優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

タグ:福原京


厳島神社の境内ではフジが咲き始めていました。花々は季節のバトンを受け渡すように次々と少しずつ時期をずらしながら咲いて行きます。花粉を媒介してくれる昆虫たちの便宜をはかってのことでしょう。

ソメイヨシノが咲いていた時期ならお花見の人の姿もあったかもしれません。開花がトップニュースになる桜は別格としても、それぞれの時期に咲く花の名所をニュースとして取り上げる日本は、やはり風流の国だと思います。
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桜蘂降る
氷室神社から南へ下りました。神戸の六甲山以南の地は南北がわかりやすい地形です。途中熊野神社へ参拝しました。平清盛が福原遷都にあたり紀州から熊野権現を勧請したものです。境内は比較的広く拝殿の隣にヒラドツツジが咲いていました。

そこからさらに南へ下り、JR神戸駅近くのビルに囲まれた一画に厳島神社があります。治承4年(1180)清盛は、大輪田泊の修築と兵庫の地の繁栄を祈願して、平家一門の氏神として崇敬する安芸国厳島神社をこの地に勧請しました。

拝殿の隣にソメイヨシノが植えられており、今は花を終えて蘂が散り敷いているところでした。花の時期には見事だっただろうと思います。
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君子蘭
福原京跡の住宅地ではモッコウバラ、ナニワイバラ、バラ、クンシランなどあちこちで庭に咲く花を見ました。花の咲き方は全体に早く、街路ではヒラドツツジも咲き始めています。

氷室神社は源平合戦の際には平教経の陣所となりました。ここはまた、平通盛と妻・小宰相局の別れの地と言われています。通盛は一の谷の戦で戦死し、小宰相局は海に身を投げ後を追いました。

市杵島姫命は縁結びの神様とされ、境内には恋愛成就を願う絵馬などが多数見られました。通盛と小宰相局の伝説もこれにロマンチックな彩りを与えているように思えます。
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春たけなわ
さらに西へ向かい住宅地の中を進みます。神戸は坂の街で若く元気なときはいいかもしれませんが、高齢になり足腰が弱ると暮らしにくいだろうと感じます。自転車はみな電動補助付きです。

氷室神社は六甲山系菊水山の麓にあり、創建の歴史は詳らかではないものの、仁徳天皇の時代(374年頃)に神社の奥から氷室が発見されたのが名前の由来です。福原遷都の際、平清盛は広島の厳島神社から市杵島姫命をここに勧請し、兵庫七弁天のひとつとしました。
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春深し
このあたりは雪見御所町という地名です。石井川と天王谷川の合流点にあたり、平清盛の別荘・雪見御所がありました。清盛が太政大臣を辞した後の仁安4年(1169)春以降、摂州平野のこの景勝地に移り住んだことは、朝廷への上奏文に残っています。

明治41年(1908)湊山小学校の校庭から礎石や土器が発掘され、雪見御所跡の碑が建てられました。現在、小学校は廃校になり校舎はリノベーションされて、隣は来館者用の駐車場になっています。まさに「諸行無常の響きあり」。
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春暑し
山麓線まで下り氷見神社へ向かいました。商店街ながら土曜日にもかかわらずほとんどシャッターが閉まっています。交差点を渡ってさらに西へ行くと「みなとやま水族館」の前に来ました。

閉校した湊山小学校の校舎がNATURE STUDIOという複合施設になっており、水族館はその一角にあります。外観も思い切ったリノベーションがされています。建物の角を曲がると大勢の家族連れの姿がありました。

水族館の入場料が1,200円と結構なお値段だったので、入るのはやめてグラウンドに並べられたテーブルでソフトクリームを食べました。外にはニジマスを釣れる池もあり、その場で焼いてもらえて、食べることもできるようでした。
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ⒸTotti

春の海
祇園神社は祇園山の中腹にあり、すぐ隣を天王川が流れています。これらの地名はこの神社に依ったものでしょう。境内から南を望むと神戸市兵庫区の町並みが広がっています。

平清盛が福原京を開いたころ、ここからはどのような眺めだったのでしょうか。福原荘・和田荘、さらに兵庫五泊のひとつで、清盛が大改修し日宋貿易の拠点となった大輪田泊まで見渡せたはずです。
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春深し
貞観11年(869)といえば、東日本大震災で注目を浴びた貞観大地震のあった年です。貞観6年(864)からは富士山の噴火も続いており、疫病の流行も重なって社会不安が深刻化していました。

これらは怨霊の祟りであるとされ、それらを鎮めるために祇園御霊会が始まりました。さらに、怨霊を鎮める力を持つスサノオノミコトを広峯神社から分祠することになったのです。

それ以来1150年以上に渡って信仰を集め、安土桃山時代以降は8軒の家が宮座を組み、2軒ずつが1年ごとに神主役を奉仕してきたといいます。今日も御祈祷を受けに来ている人の姿がありました。
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坂道を登って、さらに八十八段の石段を登りきると祇園神社です。清和天皇の貞観11年(869)、姫路の広峯神社から京都の八坂神社に牛頭天王(ごずてんのう)を分祠した際、その神輿が平野の地で一泊しそれを記念してここに社を建てたのが始まりです。

牛頭天王はスサノオノミコトと同一視され、祇園精舎の守護神とされています。このあたりの地名に祇園があったのはそういう縁だったのです。
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さらに有馬街道を北に登っていくと、「塞神(さえのかみ)広場」との表示があり、小さな松が植えられています。昔、このあたりに「塞神の松」と呼ばれる大きな松があり、和田の沖を行く船が舵取りの目印にしたほどだったと伝えられています。

ここ平野は福原京の中心地域であり、大輪田泊や福原荘・和田荘を見晴らすことができました。平清盛の邸宅はここにあり、平野殿と呼ばれていたと記録にあります。

平成6年(1994)、国道428号線拡幅整備工事にともなう発掘調査で、この広場のすぐ西側から底に石を敷く貴族の邸宅の庭園跡が見つかりました。宋からの輸入陶磁器や大量の土器から当時の貴族の生活をうかがうことができます。
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