タグ:寒中
寒中の青空映す池の面
寒中の森の奥より鳥の声
◆寒中
新年になってからの体調不良はようやくほぼ落ち着きました。上気道感染だったのは間違いないですが、インフルエンザなのかコロナなのか単なる風邪だったのかはわかりません。しばらくは無理をせず過ごそうと思っています。
かといってじっとしているばかりではダメで、動かないと足の動きが悪くなります。私には抗magニューロパチーという特定疾患の持病があります。激烈に悪化はしませんが、治療方法もありません。慢性的にじわじわ進行します。
それゆえ、衰えを加速させないように日常生活で無理のない程度に身体を動かすことが大事です。治療法が無いといえば暗いイメージですが、結局人はみな老化という不治の病にかかっているのです。

新年になってからの体調不良はようやくほぼ落ち着きました。上気道感染だったのは間違いないですが、インフルエンザなのかコロナなのか単なる風邪だったのかはわかりません。しばらくは無理をせず過ごそうと思っています。
かといってじっとしているばかりではダメで、動かないと足の動きが悪くなります。私には抗magニューロパチーという特定疾患の持病があります。激烈に悪化はしませんが、治療方法もありません。慢性的にじわじわ進行します。
それゆえ、衰えを加速させないように日常生活で無理のない程度に身体を動かすことが大事です。治療法が無いといえば暗いイメージですが、結局人はみな老化という不治の病にかかっているのです。

寒中やどろりとしたるごま油
◆寒中
20世紀に入るとクラシック音楽はロマン派から現代音楽に変わります。現代音楽は調性音楽から離れ、無調音楽、偶然性の音楽など、従来では考えられない技法を取り入れ、難解で親しみにくいものになっていきました。
バロック、古典派の時代まで作曲家は貴族や教会に属し、その求めに応じて作曲していました。それがロマン派以降は自分の感情に従うようになり、それが肥大化して20世紀に入ると大衆の好みから離れていきました。
心地よい旋律やリズムというのは人間の生理に基づいています。そこから離れるのは無理な話です。その間隙を埋めるように登場したのがポピュラー音楽です。録音の発達とともにこれが瞬く間に大衆の心をとらえました。

20世紀に入るとクラシック音楽はロマン派から現代音楽に変わります。現代音楽は調性音楽から離れ、無調音楽、偶然性の音楽など、従来では考えられない技法を取り入れ、難解で親しみにくいものになっていきました。
バロック、古典派の時代まで作曲家は貴族や教会に属し、その求めに応じて作曲していました。それがロマン派以降は自分の感情に従うようになり、それが肥大化して20世紀に入ると大衆の好みから離れていきました。
心地よい旋律やリズムというのは人間の生理に基づいています。そこから離れるのは無理な話です。その間隙を埋めるように登場したのがポピュラー音楽です。録音の発達とともにこれが瞬く間に大衆の心をとらえました。

寒中に三日続きの雨が降る
ひさびさの寒中登山大展望
◆寒中
兵庫県立あわじ石の寝屋緑地の入口は神戸淡路鳴門自動車道の下をくぐってさらに少し歩いた先のところにあります。ここの標高が71m、すでに70mばかり登っています。入口近くには駐車場があり、犬を散歩に連れてきている人と出会いました。
そこからまだしばらくは舗装された道を行き、やがて一般向きと健脚向きの道に分かれ土の道に変わります。私たちは一般向けコースをとりました。どちらも同じ一周2kmの道ですが、一般向けは上りの傾斜がゆるやかで下りの傾斜がきつくなっています。
オススメ散策ルートとパンフレットには記載されているものの、これは散策ではなく立派な登山です。ところどころに休むためのベンチがあり、やがてウバメガシのトンネルを抜けると標高230mの空中展望台に出ます。神戸方面の展望が大きく開けていました。

兵庫県立あわじ石の寝屋緑地の入口は神戸淡路鳴門自動車道の下をくぐってさらに少し歩いた先のところにあります。ここの標高が71m、すでに70mばかり登っています。入口近くには駐車場があり、犬を散歩に連れてきている人と出会いました。
そこからまだしばらくは舗装された道を行き、やがて一般向きと健脚向きの道に分かれ土の道に変わります。私たちは一般向けコースをとりました。どちらも同じ一周2kmの道ですが、一般向けは上りの傾斜がゆるやかで下りの傾斜がきつくなっています。
オススメ散策ルートとパンフレットには記載されているものの、これは散策ではなく立派な登山です。ところどころに休むためのベンチがあり、やがてウバメガシのトンネルを抜けると標高230mの空中展望台に出ます。神戸方面の展望が大きく開けていました。

寒中の酒蔵の暖簾をくぐる
◆寒中
瀬戸川の手前で海岸線から離れ茨木酒造へ向かいました。嘉永元年(1848)創業、明石市内に残る6軒の酒蔵のひとつです。播磨平野は山田錦に代表される酒米の好適地であり、明石は水と季節風の条件に恵まれ最盛期には70軒の酒蔵がありました。
茨木酒造は年間製造量200石と非常に小規模な酒蔵ながら常設店舗があります。軒下に杉玉が下がり、銘柄の来楽(らいらく)が染め抜かれた紺の暖簾をくぐって店舗に入りました。

瀬戸川の手前で海岸線から離れ茨木酒造へ向かいました。嘉永元年(1848)創業、明石市内に残る6軒の酒蔵のひとつです。播磨平野は山田錦に代表される酒米の好適地であり、明石は水と季節風の条件に恵まれ最盛期には70軒の酒蔵がありました。
茨木酒造は年間製造量200石と非常に小規模な酒蔵ながら常設店舗があります。軒下に杉玉が下がり、銘柄の来楽(らいらく)が染め抜かれた紺の暖簾をくぐって店舗に入りました。
