優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

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彼岸花
高砂神社を出た後は再び十輪寺まで戻り、境内の一画のベンチでティータイムにしました。その後、国鉄の線路跡をたどって国鉄高砂駅跡まで行くと、かたわらに白いヒガンバナが咲いていました。
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秋祭
次に高砂神社へ向かいました。謡曲『高砂』発祥の地です。1700年前、神功皇后が三韓征伐から帰国したときに鹿子水門に停泊し、国家鎮護のために大己貴命を祀ったのが神社の始まりとされています。

境内には雌雄一体の相生の松が生えています。尉と姥に姿を変えた伊弉尊と伊弉冉尊が現れ「ここに夫婦の道を示さん」と説いたことから霊松とされ、この松の前で結婚式をあげるようになりました。以来、縁結びと夫婦和合の象徴として信仰を集めています。

10月10日、11日が秋祭りで、境内には幟が立ち並び、出店の準備も整っています。各町の札がかかげられ、世話役らしい人たちが拝殿の前で相談をしていました。

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秋深し
工楽松右衛門旧宅は本瓦葺き木造2階建の江戸時代後期の建物です。1階は通り庭に井戸や炊事場があるほか9部屋が、2階には7部屋があります。平成28年(2016)に高砂市が工楽家より旧宅の寄付を受け、可能な限り当初の建築様式に復元しています。

1階玄関土間から上がっていく中の間の床板は釿(ちょうな)で仕上げられていました。2階へあがる階段からは土間吹き抜け部分の太い梁が見えます。
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爽やか
ランチの後、隣にある工楽松右衛門旧宅へ向かいました。工楽松右衛門(1743-1812)は漁師の息子として高砂市東宮町に生まれました。少年時代に兵庫津(神戸市兵庫区)に出て船乗りになり、御影屋を名乗って海運業をおこないます。

脆弱で長持ちしなかった北前船の帆を改良し、二倍以上の耐久性を持つ帆を考案。松右衛門はこの製造法を秘密とせず多くの職人に伝えたため「松右衛門帆」と呼ばれ、全国に普及しました。今で言えばハイテク技術を無償公開したようなものでしょう。

さらに幕府や藩の依頼を受け函館、択捉島、鞆の津など全国の港を改築します。これにより、幕府から「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」という姓を与えられます。「人として天下のために役立つことを考える」というのが彼の信条でした。
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晩秋
店の壁に時代を感じさせる丸い時計がかけてありました。飾りなのかと思ったら、ちゃんと動いていました。古民家は100年以上の歴史があるといいますが、この時計はいつごろから動き始めたのでしょうか。
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秋野菜
ランチメニューは一種類です。蒸し野菜、味噌汁、サラダ、鶏の唐揚甘酢餡掛けなどが並び、白米か雑穀米が選べて食後にはドリンクがついてきます。蒸し野菜の中にはじゃがいもが半分に切って一個分入っていました。

お料理は見た目以上に食べ応えがあり、お腹いっぱいになりました。サラダのドレッシングが特に印象に残りました。
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秋深し
窓からは道を隔てて工楽松右衛門旧宅の屋根瓦が見えます。室内に下がる照明や各所におかれているアンティークの飾り棚もいい雰囲気を醸し出しています。古い道具がたくさんあるため、小学生以下のお子さんはご遠慮ください、と記されていました。
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十月
昼食は工楽松右衛門旧宅の隣にある古民家カフェ「古陰」でとりました。人気がある店らしく予約の電話を入れたら1階の予約スペースは満席で、2階ならということで開店前に来て待っていました。

築100年以上で炭と塩を扱う商家だったという建物です。内部は太い梁がそのまま見える造りになっています。2階は3間続きの和室で一番奥が一段高くなっており、私たちはその手前の座卓に座りました。
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爽やか
十輪寺のすぐ隣には申義堂があります。江戸時代の文化年間(1804-1819)姫路藩家老河合寸翁の命により、当時高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供し、高砂町北本町に創立された町民による町民のための学問所です。

元旦と五節句、毎日5がつく日以外は毎日授業が行われていました。明治時代になって廃校となり、建物は加古川市に移されました。平成11年(1999)カネカから寄付金を受け復元計画に着手。平成24年(2012)現在地に当初の姿で復元されました。

加古川市から移築した部材をできる限り活用し、構造は木造平屋建て、3間×3.5間、寄棟屋根、本瓦葺です。20畳の座敷1室、奥の間3間、正面縁側の簡素な構成で、正面玄関屋根に飾瓦露盤が葺かれています。ボランティアの方から説明を受けることができました。
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色変えぬ松
国鉄高砂線跡地から線路跡と思われる道を南へ少し行くと西側に十輪寺があります。弘仁6年(815)弘法大師が創建したと伝えられ、後に法然上人が再興して浄土宗に転じました。町歩きガイドに連れられて20人ほどの団体が来ている隣で話をきくことができました。

鎌倉時代に梶原景時の系統が鎌倉からこちらに来て、豪商となり一帯の支配的存在になったとか。歴史では、誰それが滅ぼされた、といっても血族全員が滅ぼされることはなく、誰かは落ちのびて別の土地で裏の歴史を作る、といった意味の話で興味深く思いました。

考えてみれば教育を受けて、文字の読み書き、計算などができる人は今とは比べ物にならないほど貴重だったはずです。頂点の権力争いから外れて地方に行けば、有力者になれたのでしょう。高砂は松の名所であり、寺の境内にも保存樹として立派な松がありました。
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