タグ:福原京
神戸厳島神社に桜蘂降る
君子蘭氷室神社へ向かう道
春たけなわ電動自転車行き交えり
◆春たけなわ
さらに西へ向かい住宅地の中を進みます。神戸は坂の街で若く元気なときはいいかもしれませんが、高齢になり足腰が弱ると暮らしにくいだろうと感じます。自転車はみな電動補助付きです。
氷室神社は六甲山系菊水山の麓にあり、創建の歴史は詳らかではないものの、仁徳天皇の時代(374年頃)に神社の奥から氷室が発見されたのが名前の由来です。福原遷都の際、平清盛は広島の厳島神社から市杵島姫命をここに勧請し、兵庫七弁天のひとつとしました。
さらに西へ向かい住宅地の中を進みます。神戸は坂の街で若く元気なときはいいかもしれませんが、高齢になり足腰が弱ると暮らしにくいだろうと感じます。自転車はみな電動補助付きです。
氷室神社は六甲山系菊水山の麓にあり、創建の歴史は詳らかではないものの、仁徳天皇の時代(374年頃)に神社の奥から氷室が発見されたのが名前の由来です。福原遷都の際、平清盛は広島の厳島神社から市杵島姫命をここに勧請し、兵庫七弁天のひとつとしました。
清盛の雪見御所跡春深し
水族館になった学校春暑し
◆春暑し
山麓線まで下り氷見神社へ向かいました。商店街ながら土曜日にもかかわらずほとんどシャッターが閉まっています。交差点を渡ってさらに西へ行くと「みなとやま水族館」の前に来ました。
閉校した湊山小学校の校舎がNATURE STUDIOという複合施設になっており、水族館はその一角にあります。外観も思い切ったリノベーションがされています。建物の角を曲がると大勢の家族連れの姿がありました。
水族館の入場料が1,200円と結構なお値段だったので、入るのはやめてグラウンドに並べられたテーブルでソフトクリームを食べました。外にはニジマスを釣れる池もあり、その場で焼いてもらえて、食べることもできるようでした。
ⒸTotti
山麓線まで下り氷見神社へ向かいました。商店街ながら土曜日にもかかわらずほとんどシャッターが閉まっています。交差点を渡ってさらに西へ行くと「みなとやま水族館」の前に来ました。
閉校した湊山小学校の校舎がNATURE STUDIOという複合施設になっており、水族館はその一角にあります。外観も思い切ったリノベーションがされています。建物の角を曲がると大勢の家族連れの姿がありました。
水族館の入場料が1,200円と結構なお値段だったので、入るのはやめてグラウンドに並べられたテーブルでソフトクリームを食べました。外にはニジマスを釣れる池もあり、その場で焼いてもらえて、食べることもできるようでした。
ⒸTotti
春の海は街の彼方に見えるかも
春深し御祈祷受ける人のあり
ひたすらに長き石段登る春
◆春
坂道を登って、さらに八十八段の石段を登りきると祇園神社です。清和天皇の貞観11年(869)、姫路の広峯神社から京都の八坂神社に牛頭天王(ごずてんのう)を分祠した際、その神輿が平野の地で一泊しそれを記念してここに社を建てたのが始まりです。
牛頭天王はスサノオノミコトと同一視され、祇園精舎の守護神とされています。このあたりの地名に祇園があったのはそういう縁だったのです。
坂道を登って、さらに八十八段の石段を登りきると祇園神社です。清和天皇の貞観11年(869)、姫路の広峯神社から京都の八坂神社に牛頭天王(ごずてんのう)を分祠した際、その神輿が平野の地で一泊しそれを記念してここに社を建てたのが始まりです。
牛頭天王はスサノオノミコトと同一視され、祇園精舎の守護神とされています。このあたりの地名に祇園があったのはそういう縁だったのです。
春の坂道登れば祇園遺跡
◆春
さらに有馬街道を北に登っていくと、「塞神(さえのかみ)広場」との表示があり、小さな松が植えられています。昔、このあたりに「塞神の松」と呼ばれる大きな松があり、和田の沖を行く船が舵取りの目印にしたほどだったと伝えられています。
ここ平野は福原京の中心地域であり、大輪田泊や福原荘・和田荘を見晴らすことができました。平清盛の邸宅はここにあり、平野殿と呼ばれていたと記録にあります。
平成6年(1994)、国道428号線拡幅整備工事にともなう発掘調査で、この広場のすぐ西側から底に石を敷く貴族の邸宅の庭園跡が見つかりました。宋からの輸入陶磁器や大量の土器から当時の貴族の生活をうかがうことができます。
さらに有馬街道を北に登っていくと、「塞神(さえのかみ)広場」との表示があり、小さな松が植えられています。昔、このあたりに「塞神の松」と呼ばれる大きな松があり、和田の沖を行く船が舵取りの目印にしたほどだったと伝えられています。
ここ平野は福原京の中心地域であり、大輪田泊や福原荘・和田荘を見晴らすことができました。平清盛の邸宅はここにあり、平野殿と呼ばれていたと記録にあります。
平成6年(1994)、国道428号線拡幅整備工事にともなう発掘調査で、この広場のすぐ西側から底に石を敷く貴族の邸宅の庭園跡が見つかりました。宋からの輸入陶磁器や大量の土器から当時の貴族の生活をうかがうことができます。