優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

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昨日は姫路市の隣の高砂市高砂町へハイキングに行ってきました。山陽電鉄高砂駅の南側に広がるこのあたりは、江戸時代には北前船寄港地、船主集落として栄えました。今も古い町並みが残り、「兵庫県歴史的景観形成地域」「日本遺産」に選定されています。

8日午後から雨になっていましたが、それも朝にはあがり高砂駅を出る頃には陽がさしていました。途中、飾磨駅近くで秋祭りの屋台が運行しているのが見えました。海沿いは播州の中でも特に秋祭りが盛んで、屋台の大きさや練子の装束も一段映えます。

高砂町の氏神である高砂神社の秋祭りは10日、11日です。町の辻には幟とシデ飾りが並び、紙垂をつけた細縄が張られ、細い青竹が立っていました。
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朝食の後、病棟内を散歩しました。昨夜は雨だったようです。病室では窓側ではないので天候が全くわかりません。外界ではそろそろヒガンバナが咲いているかなあと思いますが、ここでは自然は窓から眺める景色だけです。

ベッドにいると主治医チームの一番若い先生とリーダーの先生が来られました。足首の傷を見たあと、現在時点での検査結果について少し話してくださいました。リーダーの先生にとっても珍しい症例とのことでした。
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土曜日のCT検査の後、主治医が足首の傷の状態を診ると同時にこれからおこなう遺伝子検査についての説明をしてくださいました。阪神淡路大震災を経験していない世代の若い医師で、説明を書くペンが、USJのキャラクターのピンクのものでした。

看護師もそれぞれちょっとしたところにキャラクターグッズを使っています。持っている携帯電話のショルダーストラップには「医療用」とでかでかと書いてあります。これで業務連絡をとっており、患者の誤解を招かないためでしょう。

キャラクター大国、カワイイ大国の日本です。それぞれプロとしての仕事を果たしつつ、こうしたグッズで癒しのひとときを得ておられるのでしょう。患者にとってもほっと気持ちが和むものです。心電図をとったとき天井にアンパンマンのキャラが貼ってありました。
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前日の神経生検の影響で一日は歩くことができないため、車椅子でMRIに連れて行ってもらいました。一階まで下りるとそこには外来患者が大勢いて、病院内にあるコーヒーショップからコーヒーのいい香りが漂ってきました。

ほんの一週間入院しているだけですが、外の気温とも天気とも切り離され、何もせずとも三食がさっと出てくる生活をしていると、培養ルームにいるようです。
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入院していると楽しみは食事と入浴です。何もしなくても三食が配膳されるのは最高です。コロッケや天ぷらが揚げたてというわけにはいきませんが、品数は多く、先日の重陽の日の献立で感心したように、食事を楽しめるよう工夫されています。

デザートがついてきたり、茶碗蒸しの入れ物が陶器だったりします。私は普通食を食べていますが、糖尿病や腎臓病などさまざまな治療食、咀嚼や嚥下の具合によるきざみやとろみ食などいろいろな治療上の求めにも応える必要があります。

最近はベジタリアンとか宗教上のさまざまな制約を持った人の入院もあるでしょう。そうした人への配慮も求められるようになっており、大変だろうと思います。
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病室は7階の4人部屋です。最大6人は入れる構造になっています。それぞれの場所はカーテンで区切れるようになっており、閉めれば音声以外は個室状態になります。窓側のベッドではないため、外は見えません。

完全空調でここにいる限り季節も天候もわかりません。二日目の昨日から病棟内を少し歩いてみました。すると、南側の窓から金剛山が見えました。2016年12月にこの山に登りました。登れるときに登っておいてよかったなあと思います。
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本堂の左手には多宝塔があります。慶長6年(1601)に池田輝政によって再建されたと伝えられています。さらに宝永7年(1710)には土岐頼殷がこれを修理したと露盤銘に記されています。全体には和様・唐様を混ぜた江戸中期ごろの手法が見て取れるようです。

慶長6年といえば、関ヶ原の戦いの翌年であり、池田輝政は同年から姫路城の大改修にも着手しています。
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夏を象徴する花といえばやはりヒマワリです。夏の間背筋をのばして立っていた大輪のヒマワリも秋を迎え、種が実って頭が重くなりだんだんと頭を垂れてきています。夏の暑さに疲れた人のようで、「お疲れ様でしたねぇ」と一声かけたくなります。
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須磨寺は、仁和2年(886)光孝天皇の勅命により聞鏡上人が建立した真言宗須磨寺派の総本山です。奥の院に至る道には十三仏と七福神を巡拝できるよう整備されています。それぞれの神仏の真言が記されており、それを唱えて参拝できました。
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一ノ谷の合戦でよく知られているのは平敦盛です。敦盛は清盛の弟である経盛の末子、沖の船に逃れようと汀に馬を乗り入れていたところ、背後から熊谷直実に「敵に背中を向けて逃げるとは卑怯」と呼び止められます。

その場面が須磨寺の境内に銅像になって残されています。この後、敦盛は引き返し直実と組み合って馬上から落とされます。首を切ろうと直実が兜を押し上げると、自分の息子と同じ年頃の美しい少年です。敦盛は15歳でした。

なんとか命を助けられないかと直実は思いますが、背後に味方の軍勢が迫っています。泣く泣く首を落とした直実は、武家に生まれたものの身の辛さを嘆きます。敦盛は腰に笛を携えており、昨夜戦場に響いていた笛はこの人のものであったか、と直実は悟ります。
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