優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

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十月
北一硝子というガラス製品を扱う店も多く、なぜ小樽でガラス?と思いました。明治から昭和初期にかけてニシン漁でにぎわった小樽では、その浮き玉や石油ランプのホヤとしてガラスが使われました。しかし、その後、ランプは電気に、浮き玉はガラスからプラスチックに取って代わられました。

現在の北一硝子は、大阪でガラス製造を学んだ創業者が、1901年に浅原硝子として小樽で石油ランプを製造したのが始まりです。実用的なものが技術革新を経て実用を離れ、装飾品や趣味の品へと変化していきました。こういう転換を図れなかったところは滅びるしかなかったでしょう。小樽が経済都市から観光都市に変わったのにあわせて変身を遂げ、小樽のお土産として生き残っています。

ガラス製品のきらめきのせいもあったでしょうが、小樽とヴェネツィアが重なる思いがしました。地中海の覇権を争った海洋都市国家ヴェネツィアは、大航海時代以降、政治の舞台から降りて観光文化都市として生き残りました。小樽もそういう道をたどったのです。
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秋の昼
小樽の観光の中心は堺町本通です。ここに多くのガラス製品を売る店、スイーツ店などが並んでいます。北海道を代表するスイーツの六花亭、北菓楼、LeTAOが軒を連ねています。LeTAOでお茶を飲みスイーツを食べました。

LeTAOで接客してくれた店員さんのひとりは韓国の方、もうひとりは中国の方のようでした。いかにこれらの地域からの観光客が多いかがわかります。
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蔦紅葉
昼の運河は夜とはまた異なる趣です。運河のそばで水彩画を描いている人があり、よくここで絵を描かれるそうで、個展を開かれたときの絵葉書をいただきました。運河沿いの壁には、昭和のムード歌謡の傑作『小樽の人よ』のプレートが埋め込まれています。

運河からさらに東へ歩いて行くと、埠頭へ出ます。人影は少なく、観光客は運河から南の方向に伸びる堺町本通に立ち並ぶ土産物店に集中しています。観光客は日本人よりも圧倒的にアジアから来たと思われる人達が多く、中国語、韓国語、さらに南方のアジアの言葉が飛び交っていました。
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黄葉かつ散る
小樽運河へと下る道のかたわらにはプラタナスが植えられており、黄葉しつつも散っていました。旧日本銀行小樽支店をはじめ、重厚な建物が多く、近代建築ファンにはこたえられない場所だろうと思います。取り壊されずに残り、今はすべて別の用途で使われています。

かつては北海道経済の中心的存在であったものの、経済的に衰退し中心は札幌に移りました。繁栄した時代の建築物を観光資源として再生し、今では年間700万人以上が訪れる観光都市になっています。衰退したがゆえに栄華の歴史が留められた、といえそうです。
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晩秋
翌日の午前中は小樽運河周辺をもう一度見て回りました。運河へと下りていく坂の途中で手宮線の廃線跡に出会いました。線路を目にしたときは一瞬市電が走っているのかと思いました。かつて南小樽駅から手宮駅を結んで国鉄が運営していた貨物線でした。

北海道で最初の鉄道開業区間の一部で、石炭や海産物の積み出しで賑わいましたが、1985年(昭和60年)11月5日に廃止されました。廃線跡にもかかわらず、駅舎や線路、踏切などがそのまま残されており、観光資源になっているようです。
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秋の夜
初日の夜はオーセントホテル小樽に泊まりました。小樽の運河まで坂を下れば歩いて10分ほどのところです。旧日本銀行小樽支店など、かつて「北のウォール街」と呼ばれて繁栄した時代の名残の建物があちこちにあります。

夕食は運河沿いの回転寿司・函太郎でとりました。運河沿いは夜でも観光客の姿が多く、大勢の観光客を載せた船が運航していました。水の上から眺める景色というのは、陸上とは一味違います。
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