タグ:秋深し
秋深し最前列は戦死者よ
◆秋深し
古くからある集落の墓地へ行くと、一番目立つ位置に戦死者の墓があります。特徴的な四角錐をしていて一目でそれとわかります。側面に亡くなった場所と日時、享年が刻まれています。
ここでも10人ほどの墓石が並んでいました。亡くなったのは中国大陸か太平洋の島々、年齢は20代が大半です。どこの墓地でもだいたいこういう感じですから、いかに大勢の若い人が亡くなったか、日本全国なら目がくらむような数です。
中にブーゲンビル島がありました。可愛らしい名前だと思って調べてみると、とんでもない話で、「墓島」と呼ばれるほどの悲惨な戦いが1年9か月に渡って繰り広げられています。日本側の戦死者2〜3万とされ、連合軍の10倍以上の死者数です。
古くからある集落の墓地へ行くと、一番目立つ位置に戦死者の墓があります。特徴的な四角錐をしていて一目でそれとわかります。側面に亡くなった場所と日時、享年が刻まれています。
ここでも10人ほどの墓石が並んでいました。亡くなったのは中国大陸か太平洋の島々、年齢は20代が大半です。どこの墓地でもだいたいこういう感じですから、いかに大勢の若い人が亡くなったか、日本全国なら目がくらむような数です。
中にブーゲンビル島がありました。可愛らしい名前だと思って調べてみると、とんでもない話で、「墓島」と呼ばれるほどの悲惨な戦いが1年9か月に渡って繰り広げられています。日本側の戦死者2〜3万とされ、連合軍の10倍以上の死者数です。
ボンファイヤー囲み踊れば秋深し
◆秋深し
自然学校最後の夜はボンファイヤーです。三日月が沈みあたりが暗闇に包まれる頃、芝生広場の一画にある焚火場で始まりました。みんなで呼んだ火の神が組み上げられた木に点火します。そこからの進行はキャンプリーダーの二人が担いました。
彼女たちはゲームなどを盛り込みながら子どもたちを盛り上げていきます。最後はプラスチックカップに入れたキャンドルを歩道の両端に並べるキャンドルサービスをおこなう予定で、私たちもチャッカマンを手に待ち構えていました。
ところが、その夜は風が強く火が消えてしまうことがわかり、中止せざるをえませんでした。それでも子どもたちはとても感動し、大勢が泣いていました。ちょっとやんちゃ気味の子の方がおいおい泣いているのが印象に残りました。
自然学校最後の夜はボンファイヤーです。三日月が沈みあたりが暗闇に包まれる頃、芝生広場の一画にある焚火場で始まりました。みんなで呼んだ火の神が組み上げられた木に点火します。そこからの進行はキャンプリーダーの二人が担いました。
彼女たちはゲームなどを盛り込みながら子どもたちを盛り上げていきます。最後はプラスチックカップに入れたキャンドルを歩道の両端に並べるキャンドルサービスをおこなう予定で、私たちもチャッカマンを手に待ち構えていました。
ところが、その夜は風が強く火が消えてしまうことがわかり、中止せざるをえませんでした。それでも子どもたちはとても感動し、大勢が泣いていました。ちょっとやんちゃ気味の子の方がおいおい泣いているのが印象に残りました。
朝凪の浜辺に立てば秋深し
梁太き江戸の屋敷や秋深し
秋深き窓に瓦のいぶし銀
交通の移り変わりや秋深し
◆秋深し
高砂銀座商店街を抜けると国鉄高砂線高砂駅跡地に出ます。加古川流域の貨物と人の輸送のためすでに設立されていた播州鉄道が、大正3年(1914)さらに延伸され、高砂と加古川を結ぶ路線としてここに高砂駅ができました。
これによって加古川の舟運は終焉を迎えました。昭和18年(1943)6月、国有化され国鉄高砂線になりました。戦後、沿線への企業進出によって活気を呈していましたが、やがてモータリゼーションの進展により貨物・旅客輸送量が減少していきます。
昭和59年(1984)に国鉄高砂線は廃止され、高砂駅跡は車輪のモニュメントを配置した小さな公園になっています。これも時代の流れ、栄枯盛衰、諸行無常です。
高砂銀座商店街を抜けると国鉄高砂線高砂駅跡地に出ます。加古川流域の貨物と人の輸送のためすでに設立されていた播州鉄道が、大正3年(1914)さらに延伸され、高砂と加古川を結ぶ路線としてここに高砂駅ができました。
これによって加古川の舟運は終焉を迎えました。昭和18年(1943)6月、国有化され国鉄高砂線になりました。戦後、沿線への企業進出によって活気を呈していましたが、やがてモータリゼーションの進展により貨物・旅客輸送量が減少していきます。
昭和59年(1984)に国鉄高砂線は廃止され、高砂駅跡は車輪のモニュメントを配置した小さな公園になっています。これも時代の流れ、栄枯盛衰、諸行無常です。
秋深き美瑛の丘のダリアかな
秋深しラベンダーの色深し
◆秋深し
富良野では、1950年代終わりから60年代にかけてラベンダーの栽培が盛んとなり、ピーク時には250戸の栽培農家がありました。しかし、1972年から貿易の自由化と合成香料の進歩により、ラベンダーオイルの価格が急落。ラベンダー農家は「ファーム富田」のみになってしまいました。
1976年、国鉄のカレンダーにラベンダー畑が採用されたことをきっかけに観光客が訪れるようになりました。さらにドラマ『北の国から』が人気を呼んだことから観光客が増え、夏のラベンダーの最盛期には周辺道路が大渋滞するほどになっています。
富良野では、1950年代終わりから60年代にかけてラベンダーの栽培が盛んとなり、ピーク時には250戸の栽培農家がありました。しかし、1972年から貿易の自由化と合成香料の進歩により、ラベンダーオイルの価格が急落。ラベンダー農家は「ファーム富田」のみになってしまいました。
1976年、国鉄のカレンダーにラベンダー畑が採用されたことをきっかけに観光客が訪れるようになりました。さらにドラマ『北の国から』が人気を呼んだことから観光客が増え、夏のラベンダーの最盛期には周辺道路が大渋滞するほどになっています。