優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

タグ:海津大崎

チューリップ
チューリップもあちこちで見かけました。湖岸の桜の下でけなげに咲いているチューリップ。さまざまな色があり、ひとめでそれとわかる特徴を持つチューリップは、春の花壇に欠かせない花です。子どもが最初に花の名前を覚えるのもチューリップではないでしょうか。
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喇叭水仙
ラッパスイセンは地中海地方が原産です。西ヨーロッパのスペイン、ポルトガルからドイツ、イギリスにかけて分布します。三月から四月にかけて香り高い花を咲かせます。花は一般に黄色で、内側の副花冠がラッパのように突き出ていることからこの名前になりました。IMG_2180



交通規制の行われていたところから先の桜並木は少し樹齢が若いようでした。海津で最初に植樹された後、時代を経てだんだんに桜並木が延びていったと思われます。IMG_2166
二本松はコテージが並ぶキャンプ場です。夏には大勢の人が水上スポーツを楽しみにやってくるのでしょう。ここまで来る花見客はほとんどありません。IMG_2171
湖岸を見れば、この先もまだまだずっと桜並木は続いています。可能な限り桜並木を延ばす計画なのでしょうか。お花見のポイントが分散されるので、それもいいでしょう。
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海津大崎の桜並木の独特の美しさは、湖北の風景の美しさにあるでしょう。数キロに渡ってソメイヨシノの並木が続くというのも独特ですが、それならば、他のところでも実現しそうです。
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ここにしかないのは青い奥琵琶湖の水、琵琶湖周辺には珍しい岩礁地帯、沖の竹生島、これらがすべて複合して海津大崎の桜の美しさを際立たせているのです。IMG_2169


枝垂桜
海津大崎の桜並木はほとんどがソメイヨシノです。しかし、中にはそれ以外の桜もちらほら混じっています。オオシマザクラと思われるものもありましたし、濃い色彩のシダレザクラは見事でした。IMG_2164
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花見
竹生島に向かう定期船のほかに、お花見の船が湖岸を航行しています。船がすれ違うときに船客同士が手を振り合っています。私たちも手を振ったら振り返してくれました。IMG_2158
トンネルが終わったあたりで警官が交通規制にあたっていました。東からやってくる車やオートバイをUターンさせ、別ルートへと誘導しています。IMG_2160
車の半分くらいは滋賀県ナンバーですが、それ以外は京都、大阪、奈良、三重といった近隣の府県ナンバーが多く、神戸や名古屋といった車もありました。IMG_2157
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大崎寺を過ぎると歩いている花見客の姿が少なくなります。JRマキノ駅から大崎寺まで歩くと片道4kmほどあります。ほとんどの人がここから駅に戻るのでしょう。
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私たちはさらに4kmほど先にある二本松キャンプ水泳場を目指しました。「海津大崎お花見マップ」にはそこまでの案内図があり、桜並木は続いています。IMG_2152
人が少なくなったので、自転車が颯爽と行き来する姿が目立つようになりました。IMG_2153
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大崎寺から先は常に竹生島を見ながらコーンで仕切られた県道557号を歩いて行きました。トンネルが連続し、トンネルを出ると桜です。
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竹生島は全域が滋賀県長浜市早崎町に属します。島全体が花崗岩の一枚岩からなり、切り立った岩壁で囲まれています。IMG_2150
古来から信仰の島として知られ、南側に都久夫須麻神社、西国三十三ヶ所霊場の宝巌寺があります。針葉樹の中に寺社が点在するさまが独特の美しさを形成し、琵琶湖八景に選ばれています。IMG_2151


花見船
大崎寺の下にある船着場からは竹生島行きの船が発着しています。その向こうを花見客を載せた船が横切っていきます。IMG_2144
県道557号は東行きのみに交通規制されています。それでもノロノロ運転の渋滞です。その横を花見客が歩いており、さらに自転車も走ります。歩行場所はコーンで区切られていました。IMG_2145
ここから先の県道はトンネルが五つ連続します。海津大崎を回った先の二本松まで行くつもりでしたから、大崎寺でほぼ行程の半分くらいでした。IMG_2146


若楓
海津大崎には、近江西国九番の霊場・大崎寺があります。石段を登っていくと、楓の若葉がきれいでした。桜と同時期であるため、あまり目立ちませんが、楓の若葉は秋の紅葉に匹敵するようなみずみずしい美しさを持っています。
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1582年(天正10)の本能寺の変の際、明智光秀は信長を攻めた後、居城の安土城を攻撃。蒲生賢秀は変の知らせを受け、信長の夫人や幼児たちを連れて日野城に逃れました。残っていた信長の家臣たちは皆奮戦の後、切腹して果てます。IMG_2142
その後、光秀を討った秀吉はこのとき戦死した人々の菩提を弔うため、安土城の城材で大崎観音堂を修繕し、法要を営みました。これが「安土の血天井」です。1966年(昭和41)の観音堂改修に際し阿弥陀堂に移されました。今も梅雨の時期には血痕の痕跡が現われると言われています。IMG_2141
阿弥陀堂の先まで行くと、竹生島が目の前に見えるようになってきます。IMG_2139


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