優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

タグ:銀の馬車道

はくれん
銀の馬車道は「日本最初の高速産業道路」ですが、今は集落の軒先をかすめて走る道です。道幅が狭いのにむこうから路線バスがきたりするので油断できません。

集落には昔からの家が残っており、庭にハクモクレンが咲いているお宅もたくさんありました。市川の河岸段丘を利用して作られているため、集落が途切れると田んぼと遠くの山が見渡せます。
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春の日
水曜日は快晴でした。実家の土地の名義変更に必要な謄本類をとりに町役場まで銀の馬車道を走って行ってきました。かつて生野銀山と飾磨港をつないだ道で日本最初の産業高速道路と言われ、日本遺産に指定されています。

相続登記が2024年4月1日から義務化されます。相続で不動産を取得した場合、3年以内に登記・名義変更をしなければ10万円以下の過料の対象になります。

両親はどちらも生まれてからそれほど移動していませんから必要書類の数は少なくてすみました。これが多くなると素人の手にはおえなくなるでしょう。
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秋晴
昨日は抜けるような青空が広がる晴天でした。母が亡くなりいろいろな書類上の手続きが必要なため、戸籍謄本をもらいに地元の役場へ行ってきました。ドライブには「銀の馬車道」を通って行きました。

銀の馬車道は正式名称を生野鉱山寮馬車道といい、明治9年(1876)生野鉱山と飾磨港(姫路港)を結ぶために明治政府がつけた49kmの日本最初の高速産業道路です。生野鉱山で産出された銀の精錬に必要な石炭や物資、そこで働く人々の日用品を運びました。

明治28年(1895)に播但鉄道(現在のJR播但線)が開業したことによりその役割を終え、馬車道跡は国道や県道に姿を変えました。21世紀に入ってから、歴史として「銀の馬車道」を掘り起こそうというプロジェクトが始まり、日本遺産にも指定されています。
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このあたりの市川の左岸には山が迫っています。明治維新直後、生野銀山と飾磨港をつなぐためここに石畳を敷いた道路が完成しました。「銀の馬車道」と呼ばれ、日本最初の高速産業道路になりました。

この道は現在のJR播但線が開通するまで主な産業道路として使用され、それらの遺構が日本遺産に登録されています。この橋の名前が「生野橋」であるのは、その歴史的経緯によるものです。
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集落の中に昔からある墓地では、戦死者のお墓が前面に立っていることが多いです。墓標の上部がピラミッド型になっているので、一目で戦死者のものとわかります。これらの墓もそうでした。墓標の横にはいつどこで何歳で亡くなったかが刻まれています。昭和19年、20年というものばかりで、最も若い人は18歳でした。
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銀の馬車道を再び姫路まで戻ってくると、船津町のあたりでお墓の前に見事な枝ぶりの桜が満開になっていました。一本だけなので周囲にはばかることなく思うまま咲いている感じです。桜は華やかであると同時に死を連想させる花です。滅ぶことと美しさは表裏一体、滅ぶからこそ美しい、とでもいいましょうか。
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チューリップ
銀の馬車道沿いに少し入ってみると集落のなかにチューリップが植えられていました。中国山地の麓に近く、鹿や猪など害獣が出没して植物を食い荒らすのか、周りはワイヤーの柵に囲まれています。背の低いチューリップは品種改良によるものでしょうか。
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先週の日曜日に銀の馬車道沿いの桜をあちこち見ました。道路から少し高いところに見事な桜が見えたので集落の中に入って道沿いに行ってみると、広場がありグランドゴルフをされていました。「桜を見に来たんです」と言うと、「ここの桜はええやろ」とにっこり。
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遠ざくら
峠の上から眺めると、あちこちに桜、桜です。桜並木も集落の中の公園も。桜の下でお花見をするのもいいですが、こうしてあちこちの桜を一望のもとに眺めるというのもいいものです。川向うの小山の頂でたくさんヤマザクラが咲いていました。
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福崎町で銀の馬車道は河岸段丘の上部から下り、市川沿いを走ったようです。市川町、神河町あたりまで、銀の馬車道は現在の国道312号になっていると思われます。日本最初の高速産業道路として日本遺産になっているとはいえ、道路ですから歳月とともに痕跡が消えているのも致し方ないところです。
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