毘沙門天を祀る大乗坊はそんな通りからひとつ入ったところにあります。

江戸中期の宝暦年間(1751-64)には堂島の米問屋の仁川家の寄進により広大な寺域を誇りましたが、大阪大空襲で全山焼失。戦後はビルの間のわずかな境内となりました。幸い日本四大毘沙門天のひとつとされる本尊は焼失を免れました。
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春淡し
長久寺からさらに西へ行くと観光客らしい人の姿が増えてきました。弁財天の法案寺南坊は道頓堀の手前で東へ折れて少し戻ったところにあります。弁天様は山門を入って右手、現在は小さい境内ながら、創建は聖徳太子の時代に遡ります。

昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で堂宇は灰塵に帰すという悲運に見舞われました。聖観音は被災を免れ「藤原仏」として重要文化財になっています。境内では千両の赤い実があちこちに見られました。
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三光神社からは南へ下り真田山小学校の角を西に折れて、福禄寿の長久寺に向かってほぼ真西に進んで行きました。約20分1.5kmほど、三韓坂との名の通り坂道になっています。両側には中小企業とマンションが建ち並び、休日の今日は人通りもまれで静かでした。

幅広い谷町筋を横切ってすぐ左手、鉄筋コンクリートの建物が長久寺です。門前に「南無妙法蓮華経」との大きな石碑がなければお寺というよりオフィスのようです。中に入るとすぐのところに福禄寿が鎮座されておりました。

福禄寿も寿老人と同じく中国の道教由来の神様で延命長寿の御利益があるとされています。要するに七福神というのは、一般庶民が願う世俗的幸福をかなえる神さまとして寄せ集められた存在です。
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