タグ:高砂市
秋祭明日に控えし神社かな
梁太き江戸の屋敷や秋深し
海翔けし男の旧居爽やかに
◆爽やか
ランチの後、隣にある工楽松右衛門旧宅へ向かいました。工楽松右衛門(1743-1812)は漁師の息子として高砂市東宮町に生まれました。少年時代に兵庫津(神戸市兵庫区)に出て船乗りになり、御影屋を名乗って海運業をおこないます。
脆弱で長持ちしなかった北前船の帆を改良し、二倍以上の耐久性を持つ帆を考案。松右衛門はこの製造法を秘密とせず多くの職人に伝えたため「松右衛門帆」と呼ばれ、全国に普及しました。今で言えばハイテク技術を無償公開したようなものでしょう。
さらに幕府や藩の依頼を受け函館、択捉島、鞆の津など全国の港を改築します。これにより、幕府から「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」という姓を与えられます。「人として天下のために役立つことを考える」というのが彼の信条でした。
ランチの後、隣にある工楽松右衛門旧宅へ向かいました。工楽松右衛門(1743-1812)は漁師の息子として高砂市東宮町に生まれました。少年時代に兵庫津(神戸市兵庫区)に出て船乗りになり、御影屋を名乗って海運業をおこないます。
脆弱で長持ちしなかった北前船の帆を改良し、二倍以上の耐久性を持つ帆を考案。松右衛門はこの製造法を秘密とせず多くの職人に伝えたため「松右衛門帆」と呼ばれ、全国に普及しました。今で言えばハイテク技術を無償公開したようなものでしょう。
さらに幕府や藩の依頼を受け函館、択捉島、鞆の津など全国の港を改築します。これにより、幕府から「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」という姓を与えられます。「人として天下のために役立つことを考える」というのが彼の信条でした。
古時計いまも晩秋の時刻む
秋野菜とりどり入りしランチかな
秋深き窓に瓦のいぶし銀
十月の古民家カフェで昼食を
◆十月
昼食は工楽松右衛門旧宅の隣にある古民家カフェ「古陰」でとりました。人気がある店らしく予約の電話を入れたら1階の予約スペースは満席で、2階ならということで開店前に来て待っていました。
築100年以上で炭と塩を扱う商家だったという建物です。内部は太い梁がそのまま見える造りになっています。2階は3間続きの和室で一番奥が一段高くなっており、私たちはその手前の座卓に座りました。
昼食は工楽松右衛門旧宅の隣にある古民家カフェ「古陰」でとりました。人気がある店らしく予約の電話を入れたら1階の予約スペースは満席で、2階ならということで開店前に来て待っていました。
築100年以上で炭と塩を扱う商家だったという建物です。内部は太い梁がそのまま見える造りになっています。2階は3間続きの和室で一番奥が一段高くなっており、私たちはその手前の座卓に座りました。
爽やかに飾瓦や申義堂
◆爽やか
十輪寺のすぐ隣には申義堂があります。江戸時代の文化年間(1804-1819)姫路藩家老河合寸翁の命により、当時高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供し、高砂町北本町に創立された町民による町民のための学問所です。
元旦と五節句、毎日5がつく日以外は毎日授業が行われていました。明治時代になって廃校となり、建物は加古川市に移されました。平成11年(1999)カネカから寄付金を受け復元計画に着手。平成24年(2012)現在地に当初の姿で復元されました。
加古川市から移築した部材をできる限り活用し、構造は木造平屋建て、3間×3.5間、寄棟屋根、本瓦葺です。20畳の座敷1室、奥の間3間、正面縁側の簡素な構成で、正面玄関屋根に飾瓦露盤が葺かれています。ボランティアの方から説明を受けることができました。
十輪寺のすぐ隣には申義堂があります。江戸時代の文化年間(1804-1819)姫路藩家老河合寸翁の命により、当時高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供し、高砂町北本町に創立された町民による町民のための学問所です。
元旦と五節句、毎日5がつく日以外は毎日授業が行われていました。明治時代になって廃校となり、建物は加古川市に移されました。平成11年(1999)カネカから寄付金を受け復元計画に着手。平成24年(2012)現在地に当初の姿で復元されました。
加古川市から移築した部材をできる限り活用し、構造は木造平屋建て、3間×3.5間、寄棟屋根、本瓦葺です。20畳の座敷1室、奥の間3間、正面縁側の簡素な構成で、正面玄関屋根に飾瓦露盤が葺かれています。ボランティアの方から説明を受けることができました。
色変えぬ松の枝ぶり十輪寺
◆色変えぬ松
国鉄高砂線跡地から線路跡と思われる道を南へ少し行くと西側に十輪寺があります。弘仁6年(815)弘法大師が創建したと伝えられ、後に法然上人が再興して浄土宗に転じました。町歩きガイドに連れられて20人ほどの団体が来ている隣で話をきくことができました。
鎌倉時代に梶原景時の系統が鎌倉からこちらに来て、豪商となり一帯の支配的存在になったとか。歴史では、誰それが滅ぼされた、といっても血族全員が滅ぼされることはなく、誰かは落ちのびて別の土地で裏の歴史を作る、といった意味の話で興味深く思いました。
考えてみれば教育を受けて、文字の読み書き、計算などができる人は今とは比べ物にならないほど貴重だったはずです。頂点の権力争いから外れて地方に行けば、有力者になれたのでしょう。高砂は松の名所であり、寺の境内にも保存樹として立派な松がありました。
国鉄高砂線跡地から線路跡と思われる道を南へ少し行くと西側に十輪寺があります。弘仁6年(815)弘法大師が創建したと伝えられ、後に法然上人が再興して浄土宗に転じました。町歩きガイドに連れられて20人ほどの団体が来ている隣で話をきくことができました。
鎌倉時代に梶原景時の系統が鎌倉からこちらに来て、豪商となり一帯の支配的存在になったとか。歴史では、誰それが滅ぼされた、といっても血族全員が滅ぼされることはなく、誰かは落ちのびて別の土地で裏の歴史を作る、といった意味の話で興味深く思いました。
考えてみれば教育を受けて、文字の読み書き、計算などができる人は今とは比べ物にならないほど貴重だったはずです。頂点の権力争いから外れて地方に行けば、有力者になれたのでしょう。高砂は松の名所であり、寺の境内にも保存樹として立派な松がありました。